8月の彼女の隠し事
「美園。何か隠してない?」
「……な、何の事でしょうか?」
いつものように後ろから抱きしめ、そっと髪を梳きながら尋ねてみた。
まるで引っかかる事のないサラサラの髪とは反対に、美園はつっかえながら言葉を返す。一瞬体がこわばったのもわかった。
僕と美園の同棲生活ではあらかじめ家事分担は決まっている。春休みの時と同じく、洗濯関連は美園、掃除全般は僕、食事の支度は交代といった具合に。
しかしそうだと思っていたのだが、夏休みの同棲開始から数日、美園は何かと理由をつけて僕に料理をさせない。
曰く「智貴さんに食べてほしかったお料理があるんです」「お母さんから新しいレシピをもらったので」などなど。
これらの発言自体に嘘はなかった。嬉しそうに僕にそう言い、楽しそうに今まで僕が食べた事のない料理を作ってくれた。期待と僅かばかりの不安を宿した瞳で僕の一口目を見つめる美園に「美味しいよ」と伝える瞬間は、料理の味と合わさって言葉にできないほど幸せな時間だった。
だがしかし、それが続けば流石に違和感を覚えるのも当然の事。
「隠し事は無い、と」
「そうです。私が智貴さんに隠し事なんて、ある訳がありません」
「じゃあ、今日の晩御飯は僕が作るよ」
「え!」
「ここのところずっと美園に作ってもらってばっかりだったし、しばらくは僕が――」
「ダメです!」
腕の中で器用にくるりと反転した美園が、少し大きな声を出した。
「どうして?」と尋ねれば、美園は僕から逸らした視線を左右に一往復。そして「そうです」と輝かせながら戻ってきた目で僕を見て、その弛んだ頬で全てを察したようで、少し口を尖らせた。
「……ずるいです」
「僕が美園の事分からないと思う?」
「思いません。だから、そういうところを含めてずるいです」
言葉とは裏腹に目を細めた美園がそっと僕の胸元に顔を埋めて抱きついてきた。
「ありがとう」と頭を撫でて背中に腕を回すと、美園は自身の腕にぎゅっと力を込める。
僕は8、9、10月と続けて資格試験を受ける。
就職活動で有利になるように、去年の文化祭が終わった頃から力を入れてきた。
最初の試験はもうすぐそこで、美園はそんな僕を支えようとしてくれている。
もちろん嬉しい。この上なくだ。
だが美園が僕を支えてくれているのは元々だ。
同じ時間を過ごす事で、優しく可愛らしい笑みを初めとした色んな表情を見せてくれる事で、透き通るように上品で優しい、それでいて脳を震わす甘い声を聞かせてくれる事で。
まっすぐ僕を見る綺麗な瞳に宿った信頼も、言葉で伝えてくれる信頼も、二人の未来に疑う事無く馳せてくれる思いも、全てが僕の原動力になっている。だから――
「美園が一緒にいてくれるだけで凄く頑張れるんだ。文化祭で支えてもらった時と違って今回は結構余裕あるし、美園に全部やってもらわなくても大丈夫だよ」
そう言って髪を梳いたところ、美園は僅かに顔を上げて小さくふるふると、強い瞳でそれを否定した。
「私がしたいんです。智貴さんが嫌でなければ、させてほしいです」
「してくれる事は嬉しいけど、させてしまうのは嫌だな。同棲中の家事分担は約束してた訳だし、僕は美園に家政婦をしてもらうつもりは――」
「――違いますよ」
甘い香りがふわりと近付き、唇に一瞬だけやわらかな感触。
僕の言葉を遮った美園は優しく微笑み、もう一度、二度三度と、僕の肩に手を置いて唇を優しく食んだ。
まぶたを閉じているからこそ鋭敏に感じる、合間ごとに離れた唇からかすかに甘い吐息が漏れ、それをもどかしいと思えば次の瞬間にはもっと甘い刺激。
最後にゆっくりと唇を離して目を細めた美園がふふっと笑い、それが蠱惑的に映る。顔が熱い。
「家政婦さんがこんな事をしますか?」
「そ、れは……しないけど。もののたとえで……美園は彼女だから。大事な」
手を伸ばし髪に触れ、そのまま白く柔らかな頬に指を這わせると、美園がぴくりと体を震わせて、小さく息を吐いた。そして少しくすぐったそうに、とても嬉しそうに笑う。
「はい。彼女として、です。智貴さんは大事な彼氏さんです。だから、支えたいです。」
少しはにかみながら、それでいて視線は僕から逸らさず、美園はしっかりとそう口にした。
僕の肩に手を置いて体を起こしているので珍しく見上げる形で向かい合った美園は、「ダメですか?」と僅かに眉尻を下げて少しだけ首をたおす。
ダメな訳がない。そんな意思を優しく笑いかけて頬を撫でる事で示す。
「嬉しいんだけど、やっぱり申し訳ないな」
美園はくすりと笑い、頬に触れていた僕の手に一回り小さな可愛らしい手を重ね、優しく撫でた。
「もうキャンセルは受け付けませんよ?」
「そんな事はしないよ」
苦笑してみせ、「その代わり」と言葉を続ける。
「10月の試験が終わったら今度は僕の番だから。文化祭もそれ以外も、美園を支えられる機会があれば全身全霊で尽くす」
「私は智貴さんが一緒にいてくれるのならそれだけでいいですよ」
「おい」
やわらかな頬を指で軽くつつくと美園がえへへと笑い、肩に置いていた手から力を抜いてゆっくりと僕にしなだれかかる。だから、そんな彼女を少し強めに抱きしめた。
◇
「今度の試験、智貴さんさえ良ければ私の実家に泊りませんか?」
しばらく抱き合った後、美園が珍しくおずおずといった具体に口を開いた。
8月の試験会場は隣の県、美園の実家からほど近い大学で行われる。
恐らく今までこれを口にしなかったのは僕に気を遣っての事だろう。試験前に慣れない環境で無駄な緊張をさせたくないと、そんな風な考えがあったはずだ。
「当日ある程度落ち着けますし、交通機関のトラブルがあっても困りませんよ」
「確かにメリットだよなあ」
試験は午前からなので、前泊か当日の早出か悩んだ末に金銭面を考えて後者を選んだ。早起きはそれほど苦ではないが、美園の言う通り交通機関のトラブルが起こると一発でアウトなのが怖かった事も事実。
「前日と当日、二泊三日でどうでしょうか?」
ちらりと美園を窺えば、少し緊張の色が見える。
「よし。お願いしてもいいかな?」
だからすぐに決めた。
「はいっ。連絡しておきます」
顔を綻ばせた美園の髪を撫でながら、即決して良かったと思った。
僕の試験に悪影響があってはいけないと、考えていたけれど言わずにいた提案だったのだろう。
いくら僕が余裕だと言ったとしても、美園がそれを口に出すのには勇気が要ったはずだ。その気持ちに応えたいと思った。
そして僕自身、美園のご両親にお会いしたかった。
春休みに美園が僕の両親と会って打ち解けてくれた時、嬉しかった。だから今回、去年よりももう少しご両親との距離を縮められたら、自分自身はもちろん美園も喜んでくれると思う。
更にもう一つ――
「ちゃんと恥ずかしくない彼氏だって、証明してみせるよ」
去年色々あって――主にお父さんのアレ――うやむやになってしまったと思っている事がある。
美園のご両親は
交際自体は認めてもらえたが、それはきっと一昨年の文化祭、美園と偶然出会ったあの日の事があったからで、去年の僕を見てではない。
「そんな必要はありませんよ。私の大切な、何よりも大切な自慢の彼氏さんです。今年こそ、そう紹介させてください。両親もわかっているはずですけど」
「ハードル上げないでほしいなあ」
そう口にすると自慢げに笑っていた美園が口を尖らせた。
「ダメです。『大切な自慢の彼氏さん』だけでも大幅な譲歩なんですよ? 智貴さんの事を聞かれたら本当はそんな言葉だけじゃ足りないんですから」
なんだか聞いたような言葉だなと、苦笑して頭を振った。
「美園を嘘つきにはしない」
「はい。何の心配もしていません」
何よりも可愛らしい微笑みと優しい声に込められた信頼、きっとこれに応えると強く頷いてみせると、美園はしっかりと首を縦に振り、ゆっくりと瞳を閉じた。
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