第117話 愛してる

「凄い顔をしていますよ」

「だってさあ……」


 くすりと笑った美園が、手に持ったクレープを可愛らしくかじる。その瑞々しく形の良い唇に奪われた視線を自分の手元へと移すと、一緒に買ったクレープがほぼ丸々残っていた。去年美園に買って行った模擬店の物とは出店者が違うせいか、今年買ったクレープは去年より更に甘い。


「素直にフルーツの酸味で誤魔化すべきだった」


 隣に座った美園がふふっと笑う。僕が「同じのもう一つ」と言いたかっただけなのが恐らくバレている。少し動けば肩が触れる距離、ちょうど空いていた去年と同じベンチに座り、去年と違い二人でクレープを食べる。美園の顔もあの時とは違う。


「雰囲気込みで楽しむものですよ?」

「……だったな」


 頷いた僕が覚悟を決めてクレープに顔を近付けると、じっとこちらを見つめる美園に気が付いた。ニコニコと嬉しそうに笑うその顔は、「私は今とっても楽しいです」と全力で主張していた。それならば僕も、もっと楽しまなくてはならない。


「美園。クレープ落とさないようにちゃんと持ってて」

「え? はい。あ、きゃっ」


 美園が両手でクレープを持ったのを確認し、彼女の背中越しにその細い腰に手を回した。今までほとんど触れられた事の無い場所への接触に美園は少し驚いたようだが、そのまま抱き寄せる。僅かだった二人の距離の、その僅かさえ消してしまう。


「クレープが美味しくなるように協力してくれ」

「もうっ……あーんした方がいいですか?」


 少しふくれた美園だったが、すぐに小悪魔の笑みを浮かべ、仕返しとばかりに上目遣いで僕を誘う。


「美園が食べ終わった時にまだ僕のが残ってたら頼むよ」

「はい。任せてください」


 一口の大きさは変わらないが、心なしか美園の食べるスピードが上がったような気がした。



「それじゃあ、そろそろ行こうか」

「はい」


 ゴミを捨ててベンチに戻り、待たせていた美園に手を伸ばし、穏やかに微笑んだ彼女が取ってくれた僕の手を、ゆっくりと引く。

 あの後、ここで僕が先に食べ終わったら美園はどんな顔をするだろうと思いはしたが、結局素直に彼女からの「はいあーん」を堪能した。自分で言いだした事ではあるが、やはり美園はどこか恥ずかしそうで可愛かった。

 ドギツイ甘さは途中からすっかり意識の外に追いやらていたように思う。美園が与えてくれた甘さが上書きしたのか、美園以外を感じる事が出来なくなったのかはわからないが。


「伸ばす手を考えるべきだった」


 お互いに伸ばした手が右だったので、歩く前に繋ぎ変えが発生するハメになり、美園は「そうですね」とおかしそうに笑う。


「色んな事に慣れたと思いましたけど、私達はまだまだですね」

「そうだな」

「でも、これから時間はたくさんありますよ」


 これから慣れていけばいいと、美園は優しく微笑んで僕の左手に自身の右手を重ねた。



 二人で手を繋いで向かった先は周囲の棟より少し背が高い理学部B棟の、文化祭を一望できる、去年僕が彼女を連れて来た屋上。去年と同じルートを、去年とは違い手を繋いで歩いた。


「懐かしい……」


 扉を開けるとすぐに屋上のフェンスに駆け寄り、眼下に今日の景色を見下ろしながらそう呟いて振り返った美園は、「また、智貴さんとここに来られて本当に良かったです」と、微風に揺られた髪を抑えながら笑う。

 そんな美園に見惚れて足を止めた僕を、彼女は目線で「早く早く」と急かす。自身の状態と、そんな彼女の様子に苦笑して息を吐き、一歩踏み出した。


 屋上の入り口付近では共通棟の上層階や屋上、近くの山や遠くに見える市街地だけが視界に入ったが、僕を待つ美園に一歩ずつ近づくにつれてそんな彼女の背中越しに文化祭の景色が顔を出す。ゲートの設置された正門、両側に装飾を施されたメインストリート、そして僕達の第2ステージ。


「文化祭全体がよく見えますね」

「うん。流石に誰かはわからないけど、スタジャン着てる分、文実の連中もよくわかるよ。去年は気にしなかったな」


 こうして上から見るとよくわかるが、実行委員は来場者の導線とは違う動き方をしている。パンフレットを見たり、出展や模擬店の前で立ち止まるといった淀みがないので、白い服の来場者と容易に差別できる。


「はい。去年とは全然違って見えます」


 ようやく隣りへと辿り着いた僕に微笑み、美園はまたもフェンスの外へと視線を向ける。その笑みに少しだけ寂しさの色が見えた気がして、口を開こうとした僕の手を、彼女はそっと握った。


「去年の私は……もし、去年の私をここから見ていたら、どう見えたでしょうか」


 僕に尋ねるような調子ではなかった。自分の中では既に答えが出ている、そんな口調。

 それでも僕は、去年の美園を思い出す。ぶつかって泣かせてしまった時の虚ろな表情を、文化祭が楽しくないと言う言葉を飲み込んだ時の泣き出しそうな顔を。そして、ここから文化祭を見下ろした時の少しホッとしたような美園を。


「きっと、浮いちゃっていたでしょうね。今日もう一度ここに来てわかりました。ここからでも楽しそうにしている人達の様子がわかりますから」

「それは――」

「いいんですよ……ごめんなさい、困らせちゃいましたね」

「そんな事無いよ」


 ふふっと笑う美園に視線はやらず、文化祭の景色を眺める。


「あの時の私から、1年で、智貴さんと出会えて変わったつもりです。もう一度あなたに会う時に、胸を張れるようにって」


 美園も同じように、僕に視線をくれず、眼下の景色を眺めている。


「今の私は、あの景色の中に溶け込めるでしょうか?」

「うん。誰が見ても間違いなく、美園はあの景色の一員になれるよ」


 優しく髪を撫でると、「よかった」と小さく呟く声が聞こえる。その嬉しそうな声色に対し、「でも僕は」と付け加える。


「美園がこの景色のどこにいたって見つけてみせるよ。美園を景色の一員にはしてあげない」


 目をぱちくりとさせながら僕に顔を向けた美園に、優しく笑いかけると、彼女の方もくすりと笑った。


「どこにいてもですか?」

「……ある程度見えるとこで頼む」


 豪語しておいて情けないが、いたずらっぽく微笑む美園に条件を付け足すと、彼女は楽しそうに「はいっ」と顔を綻ばせる。

 別に愛の力で見つけ出してみせるという訳ではない。入学後の美園と出会って7ヶ月、恋人になって約3ヶ月。その中で知った美園を、美園ならこうするだろうと、美園ならこう考えるだろうと、彼女はそんな風に、僕の中にも存在する。だからきっとここからでも見つける事が出来るのだと確信している。


「私も、きっと智貴さんを見つけてみせますよ」

「うん。きっと美園にはすぐ見つかるだろうね」

「当然ですよ」


 自慢げに少し胸を反らす美園が愛おしい。


「もっと美園の事を知りたい。もっと僕の事を知ってほしい」

「はい。だから――」

「君岡美園さん」


 その先の言葉はお互いに今まで何度も使ってきたものだと思った。何の変哲もない恋人同士の言葉。ただそれでも、今日この場所で、美園にその言葉を言わせたくなかった。僕が、「ずっと一緒に」を明確な言葉にして伝えたいと、そう覚悟を決めた。


「はい」


 繋いだ手を離して美園に向き直る。フルネームで呼びかけた事など今までに無い。そんな僕の様子に思うところがあったのか、彼女の方も僕へと向き直り、元々綺麗だった佇まいを更に正す。可愛らしい瞳に真剣な想いを宿し、じっと僕の言葉を待ってくれている。


「僕と、結婚してください」

「はい」

「もちろん今すぐって訳じゃない。お互いに卒業して、生活が落ち着いて、お互いの両親に挨拶をして。僕はきっと、絶対に美園が一緒にいて安心できるような人になってみせる。だから――」

「ですから。はい、と」

「え?」


 差し出そうとした手を動かす前に、あっさりとした「はい」の返事が耳に届く。驚いて美園を見ようとすると、脳の反応が遅れたのか、中途半端な位置で止まった自分の腕が間抜けに映る。

 そんな僕から視線を逸らさず、美園は穏やかに笑っているが、少し頬が弛んでいるのがわかった。


「やっぱり、嬉しいですね」


 抑えきれなかったのか、ついに美園が破顔する。自分の頬を抑え、「だらしない顔になっているので見ないでください」と顔を逸らす彼女を捕まえ、「綺麗だよ」と抱きしめた。


「今まで散々そういった会話もしてきましたけど、私も智貴さんもそのつもりだと思っていましたけど。はっきりと言ってもらえるのは嬉しいです」


 背中に強く回された腕とともに、可愛らしい声が僕の脳を揺らす。

 そのまましばらく、お互いに言葉を発さなかった。

 そして僅かに弛んだ彼女の腕に名残惜しさを感じながらも、僕の方も腕を弛めた。


「不束者ですが、謹んでお受け致します。どうぞ末永く、よろしくお願いします」


 僕の腕の中から離れた美園が、丁寧になめらかに腰を折る。

 美園の綺麗な所作はずっと大好きだった。それでも、きっと今日のこの姿が、今まで一番綺麗だと思う。

 礼が終わって上げた顔に浮かぶ表情も、僕を見つめる瞳も、今まで見せてくれたものとは少し違う。愛おしさの中に強さが感じられ、新しい一面を見せてもらった事に対し、やはり嬉しく思う。


「お願いがあります」

「何でも聞くよ」


 ニコリと笑った美園が差し出してきたのは、彼女の右手薬指にあったはずの指輪。


「智貴さんに着けてもらいたいです」

「喜んで」


 そう言って美園が僕に見せたのは、彼女の左手。指定はされなかったが、どの指にはめるかなどというのは愚問中の愚問だろう。「入るといいんですけど」と苦笑する美園の心配は杞憂で、指輪は白くしなやかなその指でキラリと輝いた。


「いつか、その指に着けるもっとちゃんとした物を贈る。待っててほしい」

「その時もこうやって着けてくださいね?」


 うっとりとした様子で自身の左手を見やる美園に小指を差し出すと、微笑んだ彼女が同じ指をすっと前に出す。


「約束するよ。絶対にだ」

「はい。待っています」


 言葉とともに絡めた指を二人で見つめ合い、笑い合う。

 そっと指を解き、目をつぶって僕を待ってくれている美園と唇を重ねる。


「誓いのキ、キスですね」


 10秒ほどの接触を終えると、美園がはにかみながらそう言うので、「誓いのちゅーじゃなくていいのか?」と尋ねれば「もうっ」と胸を軽く叩かれた。


「恥ずかしかったんですから」

「うん。ありがとう」


 少しむくれた美園を抱き寄せ、背中と頭に手で触れながら、もう一度唇を奪うと、彼女の方も僕の首元へとその細い腕を回した。

 今度は10秒ではない。美園の体温と柔らかさをこれでもかと感じながら、長い長い抱擁と口付けを交わした。


「美園」

「はい」

「愛してる」

「私もです」

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