一生の仕事
資格試験のテキストを読むフリをしながらちらりと美園を窺う。図書館で借りてきたという資料に真剣な顔で目を通し、時々ノートにメモ書き程度なのかサッとペンを走らせている。しかしメモ書き程度の速度で書かれた字にもかかわらず綺麗で見惚れてしまう。
背筋のまっすぐ伸びた綺麗な姿勢にも、たまに髪を耳にかける仕草にも何度でも目を奪われる。
「そろそろ休憩にしましょうか?」
そんな僕と目が合った美園が優しく微笑む。集中力が切れたのだと思われたのかもしれないが、時間としてはちょうどいいくらいと言えた。
「美園のキリがいいならそうしようか」
「区切りまで読めましたから、支度しますね」
「うん。ありがとう」
二人での勉強会は週に一度ほどの頻度、泊まりの時に開催される事が多くなっている。
午後になって文実の作業を終えて帰ってきた美園と、バイトを終えて帰ってきた僕とでしばらく勉強してから、休憩後に夕食の支度というのが今日の予定。
休憩のためにキッチンでケトルに水を入れている美園の後姿をぼーっと眺めていたが、あまりそうしていると振り返って睨まれそう――きっとそんな表情も可愛い――だったので自発的に目を逸らした。
その先にあったのは先ほど美園が片付けた彼女の勉強道具一式で、ペンケースが二つある。うち一つは入っているペンが外から見える革製の白いシンプルなデザインだが、その中には二本しかささっていない。
「どうかしましたか?」
「大事にしてくれてるなあって」
「当たり前じゃないですか」
戻ってきた美園は少し呆れたようにそう言うのだが、頬は弛んでいる。
「そのケースは前からじゃなかったよね?」
「ええ。以前は他の物と一緒のケースに入れていたんですけど、特別なので分ける事にしました」
得意げに笑い、「見ますか?」とそのケースを僕に渡してくれる美園に「ありがとう」と伝え、去年僕がプレゼントしたペンを手に取らせてもらう。
ケースから引き抜いてみると、流石に使用感はあるがとてもよく手入れをしてくれているのがわかる。使ってくれているのは何度も見ているので知っているが、美園がどれほどこれを大切にしてくれているのかが伝わって胸が温かくなる。
「大事に使ってくれてありがとう」
「大切な人から頂いたとても大切な物ですので」
ふふっと笑いながらケースを受け取り、美園は壊れ物を扱うかのようにペンをそっと指でなぞった。優しく繊細な動きと慈しむかのような視線が僅かに僕の心拍を上げる。
「ありがとうございます。智貴さん」
「どういたしまして」
優しく微笑む美園に、内心の高揚を悟られぬように笑って返したが、くすりと笑った彼女はお見通しだったらしい。
◇
「お待たせしました。はい、どうぞ」
「ありがとう、美園」
先日購入した色違いのコースターの上にアイスティーの注がれたペアグラス、そして買い置いてくれていたクッキーを揃えて出し、美園がニコリと笑って向かいに座る。
「相変わらず美味しい」
「ありがとうございます」
いつの頃からだろうか正確に思い出せる訳ではないが、味覚が少し鋭くなったと思っている。明確に気付いたのは春休みに同棲をしていた頃、彼女が二人の味を作ると言って少しずつ変えていた味付けの違いがしっかりわかるようになったのを自覚した。
だから今でははっきりとわかるのだが、紅茶を淹れるにしても美味しくするにはやはり技術が要る。美園に教わっているとは言え、まだまだ僕が淹れた物と彼女の淹れてくれた物には埋められない差がある。
「まだまだ全然敵わないな」
ストローから口を離して呟くと、向かいの美園が不思議そうに首を傾げる。
「紅茶の味」
「私は智貴さんが淹れてくれた紅茶の味、好きですよ?」
「それは心理的な部分が大きいからだろ?」
「そうかもしれませんね」
心理的な部分を加味してしまえば僕の紅茶は一生美園の足元にも及ばなくなる。
「でも」
苦笑していた美園がやわらかな笑みを浮かべ、グラスを静かにコースターへと下ろす。
「お料理やお茶に関しては、一生智貴さんに負けるつもりはありません」
「一生、ね」
「はい。一生です」
誇らしげに笑う美園を見て、自分の頬が弛んだのがわかる。
「智貴さんは一人で何でもできますけど、食べる物だけは絶対に私に用意してほしいと思ってもらいたいですから」
「今でもそう思ってるんだけど」
「ずっとそう思ってもらえる事が大切なんです」
「期待してるよ」
「はい。任せてください」
だから僕は一生美園にそう思ってもらえる人間でいるよ。
可愛らしい自信満々の笑みを浮かべる美園に、言葉にはしなかったが心の中で改めて誓った。
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