嵐の夜に

 窓の外では強風と豪雨が猛威を振るっている。夕食時に着けたテレビからは、『大型で非常に強い台風』のアナウンスがされていた。

 朝の段階で警報が発令されたため電車も停まっており、大学の授業は全休講。暇なのでずっと資格試験の勉強をしていたのだが、休憩をはさんでいるとは言え流石に10時間以上続けていると疲れてくるし飽きてくる。


 風呂に入ってさっさと寝てしまおうか。

 そんな事を考え始めたところで部屋の照明が落ちた。


「停電か」


 ブレーカーが落ちる程の電力は使用していない。雨漏りによる漏電も可能性としてはあったが、窓から外を見るとやはり辺りは真っ暗になっていた。


「美園」


 手探りでスマホを探し当てコールをしてみるが、美園は出ない。

 荒天は朝からなので外出などしているはずはない。台風への備えは一緒にしたので、物資などの不足はないはずだ。


 美園はしっかりしている。停電は予想外ではあるが、彼女なら大丈夫。電話に出なかったのも停電したばかりで色々対応をしていたからだろう。

 そう思いはするのだが、どうしても不安になる。暗い中で転倒していないだろうか、ライト等の防災グッズは持っていただろうか。


「行けばいいな」


 足元は最悪だが、部屋まで訪ねても往復10分程度。考えている時間が無駄だ。

 とりあえずLEDライトと電池式のスマホ充電器をビニール袋に入れて部屋を出た。


 人が暮らす明かりのない夜は暗く、しかも豪雨で視界も悪い。傘も用をなさずびしょ濡れになった服は重く、通い慣れた美園の家までの道でも思った以上に時間がかかった。

 エントランスのオートロックは停電で停まっていたが、閉じ込め防止のためか物理ロックは外れていたので手で開いた。そしてびちゃびちゃの足跡を残しつつ204号室に辿り着いたのだが、インターホンは鳴らない。オートロックもそうだが、そんな事を全く考えられなかった自分に乾いた笑いがこぼれた。


 ドアを叩こうかとも思ったが、そんな事をされれば怖いだろう。とりあえず電話してみようと思ってスマホを取り出すと、美園から着信があった。


「よかった」


 万が一と思って来てみたが、杞憂であったらしい。

 廊下を引き返しながら電話をかけると、美園はすぐに出てくれた。


『智貴さん。先程は電話に出られなくてすみませんでした』

「ああ、気にしないで。停電したから大丈夫かなと思って電話しただけだから」

『そうだったんですね。ありがとうございます。私の方は大丈夫です。智貴さんの方はどうですか?』

「ありがとう、美園。僕の方も大丈夫だよ」

『何よりです。ところで智貴さん。今、外にいませんか? 雨風の音が凄いですけど』

「え。いや、まさか」

『智貴さん』


 美園の声がほんの少しだけ低くなった。


「ちょっと外にいるけどすぐ帰るから大丈夫」

『……今、どちらですか?』

「ええと、家の近く――」

『どちらですか? 場所を答えてください』

「はい」



「電話に出なかった事はすみませんでした」


 美園の部屋に置かせてもらっていた服に着替え、彼女が腰掛けるベッドの前に置かれたクッションに座らされている。目の前のテーブル上では三つのアロマキャンドルに火が灯っており、室内をかすかに優しく照らしている。

 美園は既に風呂に入っていたらしく、ピンクのネグリジェ姿の彼女からは少し強めの甘い香りがし、キャンドルからのほのかなラベンダーの香りの中でもよく分かった。


「でも。でもですよ?」


 僅かに語調を強くするものの、タオルで僕の髪を拭いてくれる優しい手つきに変化は無い。「自分で出来るよ」と言いはしたのだが、あっさりと黙殺された。


「こんな日に外に出て、智貴さんに何かあったらどうするつもりだったんですか? 本命の資格試験だって近いんですよ?」

「ごめん」

「ごめんじゃないです。私は謝ってほしいんじゃありません」


 美園は怒っている。怒ってくれている。逆であったなら僕だって間違いなく彼女を叱った事だろう。

 理屈の上ではその通り。僕のした事はただ美園に心配をかけただけ。反省はしている、ただあの時はじっとしてなどいられなかった。


「ごめんなさいは私の方です。私が電話に出ていれば……こんな時に智貴さんが心配してくれる事は考えればわかったのに」


 少しその声が震え、手の動きが緩慢になっていき、最後には止まった。髪はほとんど乾いているが、それが理由でない事はわかる。


「違うよ」


 振り返らずに頭の上に置かれた美園の小さな手を取り、指を絡めた。やわらかく暖かい。


 美園が折り返しの電話をくれたのは7分後だった。出掛けるまでの準備に数分かかった事を考えれば、我ながら苦笑してしまうくらい余裕がなかっただけだ。


「僕が考えなしだった。美園が気にする事は何もないよ。だから、ごめん」


 美園の指に力が入るのを感じた。「うん」と呟き、ゆっくりと振り返る。キャンドルの小さな炎が彼女の白い肌に橙色のゆらめきを映し出し、それがとても綺麗で見惚れた。


「美園は謝るの禁止」


 開きかけた美園の唇にそっと指を伸ばして触れた。やわらかく吸いつくような感触が伝わる。


「智貴さんも、もう謝らないでくださいね。智貴さんが危険な事をするのは絶対に嫌です。でも、やっぱり私のために来てくれた事は嬉しくて仕方がないんです」


 僕が指を離すと美園は優しく微笑み、僅かに首を傾けてしなを作りながら僕の唇にそっと指先で触れた。

 その綺麗でなめらかな指先に抱いたちょっとしたいたずら心は必至で我慢した。


「嬉しいですけど、でも、もう絶対にしないでください」

「うん。考えなしに美園を心配させるような事はもう絶対しない。約束する」


 そっと小指を差し出すと、やわらかに笑う美園がゆっくりと小指を絡めてくれた。


「こういう時の対応なんかはまた話し合おう」

「はい」


 繋いだ小指を解き、美園はベッドから降りて僕の前にぺたんと座った。

 炎の作るゆらめく光が上目遣いの美園の大きな瞳に反射し、より一層の熱と潤みを感じさせた。


 そしてその瞳にゆっくりと蓋がされるので、距離を詰めて今度は指ではなく互いの唇で触れ合った。

 甘い香りと吐息を感じながら腰に触れて抱き寄せると、美園は僕の首に腕を回し、僅かにその身を震わせた。


「智貴さん、冷たいです」

「え、そうかな? ごめん」


 唇を離した時、頬を染める普段の美園はおらず、真剣な顔で僕の体をぺたぺたと触り始めた。


「手が冷たかったのは仕方ないと思いましたけど、相当冷えてしまっていますよ。暖房は使えませんからベッドに入ってください」


 素早く立ち上がった美園が掛布団をめくり、「さあ」と僕を促す。


「いや、風呂に入ってないし――」

「ダメです。とにかく早く温まってください」


 有無を言わさぬ調子の美園が本気で僕の腕を引っ張るのだが、雨に打たれた自分が彼女のベッドに入るのはためらわれた。


「智貴さん。私が雨に濡れてお風呂にも入れなかったとして、ベッドに入りたくないと言ったらどうしますか?」

「……無理矢理寝かすだろうね」


 想像してみるが、きっと嫌がる美園を無理矢理ベッドに押し込めるだろう。文字で考えると酷い。

 諦めてそれを伝えれば、美園は満足そうに「はい」と微笑んだ。


「うん、ありがとう。予報だと明日には抜けてるだろうし、僕が洗濯するから」

「もう。今そんな事を気にしなくていいんです」


 布団に潜り込んですぐ、美園はあとを追うように僕にぴったりとくっついてきた。


「冷たいですね」


 僕の足に自分の足をそっとすり寄せながら、体をぎゅっと押し付けるように近付け、美園が僕の頬に触れる。


「くっつくと冷えるよ」

「今冷えている人が言う事じゃありませんよ」


 くすりと笑った美園が顔を寄せ、そっと僕と唇を触れ合わせて少しはにかんだ。

「温めてあげます」と、美園は少しいたずらっぽく笑い、僕の背に腕を回した。


「だから、智貴さんも私を抱きしめてください」

「そんな事言われると朝まで離せなくなるけど、いい?」

「嫌な訳ないじゃないですか」


 少し頬を膨らませた美園がもう一度してくれたキスを合図に、彼女を強く抱きしめた。


「春休みに一緒に暮らし始めた時、最初の朝に言ってくれた事を覚えていますか?」

「可愛い? 愛してる?」

「もう……それは毎日のように言ってもらっていましたよ」


 恨めしげな視線を送ってみせた美園は、ふふっと笑う。


「二人の熱が混ざっていくみたいで幸せだって、そう言ってくれましたよね。だから今、幸せです」

「うん」


 はにかむ美園の額に口付けを落としてそっと胸元に抱き寄せると、彼女は僕の背中に回した腕に力をこめながら静かに口を開いた。


「だから、ありがとうございます。智貴さん」

「うん。ありがとう、美園」


 最後に笑い合って口付けを交わし、お互いをぎゅっと抱きしめ合い、他愛のない話をしながら過ごしていたところがこの夜の最後の記憶。

 次の記憶は眩しい朝日に目を覚ました時。腕の中の美園が優しく微笑みながら僕の髪をそっとなでてくれていたところだった。


 そして僕は風邪をひいていた。

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