第38話 約束と鼻唄後輩

「ごちそう様でした」

「お粗末様でした」


 待ちに待った金曜日、勉強を始める前に美園から手料理のもてなしを受けた。何度も念を押した事もあってか、恐らく一般的と言っていい品を出してもらえた。味の方はいい意味で一般的とは言い難かったが。

 白米とオーソドックスな豆腐とわかめのみそ汁、鶏の唐揚げにキャベツの千切り、それからナスのマリネ、どれを食べてみても僕のボキャブラリーでは美味いしか言えなかったが、そこは回数でカバーした。出来ていると良いなと思う。


「簡単に片付けしちゃいますので、ゆっくりしていてください」

「手伝うよ。問答無用で」


 食器を下げてくれようとした美園を制し、自分の分は自分で運ぶと、彼女は少し眉を下げて笑った。


「はい。それじゃあお願いしますね」

「ああ」


 1Kの僕の部屋と違い美園の部屋は1DKなので、ダイニングキッチンに食事専用のテーブルがあるだけでなくキッチン部分その物も広い。

 IHコンロが二口あるし、調理スペースも流しの広さも僕の部屋の倍はあるので、僕が手伝っても邪魔にならないスペースが十分にあった。

 考えてみるとスペースは狭いわ、ガスコンロが一口しかないわで、美園はよく僕の部屋であれだけの料理が作れたものだと思う。改めて感心させられる。


 美園が洗った皿や鍋を受け取ってすすいで拭いていると、ふと横から鼻唄が聞こえてくる。

 楽しそうな美園は、クセなのか恐らく無意識なのだと思う。指摘したら止めてしまうだろうという確信があったので、僕は弛む頬を出来るだけ引き締めて幸せな時間に浸った。



 食後の休憩を少し挟み、ダイニングからリビングのテーブルへと場を移し、本来の目的である勉強会の開始となった。


「とりあえず数学からやる?」

「いいんですか?」


 美園は以前、数学を見てもらいたいと言っていたので、今日はそのつもりで来た。一応自分の教科書も持って来てはいるが、もし彼女に苦手な分野があるならさっさと潰してしまうに限る。


「牧村先輩のお勉強はいいんですか?」

「あと3週間あるし問題無いよ。むしろ教えさせてくれないと、一飯の恩が返せない」


 冗談めかして言ったが、あの食事をごちそうになったお返しとしては、まだ足りないと思う。


「それじゃあ、お言葉に甘えます」


 はにかんだ美園は、自分のデスクから「統計のための数学」と書かれた教科書とノートを持ってくると、つい今までいた向かいの席では無く、僕の右横の席にそれを広げた。


「ん?」

「見てもらうのならこの場所の方がいいと思います。私は右利きなので、反対だと手で隠れちゃいますし」

「それもそうか」


 僕は自分の教科書を広げる必要が無いので、お互いに邪魔になる事は無いし、向かいに座るよりは内容が見やすい。


「まずは微分と積分を見てもらってもいいですか?」

「了解。とりあえずセンター試験までは微積やってるんだよな?」

「はい。あんまり得意じゃありませんでしたけど」


 気まずそうに言う美園に少し安心する。この子があんまり得意ではない、と言うのなら決してまるでわからない訳では無いだろうから。


「まずは基本的なところからおさらいしていこうか。統計はよくわからないから、必要なさそうな事言ったら教えてくれると助かる」

「せっかく見て頂けるので、何でも教えてほしいです」

「じゃあまずは微分から――」



 あんまり得意じゃないと言った美園だったが、少なくとも数Ⅱの範囲で使うであろう微分の初歩部分は、センター試験までしか数学を使わなかった、文系選択の彼女としては十分と言える出来だった。理系でも生物や地学辺りだと、意外とこの辺ですら苦手な奴もいるというのに。


「んーー」


 普段はデスクで勉強をしているであろう美園は、慣れないテーブルでの勉強で肩が凝ったのか、腕を伸ばして少しだけ体を反らせている。


「あ、ごめんなさい」

「いいよ。気にしないで」


 むしろ謝るのは僕の方だ。美園が目を瞑って伸びをしているのをいい事に、体が反らされたおかげで強調された部分を思いっきり凝視してしまった。元々服の上からでもわかる程の大きさがあるので、勉強を見ている間も手元と一緒にどうしても目に入ってしまう。

 見たいか見たくないかで言われればもちろん見たい。だが見てしまった後、美園を穢してしまったような気持ちになって、罪悪感に苛まれる。自分の思考が気持ち悪い。


「あ、じゃあ、おさらいで問題でも解こうか? パソコン借りて良ければ適当な問題拾って来るよ」

「はい。電源は入っていますのでどうぞ。あ、パスワード入れますね」


 内心を誤魔化す為に、間を置こうと立ち上がると、美園も後を追うように立ち上がった。自分の視線がどこへ向いたかを自覚し、慌ててデスクの方へと目を向けると、何やら鮮やかな色がそこにあった。


「これ……」


 鮮やかな色の正体は、僕が美園を誘いたかった花火大会、そのホームページを印刷した物だとわかる。


「あ」


 僕より一歩遅れてデスクに辿り着いた美園は、僕の視線の先に気付いたようだ。


「花火大会か。行くの?」


 内心絶望的な気分だった。トップページと会場周辺地図に、アクセスマップがセットでプリントアウトされているのだから、そんな事は聞かなくてもわかる。

 もう7月に入ったのだから月末の花火大会の予定が既に決まっていても何もおかしくはないし、美園にならお誘いもいくらでもあっただろう。僕は今、どんな顔でどんな声を出しただろう。平静を装ったつもりだが、出来ていただろうか。


「ええと。行きたいなとは思っているんですけど……」


 何となく、美園の声にためらいのような物を感じてゆっくりと首を回すと、胸元で手のひらを合わせた彼女が、気まずそうに視線を外していた。


「予定入ってないの? たくさんお誘いありそうだけど」


 言ってしまってから、言葉に棘があったかもしれないと反省したが既に遅い。


「いえそんな。この辺りからでも場所によっては見えるそうなので、1年生で集まろうか、というお話はあったんですけど……その」


 僕の反省を余所に、美園は特に気にしていないように見えてホッとした。そして続く言葉で心拍は急上昇する事になる。


「会場で見たいなと思ってお断りしましたし、お友達も都合が合わないので、予定は入っていないんです」


 僕を正面から見てきっぱりとそう言った美園を、僕も正面から見据える。今しかない。


「じゃあ――」「だから――」


 美園も何か言おうとしたらしく、最悪のタイミングで被った。

 ヘタレは1度失敗した時に、2度目の勇気を振り絞るのが絶望的に苦手である。


「緊張がほぐれました」


 何とかして言葉を絞り出そうとしている僕の前で、美園はふふっと笑った。


「牧村先輩」


 目を向けると、彼女は真剣な顔になって言葉を続けた。


「一緒に行きませんか? 花火大会」


 ああ、うん、はい、喜んで、もちろん、ありがとう。浮かんだ言葉はいくつもあれど、情けなくも僕は頷く事しか出来なかった。

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