幸せの期限

 ひと悶着はあったが、さくらは結局帰ってきた。

 百合は、今度は、さくらを邪険に扱うことはなかった。

 自室に戻った百合が嬉しそうに小躍りしていたのを見て、達樹とさくらは顔を見合わせて微笑みあった。


 そうして、家族三人の暮らしが再開された。

 同時に、百合の病状は日増しに進行していった。

 普通に過ごしているときに不意にビクッとなる不随意運動が出現し始めたかと思うと、日増しに不随意運動は増えていった。

 日常動作にも困るようになり、百合は入院することになった。

 それは、百合が発症したと宣言してから一か月足らずの出来事だった。

 まだ、意思疎通はできる。

 まだ、百合は、百合なんだ。

 達樹は、百合が入院してから足しげく病院に通った。

 仕事に行く前と、仕事終わりには必ず駆け付け、休みの日などは一日中百合と共に過ごした。

 今を大切にしなければ、百合は百合でなくなってしまう。

 百合は、不随意運動ばかりを繰り返しており、既に視線も合わなくなってきていた。

 それでも、今、この時を、大切にしなければ……。


 達樹が再び倒れたのは、百合が入院して一か月が経過したころだった。

 過労との診断だったが、もともとの脳出血の既往があったために、入院を余儀なくされた。

 達樹は幾度となく病室から出ようとして看護師に止められた。

「百合さんの面倒は僕が見なきゃダメなんだ!だから、早く、退院させてくれ!こうしている間にも、百合さんの病気は悪くなっちゃうんだ!こんなところで、入院している場合じゃないんだ!」

「お父さん、いい加減にしてよ!」

 そこに現れたのはさくらだった。

「私は確かに仕事が忙しくあてにならないかもしれないけど、お父さんまでいなくなったら私、どうしたらいいの?」

 さくらの涙を見て、達樹はおとなしく一週間の入院生活を送った。

 退院したその足で、達樹は、百合の入院している病院へと向かった。

「百合さん、百合さん、一週間も来られなくてごめんね」

 おぼつかない足取りで、達樹は百合のベッドサイドに歩み寄った。

 百合は不随意運動の頻度が減った代わりに、動かなくなっていた。

「百合さん、ほら、手をこうやって動かさないと、どんどん固まっていっちゃうから、ね」

 達樹は、百合の手をとり動かし始めた。

 リハビリの時につかんだ時よりも、百合の腕はずいぶん痩せてしまっていた。

 看護助手が食事をもって入ってきた。

 食事といっても、固形物をかみ砕くことはもうできないので、流動食のようなものだ。

「さあ、百合さん、お食事きたよ!あの、スプーンは?」

「ああ、旦那さん、入院していたから知らなかったですね、誤嚥のリスクが高いので、お子さんに同意をもらって経鼻チューブから入れています」

「そう……ですか」

 達樹は俯いた。

 とうとう、百合は口からものを食べることすらできなくなってしまったのだと、悲しくなった。


 その日から、毎日、達樹は百合のもとに通った。

 そして、視線の合わない百合に、「ありがとう、ありがとう」と何度も言った。

 百合のおかげで幸せだったから。

 声が届かなくとも、何度でも言った。

「ありがとう、百合さん」

 百合が息を引き取るその瞬間まで、達樹は言い続けた。


 枕もとの花瓶には、百合乃花が飾られていた。

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君に捧ぐ花 伊東 桐 @itokiribasami

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