第44話 睡眠不足と浴衣の後輩

 7月最後の金曜日、前期試験が終了した。美園との勉強会のおかげで試験の結果には何の不安も無い。正確に言うのなら、美園と勉強会をしておいて情けない成績を取る訳にはいかない、という意識の問題だが。


「はい、確かに。じゃあこれマッキーのスタジャンね。確認よろしく」

「ありがとう。サイズも合ってるよ」


 委員会室で受け取った白いスタジャンの左腕部分に、委員会に一人しかいない「牧村」の名前を確認する。

 背中には「第59代文化祭実行委員会」の黒い文字が躍っている。和風ロゴに倣って、実行委員の文字も筆で書いたような字体になっており、白地のスタジャンに似合っていた。


「白とか汚れが目立つかもって思ったけど、こうしてみると悪くないよね」

「確かに」


 代金を払いながら、試験がどうのと財務部長と適当な会話をしていると、スタジャンを受け取りに続々と人が入って来たので、邪魔にならないよう委員会室を後にした。

 今日この後、委員会室で部長会――委員長と副委員長に5人の部長を加えた7人の飲み会――が行われる為、彼女はこの後もずっとあそこにいるらしい。

 今週の頭には届いていたスタジャンだが、夏休み前に受け取るには今日が最初で最後の機会になる。美園も今日受け取りに行く、とメッセージで教えてくれた。

 待っていれば会えたかもしれないが、明日になれば会えるのだと思うと、今日は我慢しようと思えた。



 試験終了の翌日は7月最後の土曜、待ちに待った花火大会の日だ。

 遠足前の子どもが興奮して寝られない。という話を聞いた事は1度や2度ではないが、僕はそういう子どもでは無かった。

 しかしそれが、20歳まで2ヶ月を切っているというのに、この日初めて起こった。


 花火大会の途中で万が一にも眠くならないようにと、睡眠時間を少し後ろにずらすつもりだった。結果的にそれは不要だった。ベッドに入って少なくとも2時間も眠れなかったのだから。最後に時間を確認したのは午前3時だった。

 だと言うのに、次に時計を見た時は7時40分だった。エアコンのタイマー設定を忘れた為、8月も目の前に迫った夏の暑さによって起こされてしまった。


 その後エアコンをつけて昼くらいまで寝ようとした訳だが、結局まるで眠れなかった。

 美園の浴衣姿が楽しみだなという興奮は、僕の睡眠時間を容赦なく奪った。


「ダメだ」


 僕が二度寝を諦めたのは9時ちょうどになってからだった。

 花火大会は19時から、成さんたちとの駅での待ち合わせは17時で、軽い夕食をとりながら会場へ向かう手筈になっている。

 今回美園とは、バス停で待ち合わせではなく、16時に家まで迎えに行く約束をしている。浴衣を着てくれると言う彼女の足元は下駄だろうと思うので、あまり一人で歩かせたくなかった。

 寝苦しくて汗をかいたが、シャワーはまだ浴びない。予定では14時30分頃からシャワーを浴びて、髭もその時に剃るつもりでいる。出来る限り清潔な状況を保っていたかった。



 そんな風に思っていたのにシャワーを浴び終わったが14時だった。

 遠足前の小学生状態が継続中らしく、何をするにも考えていたより早く行動してしまう。5分前どころか1時間前である。どれだけ楽しみなんだ僕は。

 とは言え、流石に迎えに行くのを1時間前にする訳にはいかないので、着替えと髪のセットを済ませた後は、一生懸命時間を潰した。


 セットしたアラームを1分前の段階で止めて部屋を出ると、蒸し蒸しとした外気と、斜めになってきてはいるが、まだ暑い日差しに出迎えられた。

 空には雲はほとんど無く、日差しを遮ってくれないのは残念だが、降雨の心配は無さそうだと前向きに捉えることにした。


 美園の家へと向かう途中でふと気づいたが、僕は浴衣姿の彼女に何と声をかければいいのだろうか。有り余る時間を使って「浴衣 女性 褒め方」とでも検索しておけばよかった。

「可愛い」「綺麗」はまず間違いなく抱く感想だが、せっかくなので少しは気の利いた言葉でもかけたいところだ。しかし、恋人でもない男から捻った褒め言葉をもらって嬉しいものだろうか。

 答えの出ないまま歩くと、美園の家の玄関はすぐ目の前になっていた。オートロックの玄関で、美園を呼び出そうと2、0、まで押したところで内側から人が来て自動ドアが開いた。


「牧村先輩。こんにちは」


 現れた美園が着ているのは、白地に赤、ピンク、薄紫の花柄。葉の部分は緑や水色が配色されていて色鮮やかに仕上がっており、その上にピンクの帯を巻いた、上品な印象を受ける浴衣。

 普段下ろしている髪を、左側で簪を使ったサイドアップにして、そこに一房、三つ編みが組み込まれている。

 足元はやはり当然下駄。想像していたよりも、ピンクの鼻緒は太目で、僕の親指くらいはありそうだった。


「こんにちは、美園」


 褒めるところしかない。そのせいで逆にどう褒めればいいかわからない。


「どう、ですか?」


 上目遣いでそう聞いた美園の顔からは、不安と緊張が読み取れる。

 その言葉を言わせる前に、そんな顔をさせる前に、褒めたかった。褒めなければならなかった。


「可愛いよ。凄く似合ってる。綺麗だ」


 足りない。僕が今どれだけ、どれ程目の前の彼女の魅力に心を動かされたか。まるで伝えきれない。「綺麗」と「可愛い」を繰り返すしかない語彙力の無さが恨めしい。


「本当に、よく似合ってる。綺麗だ、可愛い」

「あの。もう、いいです。ありがとうございます」


 言葉が出て来ず、壊れたプレイヤーのように「綺麗」と「可愛い」を繰り返す僕の前で、気付けば真っ赤になった美園が、その顔を隠すかのように両手のひらを突き出していた。

 そんな美園の様子を見て、途端にこちらも恥ずかしくなってきた。言った言葉に一切嘘は無い。むしろ表現するのに足りないくらいだと思うが、付き合ってもいない女の子の容姿をしつこいくらいに――というかしつこく――褒め続けたのは良くなかったかもしれない。


 小学生でも言えるような褒め言葉しか出てこなかった事といい、顔から火が出る思いだ。

 美園が嫌がっている様子で無い事が救いだが、もうちょっとスマートにやれたのではないかと思うし、最初からこんな調子ではこの後のエスコートにも不安しかない。


「あの」


 かけられた声に、いつの間にか地面に向いていた視線を上げると、赤い顔のままの浴衣美人と目が合った。


「褒めてもらえて、凄く嬉しかったです。浴衣を着て良かったって、心から思えます」


 照れた表情を浮かべた美園は、しっかりと僕の目を見たまま、はっきりとそう言った。

 それだけで先程の不安は霧散した。


「うん、とてもよく似合ってるよ。改めて、今日はよろしく」

「はいっ」


 赤い顔の美園と、恐らく赤い顔の僕は向かい合って笑った。

 現在時刻は16時2分。家を出る時には鬱陶しいと思った日差しが、今は不思議と綺麗に見えた。

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