第36話 あの日の思い出と寝たフリ後輩

「そろそろ戻ろうか?」


 名残惜しくはあるが、僕一人が美園の時間を貰うことは出来ない。


「もう少しここにいたいです。いいですか?」


 元から一緒にいたい僕としても実際そうしたいし、相変わらず上目遣いの威力は高い。しかし――


「せっかく参加したんだしさ。このまま女子集団に入れば平気なんじゃないかな?」


 戻ったらまた囲まれるという不安はあるのだろうが、せっかくの場なので美園本人にも楽しんで欲しいと思う。


「そうかもしれませんけど……」


 美園は不安げ、と言うよりも不満げに口を尖らせた。僕だって、自分の欲求を抑えて先輩としての仮面を見せているだけだ。そんな表情を見せられては、取っ払ってしまうしかなくなる。


「わかったよ。もうちょっとここにいようか」

「はいっ。ありがとうございます」


 浮かせかけた腰を再び下ろすと、美園の顔がパッと輝く。


「しかし何か対策考えないと、女子同士で絡みにも行けないな」

「それに関しては意外と大丈夫ですよ」


 美園を労うつもりでの発言だったが、彼女はけろりとした調子でそんな事を言った。意外に思った僕がその顔を見つめると、少し照れたように言葉を継いだ。


「香さんとしーちゃんのおかげで、女子会のお誘いは結構ありますから」


 既に僕より交友関係広そうだな。


「他にも若葉さんがよく気にかけてくれていますね」

「若葉が?」


 若葉は確かに面倒見たがりではあるが、その相手は選ぶという印象があった。


「若葉さんは学科の先輩なので」

「そう言えば若葉も人文学部社会学科人社だったか」

「はい。私とはコースは違いますけど」

人社じんしゃって中でコースに分かれてるんだ」

「はい。私は心理学コースで、若葉さんは社会学、しーちゃんは人間学コースです」

「へえ、心理学か」


 心理学、と聞いて思い浮かべたのは一人の少女の事だった。


「心理学って教育学部だと思ってたよ」

「そちらは教育心理学の方ですね。社会学科って、知らない人からするとよくわからないですよね」


 そう言いながら苦笑する美園を見て、もしかしたらあの子と美園は同じ学科かもしれない、という考えが浮かぶ。

 彼女はここが志望大だと言っていたが、合格は出来ただろうか。今、楽しく過ごせているだろうか。


「美園。人社に……やっぱり何でもない」


 尋ねてみようかと思ったが、改めて考えると今聞いて何になるというのか。お互いに名前すら知らないのだから、僕の自己満足でしかない。


「どうかしましたか?」


 怪訝な表情で問う美園に、「なんでもないよ」と返すと、彼女は可愛らしく首を傾げた。頭を撫でたい衝動に駆られるが、必死でそれを抑えた。



「しかし対照の取り方といい、聞けば聞くほど理系科目だな」

「そうですね。文系の学部なので、みんな統計に使う数学で苦労しています。私もですけど」


 あれから、お互いの学科と学んでいる事の内容に花を咲かせていた。

 美園は専門用語をあまり使わず、かみ砕いて彼女の専攻についてを話してくれた。1年生の前期なのでまだ概論中心との事だったが、彼女自身がこれから学ぶ事についてしっかりとした考えを持っているらしく、門外漢の僕にも興味深い内容だった。

 ふと時計に目をやると、飲み会の時間はそろそろ残り半分になるかという頃で、楽しい時間の過ぎる速さを痛感した。


「もうすぐ19時か」

「もうですか?」


 後に続くであろう僕の言葉を予想したのか、美園は「んー」と渋い顔をしている。僕としても断腸の思いだが、流石に終わりまでの1時間30分も彼女を独占したとあっては、女性陣からも怒られる気がする。


「30分以上離れたし、さっきの集団も解散してるよ」

「そういう事じゃなくて……」

「ん?」


 と、そこで階段の方から声が聞こえた。


「美園ー」「君岡さーん」


 男の声が二人分。一向に戻らない美園を探しに来たと言ったところだろうか。

 僕たちが座っているソファーは、1階のキッチンスペースの奥にあり、階段を降りてトイレに向かう途上からは死角になっている。ただ、探しに来たとなれば話は別だろう。

 隣の美園は既に困った顔になっている。連れて行かれないにしても、戻るという言質を取られるかもしれない。彼女自身がきっぱり断ると言うのも、集団の中に2年生がいては中々難しいだろう。


「寝たフリでもする?」


 美園が寝てしまったと言えば彼らも無理に起こそうとはしないだろう。距離を詰めたくて来ているのに、嫌われるような真似はしないはずだ。


「適当に僕が相手しておくから」

「でも――」

「あー。美園に寝たフリは無理か」

「そんな事無いです。出来ますよ」


 からかうように笑うと、美園は拗ねた。こういう意外と子どもっぽいところも可愛くて仕方ない。


「じゃあ寝ますから」


 そう言って美園は、目を瞑って僕の左肩にこてんと頭を預けた。


「あ、おい、ちょっと」


 ふわりと香る髪の匂いに、心拍が一気に上がるような感覚を覚える。左肩に耳を当てた美園に、この音が届いてしまわないかと心配になってしまう。


「リアリティー重視です。しっかりとお願いしますね」


 意趣返しですと言わんばかりに、美園は片目だけ開いていたずらっぽく笑う。からかったつもりが逆に手のひらの上で転がされてしまった。


 そうこうしている内に、美園を探す声の主はこちらに気付いて近づいて来た。一人は以前から美園の事を気にしていた――飲み会に彼女が参加するかを聞いて来たあいつ――1年生。名前は確か島田、流石に何度も話して覚えていないのは悪いと思ったので雄一に聞いた。

 もう一人は高い身長と整った端正な顔立ちが印象に残っている1年生。話した事も直接名前を聞いた事も無いが、よく女子の話から名前が聞こえる長瀬匠ながせたくみその人だろう。同じイケメンでも、甘い印象を受ける康太と違って、こちらはクールというかシャープな印象を受ける。


「あ、君岡さん!」


 美園を見つけた島田が少し大き目の声を出したので、僕が人差し指を口の前に立てるジェスチャーをすると、彼は慌てて口を塞いだ。実際のところ美園は起きているので、その必要は全く無いのだが。


「寝ちゃったんですか?」


 静かな声で尋ねてきたのは長瀬。迎えに来た美園が寝てしまっている――しかも僕の肩に頭を預けて――ので、少し残念そうではあるが、隣で露骨に残念そうにしている島田との対比が面白い。


「ああ。ちょっとお酒飲んじゃったみたいで、僕が下に来た時にはウトウトしてたよ」


 大嘘だが手っ取り早いだろう。


「起きたら上に連れてくよ」


 だから今は放っておいてくれ。言外にそう言う意図を込めた。


「代わりましょうか?」

「ほら、俺達同じ1年なんで」


 長瀬はあくまでスマートに聞いてきたが、その後に続く島田の必死さがそれを台無しにしている気がする。


「こういうのはに任せとけって。この子は同じ担当の後輩でもあるし」


 僕が先輩であることを強調して、その上で任せろと言った。後輩に対して中々卑怯な手だと思うが、そうまでしてでも今この場所を譲りたくはない。


「あと、これじゃ代わりにくいだろ?」


 苦笑しながら肩に乗った美園の頭を指差した。この状態で僕がどいたら彼女を起こしてしまうかもしれないと思わせられる。美園が頭を預けたのには意趣返しだけでなくこういった意味もあったのかと、内心で感心した。


「でも――」

「いいよ、アキラ。先輩に任せて戻ろう」


 食い下がろうとした島田を手で制し、長瀬は僕を見た。


「じゃあ牧村さん。美園の事頼みますね」

「ああ、任せてくれ」


 そのまま僕に会釈をして二人は2階に戻って行った。島田は何度かこちらを振り返っていたが、長瀬は去り方もイケメンだった。1歳年下だと思うが、何と言うか余裕がある。あいつも美園狙いだと考えたら気が重くなってくる。


 二人の後姿が見えなくなったところで、美園に「行ったよ」と声を掛けようと思ったって首を回すと、美園の寝顔(偽)が目に入った。左肩に彼女の頭が乗った状態なので、割と首に無茶をさせているが、その顔から目が離せない。

 人形のように整った顔立ちは既に知っているが、これだけの至近距離で、しかも目を瞑った状態の彼女を見るのは初めてだ。普段見える大きな瞳を縁取る睫毛が長い事はわかっていたが、こうまでも長い事を今知った。肩にかかる心地の良い重みと合わさって、重くなった心に一瞬で羽が生えた。

 もう少しだけ見ていたい気持ちが強いが、これ以上続けると良心と首に悪影響が出そうだ。


「恥ずかしいならやめとけばよかったのに」


 普段透き通るように白い肌に、今は朱が差している。飲酒の影響という意味で、あの二人に対していいカモフラージュになったのではないだろうか。


「大事な事だったんです」


 赤い顔のまま、目を開いた美園が恥ずかしそうに口を尖らせた。


「まあ確かに。これがあったから言い訳もしやすかったしな」

「そうじゃないです」


 僕の肩に頭を預けたまま、美園は小さく呟いた。

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