ホッピー 完

 あの後、床屋のおじさんから電話があり、翌日に配達になった。

その辺によくある青色の台車にホッピーのケースを乗せて、床屋の裏手に来た。

 天音の言う通り一軒家があった。

表札に「斉藤」とあるし間違いないだろう。

 ゴックン。

緊張のあまり、大きな音でつばを飲み込む。

 呼び出しベルを押すこと自体は、何ら難しくない。

でも、ベルの前に大きな壁があるような感じがするんだ。

「帰りたい……」

 このままだと体が勝手に店へと歩き出しそうだ。

どうにでもなれ!

 やけになってベルを鳴らす。

「ごめんください」

 どうやって話始めればいいか分からないから、とりあえず挨拶してみた。

「はい?」

 すぐに、返事が返ってきた。だが、おじさんの声ではなく女性の声だ。

奥さんなのだろうか?

「あ、あの、は、配達に」

 初めての配達の緊張感と初対面の人との話しづらい感じが合わさって、口が回らない。

「どなたです?」

「僕は、鵜飼大輔…… じゃなくて、酒の大沢です」

 緊張のあまり自己紹介してしまった。

向こう側から、クスクスと小さな笑い声が聞こえてくる。

は、恥ずかしい……

「主人を行かせるわね」

「お願いします」

 おじさんが来る前に落ち着かないと。

スーハー、スーハー、スーハー

スーハー、スーハー、スーハー

 まだ足りない。

スーハー、スーハー、スーハー

スーハー、スーハー、スーハー

 もう少しだけ

スーハー、スーハー、スーハー

スーハー、スーハー、スーハー

「やあ! ありがとうね!」

 スーハーしていたら、いきなり話しかけられる。

「ふへ」

 いつの間にか、おじさんが目の前にいた。

そのせいか、折角整えた気持ちがガタガタだ。

「今日は、何持ってきてくれたのかな?」

「ほ、ほ、ホッピーです」

「うん、分かった。まずは君が落ち着こう」


 もう一度スーハーを繰り返して我に返った。

「すみません、もう大丈夫です」

 そう言うとおじさんは笑いながら

「大丈夫。僕も初めて店に立った時、ガクガクだった。そのうち慣れてくるさ」

と言い、肩をポンポンして励ましてくれた。

「それで、今日は何を持ってきてくれたのかな?」

「ホッピーです」

「それまた、どうして?」

「それは——————

 天音に教えてもらったことを、余さず伝えていく。

おじさんも「へぇー」とか「なるほどな」って言いながら聞いてくれている。

そうして、話し終わると

「なるほどな。じゃあ、今回はこれを試してみるよ」

 そう言って、財布を取り出してお代を払ってくれた。

「毎度ありがとうございます」

「いえいえ、こちらこそありがとうね」

「すみません。自分なんかが配達して」

「自分なんかと卑下することは無いよ。誰にだって初めてのことはある。大事なことだ。

慣れていないから、失敗もあるかもしれないけど、挫けずにやるのが大事なんだよ」

「ありがとうございます」

「次もまた君にお願いするね」

「はい!」

 

 何故だか、少し心が温かくなっていた。

これが、天音が以前話してくれた『配達の楽しさ』なのだろうか。

しっかりとは分からない。

でも、何となくは分かり始めているって気がするんだ。

だから、分かるまで何度だってやってみることにしよう。

まだ、「酒の大沢」での時間はたっぷりとあるのだから。

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