千の夜、万の朝

 心地いい。

 浮かんできた意識で最初にそう感じた。

 ほのかに甘い香り、髪を撫でる優しい手つき、そのどちらもが愛しい恋人のもの。

 残るかと思っていた倦怠感はまるでなく、まどろみに浸る暇もなく目が開いた。一瞬でも早く、嗅覚と触覚だけでなく視覚でも美園を捕まえたいという意識のせいだろうか。


「おはようございます。智貴さん」

「おはよう、美園」


 首を少し右に回すと見える優しい微笑み。


「起こしちゃいましたか?」

「いや、ちょうどいい時間だよ」


 枕元のスマホが示す時間は目を覚ます1分前。アラームを解除し、美園がしてくれているように僕の方も彼女の髪に手を伸ばす。

 サラサラの髪ごしに頭を撫でると美園は気持ち良さそうに目を細め、同じように僕の頭を撫でてくれる。僕が起きていなかった時よりもしっかりと、それがとても気持ちいい。


 7月に入る頃から指折り数えた夏休みの同棲生活が昨日から始まった。どちらかの家に泊る事はずっと続けていたが、長い間一緒に暮らす事はやはり違う。

 別れの言葉が要らない。これは昨日美園から言われた事、「これからまた『さようなら』を言わなくていい日が続きますね」と。


 おはよう、おやすみ、おかえり、ただいま。そんな言葉が二人にとって当たり前になるのだと美園は嬉しそうに、それはそれは嬉しそうに笑ってくれた。


「智貴さん」

「うん」


 ゆっくりと目を瞑った美園の顔にはやわらかな笑みが浮かんでいる。体の向きを変えつつゆっくりと顔を寄せ、ほんの一瞬唇を触れ合わせる。

 ぱちりと目を開いた美園が僅かに頬を染めてはにかむので、もう一度、今度はもっと長くしたくなる気持ちを抑え、そっと抱き寄せた。


「暑くない?」

「幸せです」


「答えになってないよ」と口にすれば、美園はふふっと笑いながら僕の胸元に顔を埋める。少しくすぐったい。

 幸せそうな美園をもう少し強く抱きしめようと腕の位置を変えようとしたところで、手のひらにやわらかな感触を覚え、美園が僅かに体を震わせた。


「あー、そう言えば……」

「そう言えば、なんですか?」


 完全に露出している二の腕の事をすっかり忘れていた。つい先日の花火大会までの時までと、美園が着ている寝間着が変わっている。

 白いネグリジェには多くのフリルがあしらわれていて、今までのリボンのついた可愛らしいタイプの物とは一線を画す。だけでなく、何より大きく違うのは肩と首周りの布面積。


 まず袖が無く、小さな肩とやわらかな二の腕が惜しげもなく露わになっている。その上襟ぐりの開き方も今まで着ていた物よりもだいぶ大きく、以前は体勢によっては見える事もあった程度の部分が今は少し動くだけで見える。

 本来は見せる造りにはなっていないだろうに、美園ゆえに見えてしまう訳で、美園ゆえに刺激が強い。

 昨晩、風呂上がりの美園がこれを着て出てきた時には一瞬フリーズした。上気した頬は風呂上がりのせいだったのだろうが、恥ずかしそうに伏し目がちにしながらもちらちらと上目遣いの視線がこちらを向いており、大変眼福だった記憶が蘇る。


 そんな美園は今僕の腕の中、少しいたずらっぽい笑みを浮かべながら上目遣いの視線を送ってくる。ついでに少しだけ体を寄せてくる。

 ぐにぐにふにふにと、種類の違うやわらかな感触にもうどうにでもなれという気持ちにさせられる。


「教えてください。気になります」


 小悪魔の笑みを浮かべながらも、美園の白い頬が少しずつ色付いてきている。

 恥ずかしいのを堪えつつもこうしてくれているんだなと思うと、途端に目の前の小悪魔の姿が何より愛おしく思え――元からだが――そっと髪と頬を撫でた。


「うん。そう言えば、だいぶ頑張ってくれてたなあって」


 本来美園は肌を露出する事をあまり好まない。大学に行くときなどは膝上丈のスカートを履く事すら珍しいくらいで、胸元はおろか鎖骨すら見えて半分程度。

 デートや家で二人の時などはもう少し体のラインが出る服を選ぶこともあるが、それでも肌の露出は控えめだった。


 だからこの格好は僕のためにしたものだ。僕を喜ばせたくて、美園本人は恥ずかしいのにそれを抑えてしてくれている。布面積そのものよりも、彼女のその思いに対して心の底から喜びを覚えた。

 まあ、この格好で喜ぶと思われているのは事実とは言え少し複雑ではある。昨晩の事もあって否定のしようもないのだが。


「はい。智貴さんが、温かくなったら薄着になってほしいって言いましたから」

「……覚えててくれたんだ」

「はい。もちろんですよ」


 美園は優しい微笑みを見せたかと思えば、そのまま腕に力を入れてぎゅっと抱き着く力を増した。

 軽口程度だった、夏場は美園が薄着になるから嬉しいという言葉。それを覚えいて、真剣に考えてくれた。


「これを選ぶ時、ドキドキしました。家に帰って鏡の前で合わせてみた時、顔が熱くなりました。試しに着てみた時は……内緒です」


 密着した体はそのままに、美園は腕から少しだけ力を抜き、きゅっと僕の寝間着の背中の部分を握った。

 熱を帯びた可愛らしい顔を見つめる僕の視線に少しだけ眉尻が下がり、美園の額がこつんと僕の胸に当たる。


「ありがとう」


 前面と比べて布面積の大きな背中に触れ、美園の力が抜けた分離れた二人の距離を戻してそっと頭を撫でた。


「そろそろ朝の支度の時間だけど、もう少しだけこうしていたい。いいかな?」


 幸い二人とも今日は予定がない。今回の同棲で初めての朝、少しだけわがままを言ってみたい。

 言葉は無く、美園から返ってきたのは僕の胸に顔を埋めたままの小さな二回の首肯。少しくすぐったくて、とても可愛くて、思わず吐息が漏れた。


 そんな僕の胸元で、美園は僅かに顔を上げて視線だけをこちらに向ける。僅かにいたずらっぽい、妖しい光を灯した綺麗な瞳。

 何をしてくれるのだろう? 楽しみにしながら見つめていると、美園はそっと僕の頬に触れて優しい手つきで指を這わせた。


「髭、剃ってくる」

「ダメです」


 同世代と比べてだいぶ薄くはあるが、僕も成人しているので朝には多少は伸びている。


「こうするの好きです」

「えー」


 まさかの髭フェチだろうか。伸ばしたくはないのだが。


「あ、いえ違います。髭は無い方がいいです」


 赤い顔の美園が慌てて釈明をする。

 布団の中で少しわたわた動く美園が可愛らしいのだが、そんな僕の視線に気付き僅かに頬を膨らませ、そしてえへへと笑い、最後に自慢げな笑みを浮かべた。


「でも、私だけが見られる智貴さんですから」

「……ああ、僕が美園のすっぴん見ると嬉しいのと一緒か」

「それはあんまり見ないでほしいですけど」

「ダメ」


 顔を背けようとした美園の両腕を捕まえると、彼女は僅かに抵抗するフリを見せながらもその顔には可愛らしい笑みが浮かべられていた。


「もうっ。起きましょう、朝ご飯作りますから」

「あと5分。いや、10分」

「もう……仕方ないですね」


 腕を離すと先程までとは逆に、美園の手が優しく僕を胸元へと招き入れてくれた。

 甘い香りとやわらかな美園に包まれ、あと30分と言うべきだったと強い後悔を覚えた。


 こうやって一緒に朝を迎えるのは何度目だろうか。この夏を終えれば百回はゆうに超える。それでもまるで足りないと感じるのだから、我ながら本当にわがままになったものだと思う。

 大学生活ではきっと千回に届く事はない。しかしその後はともに過ごす夜は千を超え、ともに迎える朝は万に届きそれさえも超えていく。

 ただそれでも、その一万回よりもとりあえずは目の前の一回だと、もう少し美園に甘える事にしようと思う。


「こうやって甘えてくれる智貴さんも、私だけのものです」


 髪を梳いてくれる優しく心地のいい感触に次いで、誇らしげな声が聞こえた。

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