彼女が髪型を変えない理由

『牧村君て美園の髪型褒めたりした?』

「むしろ褒めてない部分が無いくらいです」

『……いや、今のは私が悪い。私が悪い』


 長めの息を吐く音の後、電話の向こうの花波さんが平坦な声でそう言うのがかすかに聞こえた。恐らくスマホを顔から離したのだろう。


「でも、いきなりどうしました?」

『んー。美園って髪型変えないでしょ? だから牧村君が「その髪型が好きだ」とか言ったのかと思ってさ』

「多分言ったと思いますけど、そう言えば確かに髪型変えたのは一回だけですね」


 調理や作業の時は髪留めを使ってアップにしているが、それは美園にとって必要だからそうしているだけであって、そうでなくなればすぐに普段の髪型に戻している。

 だからおしゃれとして髪型を変えたのは花火大会の浴衣に合わせるための一度だけ。


『そっかー。たまに、デートの時なんかに髪型変えてみたらって言ってるんだけど、やっぱり全然変えないんだね』

「でも今の髪型すごく良く似合ってるんでいいんじゃないですかね」

『まあそうなんだけどさ』


 と言いつつも花波さんからはどこか釈然としない印象を受けた。



 そんな話をしたからだろう、ソファーで隣に座る美園の頭を撫で、髪を梳きながら

、ついついその髪に見入ってしまう。

 手ざわりの良い細い髪は、こうやって梳いていて一度も引っ掛かりを感じた事がない。指の上に乗せてみても、少し角度が変わればすぐにこぼれ落ちていくなめらかでサラサラの髪。


 先日のデートが顕著だったが、美園は出掛ける時には服装やメイクを少し変える事がある。しかし髪型を変えてくる事はなかった。

 僕としては一切の不満が無かったのだが、「美園なら髪型も変えてそっちも牧村君に褒めてもらいたがると思ったんだけど」という言葉が気にならないと言えば嘘になる。


「髪が気になりますか?」

「え? うん。綺麗だなって」


 いつもと違う触り方をする僕に対して僅かに首を傾げながら、美園がやわらかに微笑む。


「ありがとうございます」


 ふふっと笑ってそう言った美園が、一旦ソファーから立ち上がって僕の足の間にちょこんと座り直した。

 振り返ってえへへと笑う美園からは、もっと触ってくださいと、そういう意図が伝わってくる。


「それじゃ、ありがたく」

「はい。どうぞ」


 そのまま前を向いた美園の首元に左腕を回して抱き留め、右手でそっと髪を撫でる。シルクのような手ざわりとは少し違うが、触っているだけでとても心地が良く、自分がとんでもない幸せ者である事が再認識できる。


「とっても気持ち良くて、幸せです」

「うん。一言一句同じだ」

「智貴さんにこうしてもらう事、大好きです」


 自身を抱いていた僕の左腕を両腕でぎゅっと抱きしめながら、美園はそう口にした。後ろからで表情は見えないが、どんな感情が込められているかは声色と、抱きしめられた左腕に伝わる力で詳細にわかる。


「うん」


 サラサラの髪を何度も梳き、やわらかで細い髪質をこれでもかと堪能している中で、ふと思いついて一房を手に取った。爽やかさと甘さが同居するようなかすかな香りの中、繊細な髪が手からこぼれ落ちないように気をつけながらゆっくりと顔を近付け、そっとそのダークブラウンの髪に口付けた。


「あ」


 見えなくても僕の顔が近付いた感覚で何をされたかわかったのか、持ち上げた髪の隙間から見える美園の耳が見る見る赤くなっていく。

 それを見て我に帰ったのだが、中々キザったらしく恥ずかしい事をしたような気がしてくる。


 そして抱きしめられていた左腕にかかる力が抜け、美園が僅かに体を動かしたので振り返ろうとしている事がわかる。

 髪に触れていた右手を離し、両腕でぎゅっと美園を抱きしめ、その小さな肩のあたりに自分の頭を持って行く。


「いじわるです」


 振り返る事を封じられた美園が体を少しよじらせ、不満げな声を漏らす。


「急に恥ずかしくなって……」

「智貴さんがした事じゃないですか」

「まあそうなんだけど」


 美園がまだ体を動かし続けるので、やわらかな部分が腕の中で形を変えている様が見えないのに感触でわかってしまう。

 ストッパーが壊れる前に諦めて美園を抱く腕から力を抜くと、彼女はくるりと振り返り、僕の足の間できちんと正座した。ソファーの上なので狭く、足の甲ははみ出てしまっている。抱きしめるように背中を支えると、赤い顔の美園が嬉しそうに「ありがとうございます」と笑った。


「顔、赤くなっていますよ」

「美園もね」


 そう言って僕の頬にそっと指を這わせた美園が、目を閉じてゆっくりと僕の唇を食んだ。

 唇を重ねたままに、背中を支えていた左手に少し力をこめて抱き寄せ、右腕を腰に回して抱きしめる。美園の腕が僕の首に回されたところでお互い唇を離し、一瞬だけまぶたを開けて顔を見合わせ笑い、今度は僕の方から唇を寄せる。


「さっきの、もう一度してほしいです。今度は前から」


 握りこぶし一つ分離れた美園がはにかみながらそう言い、そのダークブラウンの髪にそっと触れた。さらりと流れるような髪の変化は、見ているだけでそのやわらかさが伝わる。


 僕が美園の目を見つめ返しながら無言で頷くと、美園も優しく微笑みながら同じように頷く。

 背中を支える左手はそのままに、そっと美園の髪に触れると、急に美園がそわそわし出す。


「恥ずかしいならやめようか?」

「もうっ。恥ずかしいけどしてほしいんです」

「了解」

「はい。お願いしますね」


 やはりもじもじしたままの美園だが、視線は僕から逸らさない。

 実際恥ずかしいのは僕も同じなのだが、今度こそ美園の髪にそっとキスをした。


 数秒間の口付けから顔を上げると、先ほどよりも赤みを増した可愛い彼女が嬉しそうに、恥ずかしそうに笑っていた。


「ご満足いただけたでしょうか?」

「はいっ」


 美園が胸に飛び込んできた勢いのままソファーにもたれかかり、そのまましばらく美園のやわらかな髪を撫で続けた。



「だから今日は髪の触り方がいつもと少し違ったんですね」


 今はソファーから降りて、いつものように後ろから美園を抱きしめて髪を撫でている。

 いつもと違う行動の理由を聞かれ、花波さんとの電話の件を説明したところ、美園は納得したように少しだけ首肯した。


「智貴さんは私が髪型を変えたら嬉しいですか?」

「前にも言ったけど無理はしてほしくないかな。美園が今の髪型を気に入ってるならそれが一番だと思うし」


 以前言ったように色んな美園を見たいと思う。ただそれはあくまで彼女がそれを望んでいる場合に限る。デートの時に少し印象を変える事があるのは、それを僕に見せたいからだと知っている。その気持ちが嬉しいのだから。


「確かにこの髪型は気に入っています」

「うん。とってもよく似合ってる。可愛いよ」

「ありがとうございます。でも、変えないのはそれだけが理由じゃないんです。……いえ、違いますね。変えない理由がこの髪型を気に入っている一番の理由なんだと思います」

「どういう事?」


 意図が分らず尋ねてみると、美園は振り返りながらくすりと笑った。


「今、こうしてもらっている事が理由です」


 やわらかく微笑みながら、美園の髪を撫でている僕の右手に美園自身の手を重ね、その細い指を絡める。


「伸ばすくらいはするかもしれませんけど、髪型を変えたら智貴さんが撫でてくれなくなっちゃうかもしれませんから」


 絡めた指に僅かに力を込め、美園は少しだけいたずらっぽい笑みを浮かべた。


「なるほど。それは非常に困る」

「でしょう?」


 どこか誇らしげに笑う美園の髪を左手で撫でると、「だから」と美園は口を開く。


「髪型はこのままです」

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