ボンベイ・サファイア 完
結局、私は壁としてでなく、先生としてしっかり話したことが無かった。
父との関係であれだけ後悔したはずなのに、先送りにし続けて結局手遅れになってしまったのだ。
「大変お待たせしました」
店が混んでいるのか、少し時間がかかったが注文したものが届いた。
「ありがとう」
感謝を言いつつ、頭に浮かんでいる思い出をかき消していく。
「う、う…ん、あ、あれっ?」
定員とのやり取りで春子を起こしてしまったようだ。
「おはよう、やっと起きたか」
「あれっ? 寝ちゃってたか~ごめんね~」
寝起きのせいか声がとろんとしている。
「別に構わないよ。ゆっくりするのもたまにはいいからな」
「ねー、天音ってお酒飲めないよね?」
友は段々と頭が働きだしたのか、目の前にある定員が先ほど持って来たものを不思議そうに眺めはじめる。
「ああ、一滴も飲めないよ」
「なら、なんでカクテルなんて頼んだの?」
春子が眺めているものは、逆三角形に細い足が付いたグラス。そうカクテルグラスが目の前に置かれているのだ。
「別れと言えばこれだからな」
「えっ? どういうこと?」
春子は依然として訳が分からないという顔で、淡緑色のカクテルを覗き込んでいる。
「このカクテルは『ギムレット』って言うんだ。あそこに見える水色の瓶『ボンベイ・サファイア』とかのジンとライムジュースを混ぜて作るカクテルなんだ。カクテルには種類ごとにカクテル言葉ってのがあって、このギムレットのカクテル言葉は、『遠い人を想う』とか『長いお別れ』。今の私たちにぴったりだと思わないか?」
「うん…」
春子もお世話になった記憶が思い出されるのか、しんみりとした空気になっていく。
「先生に恩返したかったなぁ」
「だな」
「でもさ、先生に何かしてあげられることってあったのかな?」
「分からない…」
先生に直接恩返しすることは叶わなかった。先生だけではない、父にも私は何も恩返しできてないのだ。でも、それを悔やんでいても仕方がない。もうどうにもならないのだから。
「次は私たちが誰かを支えてあげる。それが一番の恩返しになるんじゃないかな?」
「うん、私もそう思う!」
春子は潤んでいた瞳を裾で拭って、強く頷きを返してきた。
「そういえばさ、天音それ飲まないよね?」
「ああ」
「なら、飲んでもいい?」
「まだ飲むのか?」
「うん!」
「好きにしろ」
「じゃあ、いただきまーす」
今、私のもとにはあの頃の私と同年代の大輔がいる。
私は先生のように彼を導けているのだろうか?
私が教えられるのは酒の知識と少しの技術くらい。
そんな役に立つか良く分からないものしか教えられていない。
でも、大輔は少しずつ前に進もうとしている。
自分だけの道を進もうとしている。
何が良かったか分からないけど、たぶんこれで間違っていない。
彼と一緒にいられる時間はもうあと少し。
一瞬でその日はやってくる。
私は何回も別れで後悔した。何度も何度も。
だから、今度こそは後悔しないで済むように残りの時間で、大輔に何か残せたらなと思う。
「先生見ていてくださいよ。壁の教え子はしっかりやり遂げますから!」
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