緊張と不安

「それじゃあその指輪とネックレスは智貴から?」

「はい。お誕生日とクリスマスに、それぞれプレゼントして頂きました」


 嬉しそうな美園の声が聞こえる。

 今僕は、美園と母さんが夕食の片付けをしながら交わしている会話を、台所の隣のリビングから聞き耳を立てている。父さんからは「少し落ち着け」と笑われた。


「智貴は結構いいカッコしいだから、気取った渡し方したんじゃない?」

「ええと……内緒にしてもいいでしょうか?」


 背後なので見えないが、きっと美園はちらりと僕の方を見た事だろう。美園本人としては言っても構わないと思っているはずだが、僕に気を遣ってくれている。

 打ち解けてきているとは言え、母さんからの質問に黙秘権を行使するのはきっと勇気の要る行動だっただろうに。


「大丈夫大丈夫。智貴はお風呂の支度させるから、気にせずにさあさあ」


 美園が本気で嫌がっている訳ではないのはわかるのか、母さんは意外と食い下がる。親子の距離感に近付こうとしているのかもしれない。

 ただそろそろ美園も困る頃だろうと、立ち上がって助け舟を出す事にした。


「風呂の支度はしてくるけど、あんまり美園を困らせないでくれよ。美園も、本当に言いたくない事以外なら気にせず言っていいよ。母さん、くれぐれも美園が嫌がりそうな事は聞くなよ」

「わかってるって。それじゃお風呂よろしくね」

「ありがとうございます。智貴さん。いってらっしゃい」

「うん」


 少し困ったように笑う美園に対し、母さんの目を盗んで一瞬だけ自分の唇を指差すと、美園は「あ」と口にして少しだけ頬を朱に染めた。「いってらっしゃい」という言葉が想起させる行為に、向こうも気付いたようだ。


「それじゃあ行ってくるよ」


 僅かに頬を膨らませた美園に見送られ、僕はそう言ってひらひらと手を振った。



 風呂の支度を急いで終えて戻ると、夕食の片付けが終わった美園と母さんがリビングに来ていて、父さんを交えて三人で和やかに会話をしていた。


「おかえりなさい。智貴さん」

「ただいま、美園」


 僕に気付いた美園が先程の意趣返しなのか、少しいたずらっぽく笑い、その艶やかで形のいい唇に軽く指で触れながら迎えてくれた。

 それ自体は予想していたが、仕草が思ったよりもずっと色っぽい。本人はそんな事を意識していないのだろうが、蠱惑的と言っても差し支えない。


「両親が目に入ってないな、智貴」

「そんな事無いよ。おかえりっていってくれたから返しただけ」


 からかうような父さんに応じながら美園の隣に腰を下ろすと、今度は母さんがジロリと視線を向けてきた。


「智貴。美園さんの手際が凄く良かったけど、頼ってばかりじゃないでしょうね?」

「別にそこまで頼りきりじゃないよ。とは言え3:7くらいには頼ってるけど」

「本当?」


 母さんが僕ではなく美園に尋ねると、美園は「はい」と柔らかく微笑み、そして少しわざとらしく口を尖らせた。


「むしろ今の分担はほとんど同じくらいです。私はもっとしたいのに、智貴さんがさせてくれなくて困っているくらいですから」

「今でも十分してもらってるんだけどな。これ以上は本当に、休み明けに元の生活に戻れなくなるから」


 新学期からは寝る時と起きる時に美園がいない。それを想像するだけで割と辛いのに、生活面でも頼りきりになってしまってはリハビリが間に合わない。


「もう。智貴さんは家事も何だって出来ますから、そんな心配は要らないですよね? やっぱりお義母様に習ったんですか?」

「それがねえ、この子が大学では一人暮らしするって言い出した時にね、家事が出来るようにならなきゃ認めないって言ったら、いつの間にか覚えちゃっててねえ」

「なんだか、智貴さんらしいですね」


 苦笑する母さん相手に美園が優しく微笑むと、母さんは「そうなの」と美園の手を取った。


「この子は本当に昔から親に相談せずに何でも一人で決めちゃってね。一人暮らししてからはほとんど帰って来ないわ、連絡も寄越さないわだったんだけど、美園さんと付き合うようになってからだと思うんだけど、定期的に連絡寄越すようになってね。ありがとう美園さん」


 相変わらず母さんの話は方向転換が急だ。美園がちょっと困っている。


「そう言えば智貴が俺に相談をしてきたのもあの時が初めてだったな」

「美園さんのご実家に挨拶に行く時の話?」

「そうだな」


 そんな事もあったなと、父さんが酷い勘違いをしていた事を思い出す。ただ、今の会話からすると、父さんにとって僕からの相談というのが割と衝撃的だったのだろう事がわかる。

 ちらりと美園を窺えば、少し気恥ずかしげにしている。色々あったからなあ。


「そう言えば智貴。美園さんのご両親にはもう結婚の話はしてるの?」

「いや、まだしてない。と言うよりも就職決めるまでは言うつもりはないよ」

「大切なお嬢さんの生涯に関わる事だからな。それがいいだろう」

「うん。その時になったらちゃんと知らせるから」


 と、丁度このタイミングで、台所に付いているモニターから湯船を張り終わったというアナウンスが流れた。


「それじゃあ智貴。美園さんを案内してあげて」

「ああ」

「え? いえ、私は最後で――」

「今日はお客さんなんだから問答無用」

「そう言う事だから。遠慮せずにどうぞ」

「でも……」


 母さんと父さんが一番風呂を勧めるも、美園は困惑の表情を浮かべて僕に救いを求めてきた。


「じゃあ案内するよ」


 立ち上がった僕に手を引かれた美園は一瞬諦観を見せたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。


「ありがとうございます。お義父様、お義母様。それではお言葉に甘えて、お風呂を頂いて来ます」

「はい、どうぞ。遠慮せずにゆっくりしてきてね。もう娘なんだから」


 娘なのか客なのか発言がブレブレの母さんに、美園は少しだけ眉尻を下げて「ありがとうございます」と丁寧に腰を折った。



 二番風呂から上がってリビングに顔を出すと、両親から「早く部屋に戻れ」と追い出された。


「美園さんも彼氏の実家でお風呂上りで気まずいでしょうにちゃんとお礼を言いに来てくれたよ。気にせず部屋にいるように伝えたから早く言ってあげなさい」との事だ。


「美園。入ってもいい?」


 美園は僕にスキンケアや化粧をしている姿を見せたがらない。すっぴんは見せてくれるのだが、準備やメンテナンスは見せたくないらしい。だから一緒にいる時は必ず美園を先に風呂に入らせるし、僕も一人の時より少しだけ長めに風呂に入る。


「はい。どうぞ」


 幸いメンテナンスは完了していたようだ。


「あれ? 夜用の化粧?」

「はい。やっぱり、まだ智貴さん以外の人に素顔を見せるのは抵抗がありまして。お義父様とお義母様ではあるんですけど」


 部屋に入ると、可愛らしい寝間着に身を包んだ美園の顔がすっぴんの状態とは違っていた。スキンケアの仕上げに夜用のパウダーをはたいているのだと、以前教えてもらった。


「すっぴんでもとんでもなく可愛いんだけどな」

「そういう問題じゃないんです。でも、ありがとうございます」

「うん」


 頬を膨らませて見せた美園が柔らかく微笑むのを合図に、前から美園を抱きしめた。風呂上がりの彼女から、シャンプーとボディークリームの甘い香りが漂っている。


「今日はありがとう。色々大変だったと思うけど、自慢の彼女を両親に紹介出来て嬉しかった」

「大変な事なんて何もありませんでしたよ。私の方こそありがとうございます」


 美園が背中に回した腕に少し力を入れながら、僕の耳元で嬉しそうに伝えてくれる。


「智貴さんのご両親を、お義父様、お義母様と呼ばせてもらえて、本当に幸せなんです」

「向こうが呼べって言ってたけどね。でも、僕も凄く、幸せを感じた」

「はい」

「僕がいない間、母さんに変な事言われなかった?」


 そう尋ねると美園は「大丈夫ですよ」とそっと笑った。


「朝ご飯を一緒に作らせてもらえる事になりましたよ。楽しみです」

「母さんが自信喪失しなきゃいいけどな」

「買い被り過ぎですよ」


 苦笑する美園の髪をそっと撫でながら「適正な評価だよ」と伝えると、「もう。ありがとうございます」と美園は心地よさそうな声でそう言ってくれた。


「それじゃあ、父さんと母さんが風呂から上がるのまって挨拶したら、今日は早めに寝ちゃおうか」

「はい。そうさせてもらえると助かります。でも……」

「でも?」


 言葉を切った美園の様子を窺おうと少し体を離してみると、潤んだ上目遣いが僕を待っていた。もうそれだけで彼女の言いたい事はわかる。


「そうだね。それまではこうしてくっついていようか」

「はい。ありがとうございます」


 嬉しかったと言ってくれた美園の言葉に嘘は無い。

 それでもやはり、恋人の実家を初めて訪ね、しかも結婚の話まで出され、その上泊っていくとなれば、美園の緊張はかなり大きなものがあったはずだ。

 僕自身多少の緊張はあったが、もっと美園に寄り添ってあげるべきだった。だから今から、その分を補って余りある程美園に気持ちを伝えたい。


 嬉しそうに笑って目を閉じた美園にそっと唇を寄せ、そのまま彼女の背中と頭にそっと手で触れた。「ん」と小さく可愛らしく息を吐いた彼女が、僕の首へとその細い腕を回しぎゅっと体を密着させてくれる。

 柔らかな彼女の体を全身で堪能しつつ、触れた唇をゆっくりと離すと「ご実家でしちゃいましたね」と美園が恥ずかしそうに笑った。


「不安にさせてごめん」

「違いますよ。緊張はしましたけど、不安はありませんでした。智貴さんと一緒なら、怖い事なんて何もありません」

「そっか。ありがとう」


 誇らしげに笑う美園の頭を撫でると、「はい」と呟いた美園がもう一度瞳を閉じた。

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