エゴイズム

 6月最後の土曜、文化祭実行委員の前期お疲れ様会が開催される。

 美園は成さんの部屋に来ていた志保と一緒に合宿所へ向かって行った。


「悪いな、飯ごちそうになって」

「一人分も二人分も変わんないんで気にしないでください」


 残されたのは、出掛けていった二人の彼氏が二人。せっかくなので久しぶりに食事に誘ってみたが、出した料理への反応は上々だった。流石に期間が空き過ぎているので味付けが変わった事にはまるで気付かれなかったが。


「この部屋来るの久しぶりだけど、ほんと変わったよな」

「1年半ぶりくらいですかね。確かに物は増えましたね」


 最近買ったペアクッション以外にも、他の来客には使わせない美園専用のクッション、三面鏡などなど。成さんに見えない所ではペアカップ、ペアグラスやお揃いの食器やバス用品なども増えた。


「あとは匂い。男の一人暮らしの部屋とは思えん」

「実際一人暮らしの部屋のつもりはありませんからね」

「はいはい」


 呆れ顔で手をひらひらさせる成さんにお茶を一杯出すと、「さんきゅ」と受け取ってくれた。


「こういうのも美園の影響なんだろうな」

「間違いなくそうでしょうね。酒飲みます? 部屋には置いてないんですけど、買ってきますよ」

「いや、俺の部屋に買い置きがあるから持って来る」

「ありがとうございます。じゃあ僕はつまみ作っときます」

「頼む。しかしほんとに影響大きいんだな」


 そう言って出ていった成さんを見送ってからしばらくして、戻ってきた先輩とテーブルで向かい合って乾杯の音頭を取った。


「去年の花火前だから二人でこうやって酒飲むのも1年ぶりくらいか」

「ですね。二人じゃなければその後何回かありましたけど」


 思い出話から始まり、僕の就活関連や成さんの教育実習といった近況報告などの取り留めのない話をしていく。


「じゃあ市の方で教採受けるんですね」

「ああ。悩んだけどな、県の方が倍率ちょっとだけど下がるし。マジで悩んだよ」


 成さんは手に持った缶を口元へ運び、傾けた。


「数年で異動があるからな、公立の教職は。西の端から東の端へって異動は稀だろうけど、ない訳じゃないし、将来の事考えたらやっぱ市内くらいで済ませたい。夢の教職だけどな、ダメな考えだと思うか?」

「いえ全然。夢のためなら何でも投げ打つってのもカッコいいとは思いますけど、できる人ばっかじゃないでしょ。成さんには志保もいますし」

「まあそうなんだよな。結婚はまだ先にしても、俺が市内で教職に就ければ来年からは同棲もできるしな」

「羨ましい事ですね」

「そっちは同棲とか考えてないのか? 俺たちと違って二人とも他県出身の一人暮らしだし、金銭面のハードルは低くないか?」

「まあ、考えなくもなかったんですけどね」


 実際春休みの同棲の話を美園からしてもらった時も、その同棲の最中も考えた。互いの両親への説明というハードルは高いと思ったが、メリットは大きい。

 まず金銭面で、二人の家賃を合わせた額よりもかなり安い額で二人用のアパートが借りられる。そして光熱費関連も一人暮らしを二人分よりは安く済む。

 そして何より美園と同じ部屋で暮らす事ができるという幸せが手に入る。しかし――


「二人用の物件この辺に少ないんですよ。一番近くて徒歩15分くらいですし、そこもあんまりいいとこじゃなさそうだったんで」

「ああ、遠いと面倒だな」


 面倒なのもあるが一番は安全面だ。大学から離れれば人通りも減る。僕が常に一緒にいられる訳ではないので、距離の問題は非常に重要だ。


「あとはまあ、美園のプライベートに制限かけちゃうことになるんで、それが嫌ですね。流石に同棲してる部屋に友達呼べないですからね。美園の性格なら余計に」

「まあそれはな」

「志保は元々自宅生だから成さんと同棲しても状況変わらないでしょうけど、美園はたとえばその志保は家に呼べなくなりますよね」

「そうだなあ。就職したら友達家に呼ぶ事もほとんどなくなるし、志保は元々自宅からだしで、その辺の事は考えてなかったな」

「加えて僕の方が一年先に卒業するんで、美園が四年になった時にまた一人の部屋探して引っ越して、っていう面倒をかけるのも嫌ですね」

「ほんとにベタ惚れだな。全部美園のためか」


 自分から聞いたくせに、成さんは呆れたように笑ってまた酒を呷った。


「違いますよ。多分美園はそれでも同棲したいって言ってくれますよ、本心から。だからしないのは僕が嫌だからです。僕が美園に不自由させるのが嫌なんです」

「はいはい」



『二次会が終わったので今からそちらに戻ります』と美園からメッセージが入った。追加で志保と一緒に帰って来るので迎えは不要との連絡もあった。成さんのところにも志保から同様のものが届いたらしく、「じゃあそろそろ戻るわ。今日は楽しかった、ありがとな」と自分の部屋へ戻って行った。


「ただいま帰りました」


 部屋の片付けをちょうど終えた頃、玄関の扉を控えめに開けて美園が帰ってきた。


「おかえり、美園」

「はい。ただいまです。智貴さん」


 靴をしまった美園がえへへと嬉しそうに笑うので、たまらなくて胸元に抱き寄せ、そのまま抱きしめた。鼻に届いた甘い香りからほんの少し遅れて、驚いたような声が耳に、やわらかな感触が全身に伝わる。


「何かありましたか?」


 最初は驚いたようだった美園が、とても優しい声で僕の耳をくすぐりながら、やはりとても優しい手つきで背中を撫でてくれる。


「何でもないよ。ただの愛情表現」

「嬉しいです」


 美園の方からもぎゅっと僕を抱きしめてくれたので、そのまましばらく玄関で抱擁を交わし続けた。


「美園」

「はい」


 腕の力を緩めると、美園も同じようにそうしてくれる。真横にあった顔を向かい合わせて名前を呼ぶと、優しい笑顔を浮かべた彼女がゆっくりとまぶたを下ろす。

 唇を寄せると、背中に回されていた腕が首の後ろへと位置を変えるので、一度触れて離し、もう一度と繰り返し、何度も美園の形のいい唇を啄む事にした。

 最後に少し長めに触れあわせた唇を離すと、ぱちりと目を開いた美園がえへへとはにかみながらかかとを少し浮かせ、僕の唇を優しく奪った。


「ごめんね、玄関で」

「嬉しいので気にしませんよ」


 髪を撫でた美園がくすぐったそうに笑ってくれる。それが嬉しくて、部屋の中だというのに彼女の手を引いてしまった。


「お酒、飲んだんですね」

「ちょっとね」

「道理で、いつもよりも情熱的だと思いました」

「そうかな?」

「そうですよ」


 いつもの定位置、ベッドに寄りかかった僕の前で抱きかかえられた美園がふふっと笑い、僅かに僕の方へ体重をかけながら、彼女を抱いている僕の手に指を絡めた。


「でも多分それだけじゃないよ」

「どういう事ですか?」


 美園が僅かに首を傾げ、こちらを振り返る。

 

 成さんと話している時に改めて考えた、美園と一緒に暮らす事。そして今一緒に暮らさない理由。


「離したくないって思った」

「離してほしくありませんし、私も離れるつもりはありません」


 美園は優しく、それでいて強い意志のこもった声でそう言ってくれる。


「うん。ありがとう」


 後ろから髪を梳くと、絡められた指にほんの少しぎゅっと力がこめられ、美園が意思表示をしてくれる。


「一年、美園が卒業するまで、距離は離れると思う」

「はい。寂しいですけど」

「うん。でも、ずっと傍にはいられないけど、離すつもりはない」


 もう一度髪を撫でる。触り心地のいいサラサラの髪も、その一年間はそう気軽に触れられない。


「だからその後は、今度は距離も離れない」

「はい」


 絡めた指から力が抜け、熱も離れ、美園がゆっくりと僕へと向き直り姿勢を正す。

 だから僕も同じように正座で美園に向き合う。


「ずっと離さないから、ずっと離れないでほしい」


 以前将来の話をした時、美園は僕を追いかけてくれるとそう言った。

 その時は多分嬉しさで考えが回らなかったが、今日改めて思った。

 僕は美園に交友関係を大切にしてほしいと思っている。彼女の世界を広げてほしいと言ったし、思っている。だがそれはきっと、美園との将来において僕が望む事と逆になる。僕を追いかけてくれるという事は、美園自身の交友関係を犠牲にせずにはなし得ないのだから。


「友達と離れる事になると思う。ご家族との距離も遠くなるかもしれない。でも、僕とは離れないでほしい」

「当たり前ですよ」


 背筋の伸びたとても綺麗な姿勢で、美園はやわらかく笑いながらあっさりと断言し、頷く。


「志望大学を決める際、地元じゃなくてこちらを選んだ時は、多分考え無しでした。家族や地元のお友達と離れる事、あんまり意識していなかったと思います」


 僅かに眉尻を下げ、美園は少し恥ずかしそうに笑う。


「本当は一人暮らしを始めた後にそれを実感して寂しく思うはずだったんでしょうけど、すぐにしーちゃんとお友達になれましたし、何より智貴さんに会うのが楽しみで寂しさは忘れちゃっていました」

「そっか」

「はい。しーちゃん以外にもお友達ができました。実行委員では先輩方にとても良くしてもらいました。今年は後輩もできて、仲良くできていると思っています」

「美園ならきっと慕われてるだろうね」


 きっと優しい先輩として人気だろう。そんな美園の姿を思い浮かべてみると、彼女は「ありがとうございます」と嬉しそうに笑った。


「県内に残る人の多い大学ですから、私もそうすれば関係の維持もしやすくなると思います。でも、離れてしまったからと言って全てが無かった事にはなりません。もちろん、全ての関係がそのまま残るとは考えていませんけど」

「うん。距離が離れて時間も経てば疎遠になる人も大勢いると思う。だけど、それでも、僕とだけは絶対に離れないでほしい。他の人と離れる事になっても、僕と一緒に来てほしい」


 手を差し出した。

 エゴイズムだと、そう思いながら。美園に犠牲を強いてまで、僕は美園がほしい。彼女のプライベートを制限したくないと言った同じ口で、彼女の人生を制限しようとしている。


「智貴さん」


 手を差し出したままに見つめていた美園が、ニコリと笑った。

 そして「えい」と言う声とともに美園は僕の額を指でつついた。


「もうっ。そんな当たり前の事を今更言わないでください」


 驚いた僕の前で、美園は唇を尖らせながらそっと僕の手を取ってくれた。


「智貴さんのお傍にいる事が一番の望みだって言いましたよ?」

「それは覚えてるけど、犠牲にしなきゃいけない事だって――」

「ありますけど、それでもです。智貴さんだって、もう今の段階で私のために色んな事を我慢してくれていますよね? 受けたい授業を履修せずに時間を作ってくれていますよね? 研究室だって本当は入りたい所があったって、お義母様から伺っていますよ」


 いつの間にか僕の手を握る美園の手が両手になっていた。少しむくれたような彼女は上目遣いで僕をじっと見つめ、手にぎゅっと力を込めた。少し痛い。


「あいかわらず美園は強いなあ」

「大好きな人に情けない姿は見せられませんから」


 ふっと息を吐いて言うと、ふふっと笑った美園が応じてくれる。


「一生離さないから、僕について来てくれ」

「はい。もちろんです」

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