第3話 君としあわせになれたなら
「ハンカチとか持った?」
「はい、持ってます。ありすさん、おせちは車に積んでくれましたか?」
「うん、積んだよ。お母さん、喜んでくれるといいね」
「はい!」
「それじゃ、まずは初詣だね。車に乗って。ちゃんとシートベルト付けてね」
「分かりました!」
年が明けて、1月1日の朝。僕とよるは、初詣に向かうべく、朝早くから車に乗って出かけようとしていた。
初詣のあとは、昨日彼女に電話したとおり、彼女の家までおせち料理を届けに行く予定である。
「シートベルトした?」
「はい!」
「じゃ、行こうか」
よるに声をかけてから、僕は車を発進させた。
よると二人きりでこの車に乗るのは、これで二度目だ。元々は、公共交通機関がどうにも苦手で、ひとりでどこでも移動できるように、とこの車を買ったものだ。誰かを乗せたとしても、せいぜい夜宵を乗せるくらいだろうと思っていたが、まさか夜宵以外の人間を乗せることになるとは。人生なにが起こるか分からない。
そんなことを考えていると、不意に隣から視線を感じた。丁度、目の前の信号が赤に変わったこともあり、ブレーキを踏んで、それから視線の主のほうを見る。
「よるちゃん、どうしたの?そんなにまじまじと見て」
「い、いえ……その……」
するとよるは、気まずそうにすっと視線を外した。
「なに?気になることがあるなら早く言いなよ。遠慮なんて要らないからさ」
ほらほら、と煽てると、よるは渋々といった様子で、そして少し申し訳なさそうな顔をして、言った。
「ありすさん、なんか、運転、荒っぽくなくなりましたね」
昔お母さんに連れられて乗った時は、もっと運転荒かったような気がするんですけど。
そんな少女の指摘に、僕は、あー、と天井を仰いだ。再び前を向くと、信号は青に変わっている。僕は慌てて、車を発進させた。
「……実はさ、ちょっと前にスピード違反で切符切られちゃって」
てへ、と舌を出しながら言う。隣の少女は黙ったままだった。
「それからちょっと、スピードとか気をつけるようにしてるの。それに―」
そこまで言って、ちらりと助手席に座る少女を見た。友人の子供である少女。夜宵が、きっと何よりも大切にしたいであろう、愛しい子。
そんな子を預かっているのだ。事故なんて起こしたらたまったものじゃない。
荒い運転で怖がらせるのも嫌だし。
もしかしたら、初めてよるを車に乗せた時、ガチガチに固まっていたのは、昔の僕の運転を覚えていたからかもしれない。もしそうだったら悪いことをしたな、なんてことをぼんやり考えた。
「それに?」
「……んーん、なんでもない」
痺れを切らしたのだろう。よるが、言葉の続きを催促してくるが、それをよるに告げるのは、なんだか恥ずかしいような気がして、僕は口を噤む。
隣でよるが、むう、と不満げな表情を浮かべたような気がしたが、僕はそれに気付かない振りをして、きゅっとハンドルを握りしめた。
初詣も終わり、夜宵のアパートに着いたのは、昼をほんの少しだけ過ぎた頃だった。本当はもう少し早く向かいたかったのだが、元日の人の多さを完全に舐めていた僕は、渋滞に巻き込まれてしまったのである。隣で大きなりんご飴を食べつつ、時々不安そうに「お母さんとこ行くの遅くなっちゃいますね」「お母さんお腹すいてないかなあ」と零すよるの様子に申し訳なさを感じつつも、なかなか進まない車にイライラを覚えながら、どうにか昼過ぎには夜宵のアパートが見えてきた時には、僕としては珍しく、心底安心したものだ。隣で、ほんの2、3日とはいえ生活を共にした幼子の不安そうな声を聞いて、平然としていられるほど酷い人間ではない……と思いたい。
そんなことを考えながら、アパートの駐車場に車を停める。エンジンを切るなり慌ててドアを開け、外へ駆け出そうとするよるを宥めつつ、後部座席からおせち料理を下ろして、僕はよるの右手を握ると、夜宵の部屋へと向かった。
ピンポーン。年季の入ったマンションの、これまた年季の入ったインターホンを押す。やや掠れたような音が響いて、そしていつもならそこですぐに、部屋の中で人の動く気配がするはずだった。
しかし、今日は何かが違った。
「あれ?夜宵、出てこないな」
「寝てるんでしょうか……?」
おかしいな、と思いつつ、もう一度インターホンを押す。
しかし、何度押しても結果は変わらない。
忘れていた、嫌な予感がざわりと胸を覆い尽くした。
「お母さん……?」
隣でよるが、不安と怯えに満ちた声で、母親を呼んだことも、その嫌な予感を増幅させる。
「ちょっと夜宵、大丈夫なの?」
焦って、ドアノブを捻ってみるが、鍵は空いていない。僕は思わず舌打ちをこぼして、隣で泣きそうな顔をしているよるに尋ねた。
「よるちゃん。家の鍵とか持ってない?」
「あ、はい!持ってます!」
ごそごそと、よるがいつも持ち歩いていた小さなポシェットから、鍵を取り出す。キャラクターのストラップが付いた鍵を受け取って、僕は鍵を開けた。
「お母さん!」
「夜宵!」
ドアが壊れそうなほどの勢いで、バタンとドアを開ける。そのまま部屋へと続く短い廊下を慌ただしく駆けて、部屋に辿り着いた。
そこには、布団に横たわったままの夜宵の姿があった。
「夜宵?なーんだ、寝てるだけだったの?インターホンにも気付かないなんて、ひどいなぁ。僕、今日おせち持っていくって言ってたのに」
そう言っても、夜宵が目覚める気配はない。
「お母さん。わたしだよ、よるだよ。ありすさんとおせち料理作ったの。だから、食べてほしいな。ねえ、お母さん……?」
よるが話しかけても、夜宵は目を覚まさない。
「夜宵?やだな、まだ起きないの?」
早く起きなよ。そう言って、夜宵の身体を揺すり起こそうと、僕は彼女の身体に触れる。
その身体は、いやに冷たかった。
「……夜宵?」
もう一度、そっと身体を揺する。それでも彼女は目覚めない。
触れた箇所から伝わるのは、凡そ生きてる人とは違う、冷たい体温だけ。
嫌な予感は、いよいよ抑えきれないくらいに広がって、僕の背中を冷たい汗が伝う。
「夜宵!ねえ、起きてよ!早く!」
「あ、ありすさ……お母さんは……」
「大丈夫だよ、寝てるだけだよ。よるちゃんもお母さんのこと呼んだげて。起きてもらわなきゃ」
「……っ、はい」
泣きそうな顔をしながらも、よるは頷いて、僕と同じようにして、彼女のことを呼び始めた。
「っ、お母さん……ねえ、起きて、起きてよ……起きて、一緒におせち食べよ?ね?お母さん……」
何度も何度も彼女を呼んで、必死で彼女の身体を揺する。
それでも彼女は目覚めない。
きっと、僕もよるも、分かっていたのだ。
冷たい体温。青白くなった肌。
聞こえてこない呼吸音。動かない心臓。
それらにずっと気付いていて、だけどそれを認めたくなくて。ただ彼女は寝ているだけだと思いたくて、必死で彼女を呼んでいた。
だけど、いつかは認めなきゃいけない。現実を、受け止めなくちゃいけない。
夕日が小さな部屋に射し込むような時間になってようやく、僕はその現実を、飲み込む覚悟ができた。
「……よる、ちゃん」
「……はい」
「お母さんのかかりつけ医の電話番号、分かる?」
「……っ、はい……っ」
よるが泣き崩れる声が、ちいさな部屋に響く。
彼女は、乙倉夜宵は、死んだ。
僕を置いて、誰の手も届かない場所に、いってしまった。
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