犬と猫とトマト

名沼菫

第1話 プリン食べちゃった事件

 今朝の僕は、すこぶる機嫌が悪かった。もともと朝は苦手な質で、今朝も、眠気の残る気怠い身体に鞭打ってようやく布団から出てきたくらいなのだけれど、しかし、それもいつも通りで、僕にとってはそれが日常そのものだった。だから最近は特に朝から機嫌が悪くなることが、めっきりと減っていたのだけれど──それが今朝は違ったのだった。

 僕の暮らす──激安二階建てオンボロアパート『笑路荘わろうじそう』、二階は居住スペースで六畳一間の全六部屋、一階は入居者共有スペース、家賃は月額2万5千円という破格のプライスを実現──そんなアパートに暮らす僕は、今現在、一階の共有スペースの台所にて、このオンボロアパートには不釣り合いな真新しい共有冷蔵庫の前で、仁王立ち、及びそこに鎮座しているのであった。


「──で、澪琴ちゃんは、僕のプリンは知らない? 蓋には『面影おもかげのプリン』って油性ペンで書いてから、冷蔵庫に入れて置いたのだけれど。昨日の夜には、冷蔵庫にあったんだよなあ。正確には僕が寝る直前までは、さ」


 僕は澪琴ちゃんこと、水越澪琴みずこしみことを穿った目で見据える──長い髪を両サイドで結っていて、ニキビ一つない綺麗なおでこは広く、利発そうな顔立ちの、中学一年生の女の子である。話題の澪琴ちゃんはといえば、僕の抱く疑念とは裏腹に、なんら素知らぬ顔で、まるで冬眠前のリスのように頬に何かを詰め込んでは、もきゅもきゅと何かを咀嚼している最中だった。間もなくして、咀嚼が終わったかと思うと、どういうわけか、余韻に浸るかのようにうっとり惚けた表情を浮かべる──彼女の小さな左手にはスプーンが、右手には例の何かが入っていたと思わしき空きカップが握られていた。

 

 ──確信犯だった。


「わたしはそんなもの知らないですっ!」


「嘘つけ! じゃあ、今の今まで、僕の目の前で何を咀嚼していたというんだ!? その手に持つモノはなんだと説明するつもりだ!?」


「わたしはプリンなんていう、美味しくてぷりんぷりんした食べ物を知りません! 本当にプリンってなんなんですか!? どうしてあんなに美味しいんですか!」


「それは僕だって知りたいぐらいだ! 僕のプリンを食べた犯人をも含めてね!」


「わたしも面影さんのプリンを食べた、極悪卑劣な犯人の正体を知りたいですっ!」


 この娘。

 馬鹿なの?


「そうか、よしわかった。僕がその犯人を教えてあげようじゃないか──僕のプリンを食べたその極悪卑劣な犯人の正体は、澪琴ちゃん、君だ!」


「違いますっ! わたしは『プリン食べちゃった☆事件』の犯人なんかじゃありません。全くの事実無根、無実の罪なんですっ!!」


 正に犯人の吐く常套句。

 なに『プリン食べちゃった☆事件』だって?

 犯人が事件名を命名しちゃったよ。

 それも事件名が澪琴ちゃん自身の懺悔のそれ。

 それに加えて、ひとつ星だってさ☆。

 ミッション難易度のつもりなのだろうか? 

 それなら間違いなく、星はゼロだ。

 名前改め『プリン食べちゃった事件』 


 閑話休題


「それは正しく、犯人の吐くセリフじゃないか。その言葉をいうヤツは、大抵の場合、真犯人だと相場が決まっているんだ。さあ、観念するんだな。僕は犯人が澪琴ちゃんだと確信しているだからな!」


「早まらないで下さい。面影さんは誤った結論を導き出そうとしています。それに、わたしには無実を証明するアリバイがありますっ!」

 

「僕も鬼ではなあし、アリバイがあると言うなら──聞かないでもないよ」


 ありがとうございます、と澪琴ちゃん。

 アリバイなんてないに決まっているけれど。

 面白そうだから聞かない手はない。

 

「わたしが犯人ではない理由──それは、全身黒タイツではないからですっ!」


 澪琴ちゃんは、言ってやったと言わんばかりに手を腰に当て、寂しい胸を張ってふんぞり返っていた──さっきまで手に持っていた、例の残骸と凶器は、いつの間にか消えている。

 僕は今、澪琴ちゃんから高度な試練を与えられているのだろうか? 面白そうだから聞いてみようとは思ったけれど、こんなの面白い面白くないの話ではない……全身黒タイツではないからというのが、アリバイであると、そう断言できる根拠がわからない──およその推測はつくけれど……、だって、そもそも世間一般のアリバイといえば『私はその時は何をしていました』だとか『その時、私は誰々さんと一緒にいました』だとか、そんな感じの客観的かつ論理的な事実に基づいて、自身の無実を証明する証拠のことだと──僕はそう思うのだけれど。


「ごめん、澪琴ちゃん。僕にはその『全身黒タイツじゃないから』って言うのが、アリバイになる理由がわからないよ」 


「仕方ないですね。ド阿呆な面影さんに、お利口なわたしが説明してあげましょう──」


 ごほんっ、とひとつ咳払いをし間を整える澪琴ちゃん。

 僕をド阿呆呼ばわりしたことは、この際、話が進まないから黙認してあげようと大海原かの如く広い心で許してあげる(僕は根に持つタイプだ)。


「──犯人というのはですね、犯罪を犯すとき『全身黒タイツ』で犯行に及ぶというのが、犯罪者間での常識なんです。けれど、今のわたしはパジャマを着ています。全身黒タイツではありません。これが何よりものアリバイなんですっ!」


 わかりましたかド阿呆さん、としたり顔の澪琴ちゃん。

 僕は澪琴ちゃんの言葉をじっくりと反芻する。

 すぐに頭の中でガッテンがついた。ついてしまった。

 ああ、澪琴ちゃんは、なんて頭の可哀想な少女なのだろうか。この年齢で──中学一年生だから、十二歳なのか、十三歳なのか、正確な年齢は知らない──まだテレビの中の虚構を現実に持ち出してくるなんて──それもよりによって、小学生低学年ですら物語上の設定だと容易に理解できそうなことを──勘違いしてしまうあたり。

 

「──やめてください。私にそんな憐れむような眼差しを向けないで下さい。そんな目で見られるような筋合いはどこにもありません。そんなのは筋違いもお花畑なんですっ!」


 恐らくは、甚だしいってそう言いたかったのだろう──なのは水琴ちゃんの頭の中だということは、僕には口が避けても言えない。


「澪琴ちゃん。これも一つ後学のためだ、僕が良いことを教えてあげよう──全身黒タイツで犯罪を犯すのは、コ○ンくんの世界だけなんだよ」


 諭すように、僕は澪琴ちゃんに言い聞かせた。


「そんなの嘘ですっ! 面影さんは、コ○ンくんが嘘をついているとでも言いたいのですか!? そんなことコ○ンくんが犯罪を犯すくらいありえません! いくら面影さんでも、コ○ンくんを嘘つき呼ばわりする人をわたしは絶対に許しません!」


 頬を膨らませぷんすか怒る澪琴ちゃん。

 別にコ○ンくんが、嘘を付いているというわけではないと思うのだが……ふうむ、それにしてもコ○ンくん、えらく澪琴ちゃんから信頼されているみたいだけれど、しかし、案外コ○ンくんって犯罪ギリギリの事を、普段からしているような気がしなくもないような、するような……だからコ○ンくんが嘘を付く云々の話を抜きにして考えてみれば、存外ありえてしまうんだよな、これが。


「違うんだ、澪琴ちゃん──騙されてはいけない。いいかい、君は今、とても恥ずかしい過ちを犯しているんだ──僕なら舌を噛んで死にたくなるくらいに。だから、この場で潔く自身の過ちを認めて、将来『私ってさぁ、中学生の頃、犯罪者は皆揃って黒タイツで犯罪を犯してると思ってたんだよね』みたいな感じで酒の肴にするために──自身の過ちを知った今この時の、初動の対策がとても重要なんだよ──わかるかい?」


 と、尚も説得を試みる。

 僕の言葉を受け、澪琴ちゃんは、ぶつくさと何やら呟くと、眉間に深い皺を刻んで、顎に手をやりながら、その未だおぼこさの残る顔にはまだ少し似つかわしくない、大人な思案顔になる。それから若干の時が経ち、僕の言葉が現役JCに届いたのか、否かの緊張の瞬間。

 

「お言葉ですが、面影さんはですし、もはやと言っても──過言ではありませんよね? 毎度毎度の大盛況で、初動の対策を失敗して、黒歴史を量産しているような、面影さんの助言を参考にするのは合理的ではないと──非合理的であるとわたしはそう考えます」


「……………………………………」


 答えは、否。 

 断じて、否。

 説得どころか──僕が喰われる結果に。


 ──時として現役JC《女子中学生》は、現役DD《男子大学生》を追い詰める。 


「ええい、うるさい! 犯罪者が全員──黒タイツで犯行に及ぶだなんて本気で信じてるヤツから、そんなことを言われる筋合いなんてのは──筋違いも甚だしい限りなんだよ!」


「はいはい──そうですか。で、だからどうしたんですか?」


 子供ですね、と真顔の澪琴ちゃん。

 現役JC相手に、本気でムキになって、相手にすらされない現役DDの姿がそこにはあった。

 

 ──僕のことだった。


 このなんとも言えない、非常に気まずい空気に耐えられなくなった僕は、この悪い流れを断ち切るべく、話題を変える──というか、元に戻す。


「──ごほんっ……随分と話の内容が脱線してしまったけれど、最初から僕が聞きたかったのはひとつだけで──僕のプリンを食べた犯人は、澪琴ちゃん、君だよね?」


 あからさまな急な話題転換に、澪琴ちゃんはほんの一瞬顔を曇らせたけれど、すぐにそれも影に潜めると、特にそのことを追求することなく、僕の話題に乗ってくれた。

 こういう所は、澪琴ちゃんも物分りが良いよね。


「──いいえ、違います。わたしは面影さんのプリンを食べた犯人ではありません」


 前言撤回。

 澪琴ちゃん物分り悪すぎだろ!!


「いい加減に認めたらどうなんだ──僕も怒らないからさあ」


「お言葉ですが面影さん。そもそも、わたしは真犯人ではないのにも関わらず、わたしが犯人であると、そう認める理由がどこにも見当たりません」


「犯人は誰だってそう言うんだよ」


「濡れ衣を着せられた人だってそう言います」


「はあ──」


 話が進まない──拮抗状態。

 僕は現状を打破するべく、起死回生の一手を求めて、これまでの会話の内容を思い返す。そもそもだと確定しているのだから、あとはどうにかして澪琴ちゃんを自白させるだけなのだけれど、しかし、それが上手いこと出来ない。これまたどうしたものかと、あれやこれやと、頭の中で考えを巡らせている間に、僕は核心をつく──けれど信頼性は限りなく低い、ある言葉に巡り巡って辿り着いた。


「──あのさ澪琴ちゃん」


 なんですか、と首を傾げる澪琴ちゃん。


「これは確認なのだけれど──澪琴ちゃんは『全身黒タイツ』ではないから犯人ではないんだよね?」


「そうですよ──ド阿呆な面影さんも、ようやく理解してくれましたか──これで阿呆に出世ですね」


 僕は「理解してないわ」という抑え難い心の叫びを寸前で押し殺して、尚も話を続ける。


「じゃあ澪琴ちゃんは犯人ではないとして──僕のプリンを食べたのは、澪琴ちゃんだよね?」

 

 犯人ではないと仮定して。

 犯行を行為に置き換えて。

 いち澪琴ちゃんが、僕のいちプリンを食べたのかどうかということを尋ねる。これは僕にとっても大きな賭けだった。だって聞いていることは最初から何も変わらなくて、ただ単に呼称を変えただけなのだ。そんな馬鹿みたいに単純な話に、澪琴ちゃんが上手く乗せられるのかどうかなんて、僕には確証が持てなかったのだけれど、


「はい。わたしが食べました。とっても美味しかったですっ! また今度、プリンを買ってくるのなら──もっとお高いのでお願いしますっ!」


「……………………………」


 あまりの衝撃に、僕は言葉を失った。

 引っ掛かったよ。この娘、こんな馬鹿みたいに単純な話に引っ掛かりましたよ。引っ掛かり過ぎて怖いくらいに綺麗に引っ掛かったよ。やっぱり僕は、澪琴ちゃんから高度な試練を与えられているのだろうか? 何か裏があるんじゃないかと──澪琴ちゃんに限ってない話だろうけれど、変に勘繰ってしまう。

 

「面影さん、そんな『我ここに在らず』みたいな顔をしていては──それでは普段よりもましてその阿呆面に磨きが掛かり──見るに耐えない顔面になってますよ!」


「……………どうして僕がそんなに酷い事を言われなきゃいけないんだ!? 鋼メンタルの僕でも泣いちゃうぞ──言っておくが、僕の泣き顔は酷いだからな……て、いやそうじゃなくて、僕が言いたいのは、そんなことじゃなくてだな、澪琴ちゃん。朝から澪琴ちゃんの暴論にはうんざりだ。澪琴ちゃんの言い分だと『銀行で大金を拾ったよ。でもお金を盗んでないから銀行強盗ではありません』みたいなことになるんだからな! そんなことがこの世の中でまかり通るとでも思ってるのか!?」


「面影さん、その人絶対にお金盗んでますよ! 勝手に人様のモノを盗むなんて、その人絶対に悪い人ですよ!」


「ちなみに、ここにも人様のプリンを盗む悪党がいるよね──今この場に!」


「ちなみに、その悪い人は誰なんですか?」


「もちろん澪琴ちゃんのことだよ!!」


 ここでひとつ、深い溜息を溢す水琴ちゃん。

 え? どうして僕が溜息をつかれなきゃいけないんだよ。

 絶対に立場が逆だよね?


「──お言葉ですが、面影さん。プリンの前に人は皆平等なのです。つまり、プリンの前に善人や悪人といった区別は存在しないということなのです」


「プリンどんだけ凄いんだよ!?」


「プリンは不毛な戦争を終わらせ、世界に平和をもたらすのです。ろくに仕事もしない神様なんかよりもずっと神様なんです」


「ええっ!? プリンが神様を超えるだって!?」


「神を超越した存在と言っても過言ではないのでしょう」


「プリン様々だな」


「プリン様々です」



 ──と、ここで僕と澪琴ちゃんの間で長い沈黙。



「──て、話を反らしたな! 論点を『実はプリン神様説』にすり替えるな! 今の論点は『プリン食べちゃった事件』についてだ!」


「………ちっ」


「ああっ! 澪琴ちゃん今、舌打ちしたよね!? 絶対にしたよね!? 僕の耳にはしっかり届いているんだぞ!」


「感の良い餓鬼は嫌いですっ!」


「餓鬼はどっちだよ!」


「数百円程度のプリンを、可愛い少女に食べられて本気で怒る大人の方が、よっぽど餓鬼だとわたしは思います。大人なら黙ってプリンを差し出しておけば良いんです。面影さんはいつもケチケチし過ぎなんですよ!」


「自分の行いを棚に上げて、よくもまあ、ぬけぬけとそんな詭弁を言えたものだな! この際ひとつ謝りでもすれば、情状酌量余地有りで見逃してあげようと思ったけれど──僕はもう怒ったぞ!」


「最初から怒ってるじゃないですか!」


「ええい、やかましいわ──人のプリンを食べる悪い子には、いたず……おっと、お仕置きが必要なようだな……」


「あっ、今絶対にって言おうとしましたね!? わたしのような可愛い美少女に悪戯しようだなんて、面影さんはロリコンなんですか!? ロリコンなんですね!? ロリコンにそう違いありません! なるほど、そうですか──そういうことなんですね、面影さん。これまでの一連の筋道の数々は、面影さんが描いた筋書き通りで、わたしが冷蔵庫のプリンを食べるように仕向け、それをお仕置きするという大義名分の元に、わたしにあんなことやこんなことをしようと、秘密裏に画策していたものなんですね!? 絶対そうに違いありません! 悍しいですっ! 卑猥ですっ! 面影ですっ!!」


「人聞きの悪い事を言うな! 流石にそれは被害妄想激しすぎだろ。僕への二次被害が濁流の如く押し寄せているじゃないか──僕の心証が悪くなるだろ。あと、『面影』は悪口にはなってないからな!!」


「立派な悪口ですよ。『この面影が!』だとか『面影みたいな奴だな、君は』だとか、バリエーションが豊富で、組み合わせ抜群の使い勝手のいい形容詞なんですっ!」


 間違いなく。

 バリエーションは豊富ではないだろ。


「リアル面影さんを目の前にしてそれでも面影という言葉が悪口だと断言できる澪琴ちゃんの気が知れないぞ知りたくもないけどね!!」


 息も途切れ途切れで言い切った僕は、澪琴ちゃんからの返しを待つ。がしかし、これまでテンポ良く進んできた会話のラリーが、澪琴ちゃんの番で途絶えた。何だせっかく良いところなのにと、僕は一方的にキャッチボールを止めた澪琴ちゃんを見据えると、これがどういうワケなのか、澪琴ちゃんは明らかに落胆した様相で、何処となくデジャブを思わせるような深い溜息を──ひとつ溢したのだった。

 え? いやだから、どうして僕が溜息をつかれなきゃならないんだよ。


「──そこは『形容詞の言い切りは【い】になるのだから【面影】は形容詞ではなくて名詞だろ!!』という突っ込みを期待しての、わたしからの振りだったのですが──面影さんもまだまだですね」


 年下の少女に説教された。

 それも突っ込みが甘いからという理由で。


「僕にそんな高度な突っ込みを求めるな!」


「そんなこと言ってられませんよ。面影さんには、これからはビシバシと突っ込んでいってもらわないといけません──そんなことばかり言っていては、話途中で突っ込み担当からリストラされてしまいますよ」


「そんな担当を承った記憶はない! いつからだ、一体いつからだというんだ!?」


「──面影さんはですから」


 ツッコミニスト。

 初めて聞いたぞ……そんな言葉。

 なんでも語尾にニストを引っ付けたら格好良く聞こえると思ったら大間違いだ……でも控えめに言って、ツッコミニストに限っては有りかもしれないなあ……え? いや、別に嬉しくなんかないよ。いや、本当に冗談じゃなくて、ね。ツッコミニスト? 


 ──何それめっちゃ美味しそうじゃん。


「僕が生まれながらのツッコミニストだって!?」


「そうです。もはやツッコミの申し子、ツッコミ界のプリンセスと言っても過言ではないでしょう」


「こらこら澪琴ちゃん、僕は男なんだから、そこはプリンセスじゃなくてプリンスだろ? 本当にうっかりさんなんだから……て、自分で自分をプリンスだなんて言うのは恥ずかしいなぁ〜」


「よっ、ツッコミ界のプリンス。細かな突っ込みも抜け目なし」


「いやいや、そんなぁ〜。過大評価だよ──」



 ──と、ここで僕と澪琴ちゃんの間で長い沈黙。



「──は、僕としたことが、ヨイショされていたというのか!? よく考えればツッコミニストだなんて馬鹿げた話にもほどがあるぞ──ただのめっちゃ痛いヤツじゃんないか!」


「面影さんが痛いのはいつもの話ですから──わたしも慣れていますので」


「そんな慣れは必要ない──余計なお世話だな! ええい、こう二度も同じ手に嵌るとは……こうなったら致し方ない──手段選んでいるほど暇じゃないんだよ……」


 現役DD《男子大学生》を舐めるなよ。


「落ち着いて下さい面影さん! 目がマジですっ! 手の動きが厭らしいですっ! 面影さんは人生を諦めていいんですか!? まだ間に合います。行為をはたらく前に、今一度自分を見つめ直してください!」


「話し合いで収集がつかないのならば、実力行使あるのみ!」


 最初に言っておくが──もちろん僕には、ロリコン的な、女児愛好家的な、少女に対して特殊な趣味趣向を嗜んでいるということは、それこそないのだけれど──悪さを働いた少女にお仕置きをするのは人生の先輩である、僕のように真っ当を絵に描いたような大人の責務なのだと僕は僕に言い聞かす──僕だって、嫌々なのだ。 


 ──だからこれは合法である。


 澪琴ちゃんの元へ一歩また一歩と、近づいてゆくに連れて、僕の耳に届くのは、やれ『ロリコン面影者』だの、やれ『面影野郎』だの、散々な罵詈雑言をぶつけてくる澪琴ちゃんではあるけれど、しかし、その言葉の多くは僕の心には届かず、僕の進撃を止める手立てにはなりえなかった。


「もう諦めるんだな、澪琴ちゃん。お仕置きの時間だ」


 あくまでも合法だと、自分に再度言い聞かせ──どんな悪戯をしてやろうかと、熟慮に熟慮を重ねた結果、まずはその艷やかで触り心地の良さそうな髪の毛を、ワシャワシャしてやろうと心に決めた僕は、暇そうにしている右手を──頭を抱え込むように床の上で震えながら蹲る《うずくま》澪琴ちゃんの頭上へと伸ばした。

 

 ──と、その時だった。


 突如として轟いたインターホンの音。

 僕は伸ばしていた手を咄嗟に引っ込める。

 僕の脳内は、警察という二文字で埋め尽くされていた。

 何も悪い事をしていないのに、本当は何か悪い事をしたのではないかと疑心暗鬼になってしまう。何もやましい事はないのに、何も後ろめたい事はないのに、本当は何かあるのではないかと勝手に錯覚してしまう。嫌な緊張感が瞬く間に身体を支配すると、ジトッとした嫌な汗が額を流れ、頬を伝り、やがて顎に溜まった雫が──床に溢れ落ちた。

 

 二度目のインターホンが鳴った。


 三度目のインターホンが鳴った。


 そして。

 慌しく扉を叩く音が玄関から聞こえた。

 呼吸は浅くなり、心拍数は上がり、動悸は止まらない。僕は悪くない、悪いのは全部プリンを勝手に食べた澪琴ちゃんなのだ──だから僕は悪くない。自己暗示をかけ、気持ちを落ち着けることに必死な僕を片腹に、澪琴ちゃんは埋めていた顔を上げ、間抜け面で「何か忘れているような気がしますね……」とそう呑気に呟いた。

 それから──扉を叩く音が聞こえてから若干のタイムラグを要して、「みっちゃん早く行かないと遅刻しちゃうよ〜」と、間の抜けた女の子の声が、僕と澪琴ちゃんの間を通り過ぎてゆく。僕は胸を撫で下ろした。扉を叩く主が警察ではなくて安心した……いや、それは違うかもしれない、安心という表現は、この場では適切ではなくて、そもそも僕は端から警察のお世話になるようなことは何もなかったのだから、安心したのではなく、むしろ、当たり前の結果が訪れて満足したという方が適切なのかもしれない。うん、僕は最初から知ってたもんね。そもそも誰も通報もしてないのに、警察が家に来るわけないじゃん。まあ、それはそれとして、朝から家に来客だなんて、珍しい事もあるもんだ。で、誰だろう?


「──あーちゃんだ」


 澪琴ちゃんは、今思い出したかのように呟いた。


「ん? あ、あーちゃー? サーヴァントの?」


「違ういますっ! あーちゃんです! 友人を英霊にしない下さい! あーちゃんは、お友達の弓能家亞矢ちゃんのことです」


 ああ──怒られちゃった。

 でも弓能家亞矢って名前、アーチャーっぽいよね。


「──あ、ごめん。まあ、それで、そのあーちゃんと何か約束でもしてたの?」


「はい。あーちゃんとは待ち合わせを──と、忘れてました!! そう言えば、今日は学校の日じゃないですか!!」


「え──」


 ちなみに今日は。

 六月二日の水曜日。

 日曜日から数えて、一週間のド真ん中。

 平日の中の平日。


「──そんなことを忘れてたのか!?」


「言い方によれば、そうとも言いますね。というわけで──わたしは面影さんのように年中休日のニートではありませんので、これ以上ニートさんと遊んであげる暇はありません」


「僕はニートじゃない! 僕は現役の大───」

 

「おっと、ニートさんと話している暇なんてないんでした!」


 それでは、とそれだけ言い残すと、澪琴ちゃんは僕の目の前から、差し足抜き足忍び足でそそくさと逃げ出そうとする。がしかし、澪琴ちゃんもまだ甘い。僕がこの程度の見え透いた手に嵌ると思ったら大間違いなのだ。僕は、ピューピューと聞くに耐えない下手な口笛を吹きながら、僕の眼前を無関係を装って通過していくターゲットに照準を定める。僕が狙うはただ二点のみ──腰から上、上半身、胴体、胸部、まだまだ発展途上な二つの小ぶりな膨らみを──ガバッと背後から。


「捕まえたぞ! な、なに!? 逃しただと!? 確かに僕の右手には、微かに残る柔らかな感触が──今のは質量のある残像だとでも言うのか!?」


 僕の背後から狙い澄ました巧妙な一撃を、澪琴ちゃんは、後頭部に目があるのではないかと思わせる身のこなしで、ひょいと躱したのだ。


「甘いですね。わたしが、面影さん如きに捕まえられるとでも、そんな愚かな夢でも見ていたんですか? 面影さんとは鍛え方が違うんですよ、鍛え方が」


 それでは、とまた言い残すと、今度は目にも止まらぬ速さで、僕の前から飛び出すと慌ただしく階段を駆け上がり、二階の居住スペース──澪琴ちゃんの部屋である202号室へと向かってゆく。それからして、二階でどんちゃん騒ぎが起こったかと思えば、今度は、慌ただしく階段を駆け下りる音が聞こえ、瞬く間に、冷蔵庫の前で呆然と立ち尽くす僕の下に制服に身を包んだ澪琴ちゃんが現れると、「面影さんいってきます!」と律儀にも一声掛けてから『笑路荘』を飛び出していったのだった。かくして、実行犯及び主犯格である──澪琴ちゃんの逃亡により『プリン食べちゃった事件』は未解決事件として迷宮入りしたのである。



 










  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

犬と猫とトマト 名沼菫 @nanunu7969

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ