第45話 下りのステップと足元の不安な後輩

 バス停まで歩いて行く途中、美園は少し歩きづらそうにしているように見えた。

 いつも一緒に歩く時よりも、ゆっくりとした速度で歩いていたつもりだが、こういう所に僕の経験の無さが出てしまう。

 口に出せば、きっと美園は僕に謝る。それが嫌で、黙って歩く速度を落とした。

 最初は済まなそうな顔をしていた美園だが、僕が敢えて気付かないフリをしていると、苦笑しながら「ありがとうございます」と、小さな声で口にした。

 その様子に内心満足しながら、一人の時と比べたら半分程の速度でバス停までの道を歩く。大学正門前までは、このペースならば後7、8分。それまでは二人の時間だ。


「僕も浴衣着てくればよかったな」


 隣を歩く浴衣の美園を見て思った事を、僕の口が正直に外へと出した。

 普段の美園も勿論可愛いが、今日の彼女はやはり特別だ。

 僕が主催者ならば、花火よりも目を引いてしまうので入場禁止を考えるレベル。訪れたカップルに、不和をもたらすのではないかと、冗談抜きで心配している。

 そんな彼女の隣にいるのは、普通の夏服の平凡な見た目の男。せめて浴衣でも着て来れば、まだ見劣りを多少抑えられたのではないかと思ってしまう。


「見たかったです、牧村先輩の浴衣姿」


 冗談めかすように言って、卑屈な僕の心を吹き飛ばしてくれるかのように、ふふっと笑った美園は更に言葉を続けた。


「来年は着てくださいね」


 優しく微笑む美園は、その言葉の意味と破壊力をわかっていないだろう。


「前向きに検討します」


 本心では即答して約束を取り付けたい。来年と言わず、再来年もその先も。

 だと言うのに、来年どころか、来月でさえ一緒にいるにはどうしたらいいかわからない。そんな僕は、美園の言葉に素直に頷く事は出来なかった。



 同じ目的地であろう同道者がそれなりに多く、バスの二人掛けシートはカップルで埋まっていた。幸い一人掛けシートには空きがあったので、美園を座らせてその横に立った。

 漢字はわからないが、立てばシャクヤク座れば牡丹、とはよく言ったもので、浴衣姿で座席に座る美園は、また別の美しさがあった。

 座席に浅く腰掛け、赤い巾着を膝の上に乗せ、脚は僅かに斜めに流している美園は、間違いなくバスの中の注目を集めている。


「あの時から何回か乗っていますから、全部が全部では無くなっちゃいましたけど」


 横に立つ僕を見上げながら、口を開いた美園が何を言いたいかはすぐに分かった。


「やっぱり私、このバスが好きです」


 美園は大学から駅に向かうバスにはいくつかの思い入れがあると言う。その内1回に、以前僕と一緒に出掛けた日も加えてくれている。今日もその思い出に並べてもらえるよう、僕も頑張らないといけない。


 会場に着いたらどうしよう、どの辺りが花火が綺麗に見えるか、といった事について話をしていたが、結局は落ち着ける場所を選ぼう、という事で互いの意見が一致したところで、丁度バスが駅に着いた。


「そろそろいいかな」

「はい」


 他の乗客達の大半が降りるのを見計らい、座席の美園に声を掛ける。

 何組かのカップルで、彼氏の側が席を立つ彼女の手を取っていて、なるほどと思ったが、真似をする度胸は無かった。

 そう思って前から降りていくカップルを何気なく見ていると、下りのステップでまたも恋人の手を取っている場面が見えた。

 バスに乗る時は全く意識しなかったが、足元が下駄の美園はもしかすると大変だったのではないだろうか。気付けなかった自分が情けない。


「美園」


 運賃を払い終わった美園に、意を決して右手を差し出した。平静を装って、「このくらいは普通だよ」という顔を作っているつもりだが、心臓は早鐘を打っている。


「はい」


 一瞬目を丸くした美園だったが、僕の意を汲んでくれたようで、少し恥ずかしそうにしながらも、手を取ってくれた。

 白く華奢なその左手は、触れたら壊れてしまいそうだと思ったが、実際には柔らかく、温かかった。

そのままゆっくりと、美園より一段下をキープすると、慣れない浴衣と下駄で不安なのだろう、彼女の手に少し力が入るのがわかった。

 ゆっくりと、一段一段ステップを降りる美園の手を取ったままバスを降りると、二人組がこちらを見ているのに気付いた。慌てて手を離すと負けたような気がするので、さり気なく離そうとしたが、少し俯きがちの美園の力が弛まない。


「美園、手」


 正直この幸福が1秒でも長引くなら、あのバカップルにからかわれる事くらい最早どうでもいいのだが、恥ずかしいのか少しぼーっとしている美園につけ込むような事は避けたい。


「あ。ごめんなさい」


 声をかけると、美園は慌ててぱっとその手を離した。まだ暑い外気の中、急に右手に寒さを感じてしまう。


「お疲れ」

「様です」


 そのまま待ち合わせ場所まで歩き、ニヤニヤした成さんと志保と挨拶を交わす。


「お疲れ様です。今日はよろしくお願いします」

「こんにちは、成島さん、しーちゃん。今日はお世話になります」


 軽く会釈をしただけの僕と違い、美園は30°の綺麗なお辞儀をした。浴衣という和装な事もあるせいか、その所作が普段よりも更に美しく見える。


「美園は浴衣か。色合いもキレイだし、よく似合ってるな」

「ありがとうございます。褒めて頂いて嬉しいです」


 何、そのナチュラルで自然でスマートなやり取り。

 軽い嫉妬を覚えていると、トントンと肩を叩かれた。見れば志保が「私も褒めろ」と言わんばかりに、こちらを見ていた。

 紺の浴衣に白い花が咲いており、帯は淡い水色。髪は編んだ部分が半円を描き、花冠を乗せているような印象を受ける。何故か悔しいがよく似合っている。


「似合ってるよ、ほんとに」

「ありがとうございます。マッキーさんにしては上出来ですね」

「一言余計だ」


 自覚はあるが。

 言うだけ言って、志保は向きを変えて美園の浴衣を褒めている。美園も同様に志保の浴衣を褒めている。二人とも――美園はもちろん志保も――容姿に関しては申し分無いので、その褒め合いも嫌味や駆け引きのような物は感じられない。


「頑張ったな」

「まあ……」


 今度は別方向からポンと肩を叩かれた。

 先程はニヤニヤしていたが、今の成さんは落ち着いた笑みを浮かべている。


「成さんは浴衣じゃないんですね」

「二人とも浴衣だと色々面倒だからな」

「僕だけ浮かなくて助かりましたけど、どういう事ですか?」

「こっちの話だよ」


 手を振って「気にするな」と言った成さんは、女子二人に向けて「早いけど、飯にするか」と声をかけた。元々会場に向かう前に早めの軽い夕食をとって行く予定だったので、誰も異論は無い。


「店は駅ナカでしたっけ?」

「ああ」

 


 成さんが選んだのは回転寿司だった。

 醤油に気を付ければ撥ねないし、食べる量も本人のコントロールが効くので、浴衣でも問題無いだろうとの事だ。


「ほんとは回らない所に連れて行ってやりたかったんだけどな」


 伝票を持った成さんが苦笑している。

 因みに女子二人は今、お化粧直しの最中だ。志保から誘ったので、恐らく成さんと事前に話がついていたのだと思う。


「僕も払いますよ」

「後輩の前なんだしカッコつけさせろよ」

「僕もカッコつけたい後輩がいるんですよ」

「お、言うなー」


 一瞬驚いたような表情をした成さんは、愉快そうに笑った。


「まあそれは後に取っとけよ」


 財布を取り出そうとした僕を手で制しながら、成さんはもう片方の手で伝票をヒラヒラさせている。


「成り行きっぽかったけど、手も繋げたみたいだし、会場でもちゃんとエスコートしてやれ」

「あれは繋いだというか、なんというか」

「肝心なところでヘタレるよな、お前」


 呆れたような視線を受けたが、反論のしようも無い。しかし――


「でも、今日はちゃんと頑張ります」


 頼りになる先輩は、それを聞いて満足げに笑って、レジへと歩いて行った。

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