甘い看病

「37度9分」

「風邪ですね」


 体温計の数字を見せると美園は淡々とそう言って、僕の体を支えながらゆっくりとベッドに倒した。

 鼻に症状はなく咳もほとんど出ないが、頭が重く喉も少し痛い。


 目が覚めてしばらくは腕の中に美園を抱く感覚と、彼女が頭を撫でてくれる感触が気持ち良くて幸せだった。しかし段々と違和感が強くなり、起き上がろうとしてふらついた。誤魔化そうとしたが流石に無理だった。


「お粥を作りますのでそれまで休んでいてください」

「その前に顔洗って歯を磨いてくるよ」

「そうですね。それでは」

「歩けるよ?」


 まるで介護のように僕を支えてくれようとする美園に苦笑してしまうのだが、当の本人は大真面目なのか僕の返答に不満顔だ。風邪をひいている事に加えて昨夜はだいぶ心配をかけてしまったせいだろう。


「お粥食べたいし、作り始めておいてほしいな」

「……わかりました」

「ありがとう」


 残念そうに頷く美園の頭を撫でて起き上がると、「待っていてくださいね」とはにかんだ彼女はそのままキッチンへと向かって行った。途中で少し心配そうに振り返るので、可愛いなあと思って軽く手を振ると、美園も小さく手を振り返してくれた。もう本当に可愛い、余計に体温が上がる気がする。


 そんな幸せな気分のまま洗面に向かったのだが、熱とダルさのせいか気が付けばぼーっとしてしまい、歯磨きと洗顔、髭剃りにやたらと時間がかかってしまった。そのせいで美園が心配して覗きに来てしまったほどだ。


「ごめん。心配かけて」

「気にしないでください。でも、ベッドまでは付き添いますよ?」

「うん。ありがとう」


 嬉しそうに頬を綻ばせ、美園は体を寄せて支えてくれた。そしてそのほのかに甘い香りで気付く。気付いてしまえば自身の髪や体のべたつきが気になる。


「僕、臭くない?」

「そんな事ありませんよ。でも、気になるのであればご飯の後で体を拭きますね」

「ああ、ありが……いや――」

「はい。約束しました。お粥はまだ少し時間がかかるので、申し訳ないですが休んでいてください」


 ニコリと微笑み、美園は僕の返答を待たずにキッチンへと戻って行ってしまった。



「お待たせしました」


 調理途中で美園が持って来てくれたスポーツドリンクを飲みながら待っていると、笑顔の彼女がトレイでお粥を持ってやって来た。

 テーブルをベッドサイドに寄せ、トレイを置いた美園に支えられて体を起こすと、彼女は「はい」と笑顔でレンゲを差し出してきた。湯気の立ったたまご粥が六分目程度に盛られている。


「自分で――」

「はい」

「はい」


 有無を言わさぬ笑顔に諦め、というよりは恥ずかしさを我慢して素直に口を開けた。所謂はいあーんは付き合っていても稀にする程度だが、今日は大義名分があるので需要と供給がマッチしている。


「美味い」


 お粥がどうしてここまで美味いのだろう?

 冷ましてくれていたのか熱さはちょうどよく、塩のきき具合も絶妙だ。舌の好みを完全に把握されている事を改めて認識してしまう。


「お口に合って良かったです。まだ食べられそうですか?」

「全部食べたい」

「無理はしちゃダメですよ。消化にも体力を使いますからね」


 優しく笑った美園が僕の頭を撫でながら、先程より僅かに少ない二口めを運んでくれる。


「治ったらお料理をたくさん作りますから、その時は食べてくださいね」

「うん」


 ふふっと笑った美園は水の入ったグラスとレンゲを交互に僕の口へと運び、その後は薬まで飲ませてくれた。


「美園はいいお母さんになるよ」


 甲斐甲斐しく世話をしてもらい、今の僕はまるで子どもになったような気分でいる。


「頑張りますね」


 優しく微笑んだ美園はそのままトレイと食器を持って立ち上がる。


「食器をつけて来ちゃいます。すぐに戻りますから、そうしたら体を拭きますね」

「うん……」


 優しい笑顔に見惚れて、脳が溶ける。熱のせいもあるのだろうが、可愛いだけでなく、慈愛の精神に満ちたとでも言うのだろうか、そんな美園の表情がとても綺麗で可愛くて、どうしようもなくたまらない。


 結局、僕に多少まともな思考力が戻ってきたのは美園がバスタオルを持ってやって来た時だった。


「まずは髪の毛からにしましょう。体を拭くのはその後で、先にドライシャンプーを使います。体を起こしますね」

「え、いや……」


 戻ってきたからこそ思い出す。今の自分が本来彼女のベッド聖域にいるべきでない状態である事を。

 恥ずかしさと申し訳なさで遠慮しかけたが、多少清潔にするのは絶対に必要な事に思えた。頭の状態が完璧だったとしても悩みそうな難問に、熱が上がりそうな気分だ。


「はい。それでは失礼しますね」


 答えの出ない僕を見てくすりと笑い、美園は僕の肩にふわりとバスタオルをかけてブラシで髪をとかし始めた。かなり気持ちがいい。


「今更だけどドライシャンプーって何?」

「水を使わない、流す必要がないシャンプーです。忙しくてお風呂に入るのが遅くなる時に使う事がありますけど、気持ちいいですよ」

「へえ。だから美園はいつでもいい匂いがするんだ」


 ブラシを動かす美園の手がピタリと止まる。「どうかした?」と尋ねれば、「なんでもありません。もうっ」と怒られてしまった。


「じゃあ次はシャンプーを使いますね。スプレータイプなので少し冷たいかもしれませんけど」

「大丈夫」


 宣言通りスプレーがふりかけられ少しだけ冷たいが、スーッとして気持ちいい。しばらくシューっという音に耳を傾けていると、コトリと缶を置いた美園がゆっくりと僕の頭に触れ、手櫛で髪を梳き始めた。


「気持ちいい」

「良かったです。次は少しマッサージしますね」


 そしてそれもこの上なく気持ちいい。クセになりそうで少し怖いくらいだ。

 時々変な声が漏れる僕を見てか、美園もくすりと笑う。そんな幸せな時間がしばらく続くと、彼女の手がゆっくりと止まった。


「次は体を拭きますね」


 蒸しタオルを用意した美園が、優しく笑う。


「お願いします」

「はい。お願いされます」


 恥ずかしさはある。申し訳なさもある。しかし頭皮マッサージが気持ち良過ぎたので、もうどうにでもなれという気分だ。いや、むしろ楽しみにしていると言っていい。

「ばんざいしてください」と微笑む美園に素直に従い、肌着まで脱がせてもらう。

 上半身だけとは言え昼間から見せる事などないので、美園は少しだけ照れた様子を見せている。またも脳が溶ける。


「熱かったら言ってくださいね」

「うん」


 拭くと言うよりは蒸らすように、美園は僕の体に少し熱めのタオルを当てていく。じんわりと広がっていく温かさがとても気持ちよく、力が抜ける。そんな僕を支えるために体に触れている彼女の手が少し冷たく、それも熱を持った体にとって非常に心地良い。

 もう完全に美園にしてもらうがまま、完全に身を委ねた。


「気持ちいい」


 多分何度も何度もそんな事を言った。そのたびに美園は優しく「はい」と頷き、嬉しそうな顔を見せてくれた。


「それじゃあ、次は下の方ですね」


 新しい服と肌着を着せてもらうと、美園はニコリと笑ってそう言った。聞き間違いかと思ったが、ベッドサイドには下の着替えも用意されていた。


「流石にそれは、その……」


 美園は笑顔を崩さない。



「もうお嫁に行けない」

「私が責任を取りますよ」


 台詞が男女逆だ。

 美園は堂々と言い放ったが、流石に恥ずかしいのか顔はかなり赤い。風邪がうつっていないか心配になるほどだった。


「だから今はゆっくり休んでください」


 慈しむような優しい笑顔の美園がベッドに横たわる僕の髪をそっと撫で、そのままキスをした。顔にかかる彼女の髪は少しくすぐったく、そしてたまらなくいい香りがする。

 離れていく彼女の顔に寂しさを覚えるほど長めに唇を触れ合わせ、美園はえへへと少しだけ照れて笑う。


「風邪、うつるよ」

「大丈夫です」


 そしてもう一度、今度は軽く触れる程度。


「風邪ひいて良かったなんて思ったの初めてだ。心配かけたのはごめんだけど」

「もうっ」


 呆れたような顔を作ってみせるが、美園の顔はすぐに綻んだ。


「普段からもっと甘えてくれてもいいんですよ?」

「結構甘えてる気がするけど」

「お疲れの時や眠る前はそうですけど、それ以外の時にはあんまり甘えてくれませんよ」


 そう言って美園は可愛らしく口を尖らせ、優しく僕の髪を撫でる。


「普段から甘えると、その状態から抜け出せなくなりそうだから」


 美園に甘えたい気持ちは大きいし、実際に甘えている自覚はある。

 それでもやはり、一番は美園の前でカッコよくありたいという思いだ。


「それじゃあ」


 ふふっと笑いながら僕の頬に触れた美園が、そのままゆっくりと優しく唇を食んだ。


「今日はたっぷり、クセになるくらい甘やかしてあげます」


 その笑みが蠱惑的で、「お手柔らかに」と言いながらも期待で胸が高鳴った。

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