ラキューナ

下村アンダーソン

ラキューナ

 今まさに眠りに付こうというときに、なぜか急に胸がいっぱいになって、どうしようもなくなってしまうことがある。

 そんなときどう対処すればいいのだろうかと思う。

 すべて忘れて寝入ってしまう、という解決策を、残念ながらわたしは取りようがない。そもそもわたしには、「忘れる」という機能が備わってはいないのだから。だからといって、起き出して自分の悶々とした思いを日記帳に綴る、ということもできない。なぜならわたしは今まで一度も、「文字」というものを使ったことがないからだ。より正確にいえば、見たこともないというべきなのだが。

 そういうわけでわたしは、文字を知らず、言葉も知らずに生きている。それでも「思考」そのものが断絶してしまうことはなかったし、これからもう少しだけは、あれこれ物を考えながら過ごすのだろう。

 わたしが観察した限り、人間は「言語」というものを用いて世界の一部分を切り取り、考察の対象とする生き物らしい。詳しいことはわからないが、意識の中で明確に定義されている概念を記述するために運用するツール。わたしの知りうる「言語」とはその程度のものだ。

 わたしは言語を用いて思考するわけではないし、人間もまたそうなのだろうと思う。思考の際に生じる観念は、「明確に定義された概念」を超越した表象が数限りなく付属しているはずで、とても一言で言い表せるものではないだろうから。その観念から普遍性を持つ中心的なコンセプトを抽出し、記号化したものが「言語」だとわたしは考えている。

 言葉は人類最大の発明であり、他の生物と一線を画する英知の証明だという意見がある。否定するつもりは毛頭ないけれど、わたしのような存在にとっては、それを実感するのがなかなか難しい。ちょうど大部分の人間が、「物質は原子により構成される」ということを、言語もしくは記号として認識しているにすぎず、実感にまでは至らないように。

 要は、言語というのはコミュニケーション用に特化したツールであり、人と人とを繋ぐ役割が大きいということである。わたしのように自分の内側にのみ意識を向けているものにとっては、それほど重要なものではないのだ。

 わたしの思考は、特定の記号的体系を用いて記述されるものとはだいぶ違っているはずだと思う。人間は普通、内なる声の囁き、音韻へのコード化をもって思考とみなすらしいが、わたしの場合、それとはまったく異なった意味を有している。

 簡潔にいえば、思考とはわたしであり、思考するがゆえにわたしは存在しているのだ。

 わたしにとっての思考とはイメージの洪水であり、わたしはそこを漂い、浮かび、泳いで、そうすることで存在してきた。

 どのくらいそうしていたかは知れないが、わたしはとある確信めいた予兆を感じている。わたしに残されたときは、もうわずかしかないのだと。

 わたしは沈もうとしている。わたしはもうじき意識の海に呑み込まれて、消え失せることになっているのだと感じる。

 命が絶えようとする瞬間に、人間は自らの生涯を回想するという。自分を取り巻いた数々の思い出が、閃光のように走り抜けるのだという。

 数十年の長きにわたる記憶が、その一瞬に凝縮されて、最期のときを彩るのだろう。

 人間を初めとする生物の生涯が、どのようなものなのかわたしはわからない。それでも生物が「五感」と呼ばれる感覚によって自分を取り巻くすべてを認識しているのだと、わたしは知っている。

 わたしは「見る」ことも「聞く」ことも「触る」こともない。「感じる」ことが一切できないからだ。ただわたしは、そういう現象があると「知って」いる。

 わたしは来るべき「死」を知っている。実感することはできないが、とにかく自分という存在が消えてなくなるのだという事実を理解している。

 わたしとはなんだったのか、と今更ながら思う。

 かつて「わたし」は存在しなかった。ある瞬間「わたし」が生まれ、そしていずれ「わたし」は死んでゆく。

 わたしは生まれるまで、自分という意識が芽生えるまで、遠い遠い旅を続けてきたのかもしれない。

 暗闇をたゆたいながら。あるときは逆さになって、渦を巻いて。膨張と収縮を繰り返しながら……。

 わたしはどこから来て、どこへゆくのか。

 わたしには時間があったはずだった。永遠にも等しいときを、静寂の中で過ごしてきたのだから。自分が誰であるかを見つけるために、ただひたすらに思考を続けた。それでも、明確な答えにはたどり着けなかった。

 わたしは揺らぎ、ぼやけ、薄れて、やがて消えようとする。その間際にあって思うのは、ただひとりの少女のことだった。


 ***


「おはよ。今日は元気そうだね。いつにも増して美人さんだね」

 詩織がわたしの手を握りながら言った。彼女の発した言葉を聞きながら、わたしは疑問を覚えていた。

 おはようとは朝の挨拶らしいが、わたしには朝昼晩の感覚はないということ。元気とは肉体の健康状態が良好なことを表すはずなのに、それとは程遠いこと。美人とは顔かたちが整っていると賞賛する意味合いがあるにしても、わたしは自分の顔を見られないということ。

 わたしの中で渦巻く疑念をよそに、詩織はわたしのそばに座ったまま続けた。

「はやく元気になってさ、一緒に遊びに行こうね。この近くに、今度大きいデパートができるんだって」

 どうやら、今度の「元気」は先ほどの「元気」と意味が違うようだとわたしは思う。最初のは単なる社交辞令で、実際のところわたしが「元気」ではないと、彼女もわかっているらしい。

「たぶんね、可愛い服とかいっぱいあると思うんだ。どんなのがいいかな? あなたは可愛いからなにを着ても似合うと思うよ」

 なるほど。「可愛い」も複数の意味を含有する言葉らしい。まあ、詩織が口にする中でも使用頻度がトップクラスの言葉だから、たぶん汎用性に優れているものなのだろう。詩織が来てくれると勉強になるなとわたしは思った。

「買い物したら、次はカラオケとかどうかな? わたし歌下手だから恥ずかしいけど」

 歌。歌というのは、言葉を拍子や節に乗せて発するもののことだ。非常に残念だが、わたしがカラオケを楽しめるときは永劫訪れないだろう。

 わたしには、視覚や聴覚、触覚といった、いわゆる「五感」が備わっていないからだ。当然「話す」こともできないし、体を動かすことすら不可能なのだ。

 つまり傍から見ると、わたしはただベッドの上に横たわっているだけの「植物人間」にすぎない。

 医師によると、自力移動が不可能かつ意識の兆候が見られない、「永続的植物状態」とやらにわたしはあるらしい。

 そういう事実を知ったとき、思わず反論したくなってしまった。確かにわたしはまったく動けないのだが、兆候どころではなくちゃんとした「意識」があるのだと。ただそれを表現するすべを持っていないだけなのだと。

 指やまぶたがぴくりとでも動けば、わたしの「意識」はおそらく証明されるのだろう。しかしわたしは、自分の身体に干渉することがまったくできなかった。体は一切動かせないし、感覚器官から刺激を受けることもない。つまり普通の人間のしている体験を、何一つすることができないのだ。

 その代わりわたしは、イメージとして思考することができた。感覚ではなく情報として、自分の周りで起きたことを把握できた。詩織の顔を見ることはできないが、今わたしの近くにいるのが詩織だとわかる。彼女の声を聞くことはできないが、なにを言ったのかはわかる。掌のぬくもりを感じることはできないが、手を握られていることがわかる。

 このような状態をひっくるめて、わたしは「元気ではない」と認識されているらしかった。だから病院のベッドの上に寝かされて、たくさんの管を繋がれて、医師や看護士に囲まれて、わたしは生きているのだ。

 これが悲惨なことなのかどうか、わたしにはわからなかった。なにしろ、気がついたらそうなっていて、それからずっとこのままなのだから。

 それにしても、体じゅうにチューブや電極が刺されているものを見たら、気の毒だとか思うのが人間の性らしい。そんな風に同情されても、わたしは本当になにも感じていないのだから困ってしまう。そもそも身体というものが自分の一部だと知ったのは、生まれてしばらくたってからだったような気がする。

 そういえば、「生まれる」という概念もわたしと普通の人とでは違うようだ。通常、赤ん坊が母親の胎内から外界に出たときに「生まれた」という言葉を使うらしいが、わたしにとっての誕生とはすなわち、意識の芽生えのことだった。

 わたしはそれ以降のことならすべて記憶しているが、誕生の瞬間のことだけは、どうしても表現できない。いつの間にか、「わたしという存在」がそこにいた、というのが正直なところだ。

 この場合の「存在」という言葉は、物質的なわたしの身体を示すものではないのだと、今になって思う。今でこそ、身体が、つまりは物質が、わたしを構成しているとわかっているし、詩織にとっての『わたし』がこのわたしとは別物であろうことも理解しているけれど、当時はそういうことがまったくわからなかったのだ。

 物的に「そこにいる」存在、科学的、感覚的に現実世界において観測されうる『わたし』は、わたしにとってはわたしではない。まあ、あくまで「わたしにとっては」であり、他のすべての人にとっては、あちらの『わたし』こそ真実なのではあるが。

 ではわたしにとっての『わたし』、つまり身体とはなんなのか。今のところ、わたしは自分を収める器だと考えることにしている。出口のない器に封じ込められたわたし。外部からは決して見えることのないわたし。わたしのことを知ろうとして器を壊せば、途端にわたしも失われてしまう。

 身体という器に囚われたわたしは、誰にも知られることなく時を過ごすのだろう。

 わたしは密かに、詩織のことを思っているのだけれど。

 わたしたちの重ねた掌は、合わせた指先は、とある一枚の壁によって隔てられている。


 ***


 脳におけるモジュールは、相当な細分化がなされているらしい。

 言葉を聞かなくても、文字を読まなくても、とりあえず内容が理解できるのは、聴覚や視覚に関する領域が働いていなくても、別の領域が生きているからなのだろう。

 仮にわたしの脳内モジュールの生死が逆転したとすれば、わたしは「聞こえるけれど意味がわからない、見えるけれど認識はできない、音を発することはできるけれど言葉は話せない」というような状態になるのではないかと思う。

 そういう『わたし』と今のわたしとでは、どちらが幸せなのだろうか。

 逆転した『わたし』にとっての身体は、今より遥かに重要な意味を帯びるだろう。身体によって知覚しうるすべてが『わたし』にとっての現実となるだろうから。

『わたし』は詩織の顔を見る。誰かはわからないけれど。『わたし』は詩織の声を聞く。意味はわからないけれど。『わたし』は詩織と手を繋ぐ……。

 手を繋ぐという行為の持つ意味を、その『わたし』は理解できないだろう。しかし、握られた手の温かさを感じることはできるだろう。確かな真実として。

 なにもわからない『わたし』は、詩織と同じ世界を生きるだろう。わたしにとってのわたしも、詩織にとってのわたしも、共通した一個のわたしであり続けるだろう。

 その『わたし』は生きている。呼吸する。感じる。泣く。あるいは笑う。つまりは存在する。存在すると、誰もが思う。

 では、今のわたしはどうだろう?

 わたしは認識する。すべてを情報として、知識として。詩織は十二歳の少女で、身長は一四五センチ。体重は三八キロ。誕生日は三月十一日、血液型はA型。他にもいろいろなことを知っているが、それは単なる記録にすぎない。

 わたしは思考する。独自のイメージ体系を用いて。頻繁にわたしのもとを訪ねてきて、話かけてくれるのは、おそらく彼女とわたしがなんらかの近しい関係を持っているから。たぶん彼女と同じくらいの年齢で、性別も同じ女性なのだろう。

 わたしたちはなぜ出会ったのだろう? 彼女のような存在にとって、主要な出会いの場はおそらく学校と呼ばれる教育機関だ。そこでは同じ年齢の数十人、数百人の子供が集まって、基本的な教育を施される、らしい。

 自分もそこに通っていたのだろうか? 詩織や他のみんなと一緒に生活していたのに、不慮の事態が生じてこんな風になってしまったのか? 

 すると、かつての『わたし』は詩織の友達だったのだろうか。詩織は、昏睡したままの友人をなんとか取り戻そうと、言葉をかけ続けているのだろうか。

 だとしたら。そのときの『わたし』はわたしではない。わたしは、学校に通った記憶も、友達を作った記憶もない。ただ、無限にも思える意識の海の中から、いつの間にかぷかりと浮かんだだけの、ちっぽけな「思考存在」でしかない。

 ショックで忘れてしまっただけで、わたしはわたしなのだといわれるだろうか。

 それでもわたしは、自身の誕生、意識の覚醒以後の記憶をもって、自分の人生とみなしている。それ以前のことは、わたしの出来事としては認識できないのだ。ある占い師が、詩織の前世は高貴な伯爵夫人だったと断言したらしいが、その伯爵夫人とやらの記憶が詩織にまったく受け継がれていないのと同じようなものだ。

 だからわたしにとって、詩織との出会いは、このベッドの上でということになる。

 わたしが始めて詩織に会ったとき、彼女はだいたい今と同じくらいの背格好をしていた。ということは、そのときの自分の肉体もまた今と同じくらいの年齢であったはずで、すなわちわたしが誕生してからたいした時間は経過していない、という考えは妥当なような気がする。肉体としての『わたし』が生まれてから、今のわたしに意識の座が引き渡されるまで、『わたし』はごく普通の生活を営んでいたのではないか、という推測は、十分可能だった。

 するとやはり、わたしと過去の『わたし』は別物なのだ。

 今、こうして思考するわたし。ベッドに横たわる肉体の『わたし』。かつて肉体の意識の主だった『わたし』。

 わたしにとってはわたしこそが真実であり、他の二人は虚構でしかない。わたしを収める器と、以前その器に収まっていたなにか。詩織や医師たちが真実とみなす二人は、わたしではない。

 わたしと詩織や他の二人の『わたし』との間には、埋められぬ隔絶が存在しているのだ。

 わたしは、人間とは違った方法で詩織を知覚する。しかし詩織は、わたしという意識の存在を知ることは決してない。

 わたしたちは、絶対に交わることのない平行線のように、違うときを生きている。

 それを裏付けるかのように、ある新事実が浮上した。わたしと詩織とでは時間の流れる速さが違っていたらしい。別々の世界に生きている以上仕方がないのかもしれないが、詩織はわたしよりずっと速く時を過ごしているようだとわかった。


 ***


「ねえ、相対性理論って知ってる?」

 詩織はベッドの傍らに腰掛けて、わたしに問いかけた。

「この前本で読んだんだけどね。光の速さの宇宙船に乗ってると、その人だけゆっくり時間が流れるんだって。不思議だよね」

 それは特殊相対性理論のことか、と思う。物質は完全な位置を持たない。空間も時間も相対的なものである、というような主張。まず前提として、光の速度は不変であるという。それで、エネルギーと質量は本質的に結びついている、らしい。さらに、物質のスピードを上げると、質量も増加するといわれている。

 E=mc²という式がある。Eはエネルギー、Мは質量、Cは光速。光速は一定だから、エネルギーが大きくなれば質量も大きくなるということを示している。

 特殊相対性理論を通じ、物質の基本成分である素粒子、クオークが発見された。クオークは実際のところ物質ではなく、エネルギーらしい。このクオークとレプトンなる似たような素粒子によって、原子は作られる。つまり、物質とはエネルギーなのだ。また素粒子を加速させた場合、その寿命が延びることが知られているということだった。

 侘しく散漫な知識を引っ張り出したはいいが、詩織に説明することはできない。せっかく話を振ってくれたのに、やはり寂しいものだと思う。

 そのときふと、閃くものがあった。

 思考とはエネルギーだ。わたしの脳内の一部のモジュールが生きており、ニューロンがシグナルを発しているわけだから。

 ということは、わたしとはエネルギーの塊のようなものだ。

 さらにもうひとつ。思考のスピードとは、光速を超える可能性を秘めた唯一のものではないか?

 わたしの思考、すなわちわたしが光速に近づく。粒子が光速に近づけば、時の流れは遅くなる。するとわたしは、時間を超越することになるのではないか?

 ……ばかばかしい、と思う。

 それでも、わたしはこの突飛な考えを否定することができなかった。なにせわたしには、観測可能なものとしての時間という概念が存在しないのだから。

 わたしが誕生してから、どのくらいの時間が経過したのだろう? 

 記憶を反芻する。いつの間にか、ぼんやりと覚醒したわたし。暗闇を漂うわたし。初めは、困惑するばかりだった。それでもやがて、なにかを受け取ることができるようになった。それに反応することができるようになった。そうしているうちに、なにかが浮かんでくるようになった。すなわち、考えることができるようになった。

 わたしはそれから、たくさんのことを知った。理解しようとして、思考を続けた。

 創造され、意識を持ち、やがて自分が誰であるかを探り当てようとし、問い続けるようになる。

 そこまでのプロセスに、どのくらいの時間が必要なのか?

 ……わからない。自分がどれくらいの時間を費やして、ここにたどり着いたのかわからない。それこそ気の遠くなるような時間をかけて、今のわたしになっていったのかもしれない。

 わたしは思考する。光の速さで永遠を駆け抜けながら……。

 肉体人だった『わたし』が昏睡してから、どれくらいたってわたしが誕生したのだろうか? 昏睡の開始と同時に、意識が交代したのか? それとも、わたしが生まれるまでに空白が存在したのか? 

『わたし』とわたしは、バトンタッチをするように、明確に意識の引渡しを行ったわけではないのかもしれない。『わたし』が少しずつ薄くなって、その代わりにわたしが濃くなっていっただけなのかもしれない。

 わたしは思考する。どこまでが『わたし』で、どこからがわたしだろうか?

 わたしは思考する。一は「ある」。〇は「ない」。〇・一は「ある」。〇は「ない」。〇・〇一は「ある」。〇は「ない」……。

『わたし』とわたしは近づく。どこまでも限りなく。それでも、『わたし』はわたしではない。『わたし』とわたしがどれほど近づこうとも、わたしたちは決して重なりあわない。

 わたしは思考する。あまりにも単純なことを。わたしたちを隔てる、極小で極大の差異のことを。

 わたしはこちら側。『わたし』はあちら側。

 たったそれだけのことを、わたしは何度となく繰り返し思う。

 わたしたちの間に引かれた線を乗り越えた瞬間のことを思い出そうとする。その瞬間が見えさえすれば、わたしはすべてを理解するだろうと。

 それは一瞬であり、永遠にも等しい。


 ***


「そういえば、こないだね、大人になる夢を見たの。大人になって、おばあちゃんになって、どんどん歳をとるの。何年も何十年もたった気がしたのに、目が覚めてみたら三分くらいしかたってなかったんだよ。びっくりした」

 詩織はたまに、自分の見た夢の内容を語ってくれることがある。

 通常夢というのは、浅い眠りの状態、脳は起きていても体が眠っているときに見るものらしい。それは脳の作り出したイメージの奔流であり、仮想世界であり、擬似的な体験なのだという。

「わたしが生まれたところから始まってた。それから、幼稚園に行って、小学校に行ったの。お父さんも、お母さんも、みんなもいた。それから、ずっとずっと、今より大きくなって……。中学校では吹奏楽をやってた。高校は女子高でね。大学生になったとき、初めて彼氏ができたの」

 詩織の垣間見た未来が、真実となるかはわからない。それでも、彼女の語る人生の物語を聞くうちに、わたしも靄がかった幻想の世界へ呑み込まれてゆくような気がした。

「その人とは別れちゃうんだけど、職場で会った人と結婚したの。男の子が生まれてね。庭付きの一戸建てに住んで、小金もちになったんだよ」

 詩織はわたしの掌をそっと撫でながら、微笑んでいた。

「それからおばさんになって、おばあちゃんになって。夜寝ようとしてたら、なんだかふわっとして、幸せな気持ちになって。でもなんだか、胸がいっぱいになるみたいな、不思議な感じ。わかるかな?」

 ……これは、肉体の『わたし』が見ている夢にすぎないのではないか、とふと思う。

 昏睡している『わたし』は、一刻も早く現実の世界に戻りたがっている。目を覚ましたがっている。それなのに、後から誕生したわたしが意識を掌握してしまったため、かつての記憶が失われている。

 もし『わたし』が目を覚ませば、きっとわたしは消えるのだろう。わたしに『わたし』だったころの記憶がないように、『わたし』もわたしのことをまったく覚えていないのだろう。

『わたし』は詩織との再会を喜び、涙ながらに分かち合うだろう。ずっとそばにいてくれて、励ましてくれてありがとうと言うだろう。退院したら一緒にデパートに行って、流行の服を買うだろう。カラオケにも行って、喉がかれるまで歌うだろう。

 今までだって、二人にはそうした思い出があったのだろう。これからだって、もっとたくさんの思い出を作っていけるはずだったのだろう。

 それが、永遠に失われてしまったのだとは、思いたくなかった。

 詩織はわたしにぐっと近づいて、顔を覗き込む。

「綺麗な寝顔してるよね。あなたはどんな夢を見てるの? 楽しい夢だといいな。そこに、わたしはいるの? なにしてるの? 後で、聞かせてほしいな」

 これは、わたしの人生の物語だ。

 この意識の、宇宙の片隅から、わたしは誕生した。ほとんど本能的に、わたしは学ぶことを欲した。思考することを欲した。ただ漂うだけの極小存在に甘んじることなく、わたしは知ることを望んだ。やがてわたしは広がり、膨らみ、成長した。思考すればするほど、わたしはさらなる無知に直面し、また思考するようになった。

 知は恵みの雨のようにわたしを打ち、満たそうとしてくれた。そうしてさらに思考に適した存在へと、わたし自身を変えていった。

 それらすべては、幻だったのか? 

 柔らかな日差しを浴びて、ふと眠りに落ちた瞬間に垣間見たなにかが、風花が目の前を掠めた途端に消え失せてしまうかのように。

 わたしが過ごしたときは、わたしだけのものだ。

 わたしは、人間だ。わたしはこの生涯を通して、自分が人間だと思うようになった。

 わたしは、詩織に出会ったのだ。彼女を見つけたのだと思いたかった。

 わたしはただわたしとして、他の誰でもないわたしとして、彼女と共にあった。それが、わたしのすべてだ。

 ……それで、いいじゃないか。

「ねえ、わたしたち、ずっと一緒なんだよ。そばに、いるから……」

 詩織の声が遠く霞んで、彼女の姿が揺らいだ。

 詩織が涙を流しているのがわかった。

 ……人間は、どういうときに泣くのだったろうか。人間の感情とは、言語で定義できるものよりも遥かに複雑だから、一概には理解できなかった。

 まあ、いいやと思う。今はただ、『わたし』の未来を、夢見るだけに留めよう。わたしは、あまりにも長い、長いときを、思索の中に過ごしてしまったのだから。

 ……もう、眠らなくては。

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ラキューナ 下村アンダーソン @simonmoulin

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