君の選択

 数か月にわたる入院の末、達樹は退院した。

 以前に勤めていた職場の上司と話し合い、職場復帰も決まり、意気揚々と帰宅したある日のことだった。

 リビングに、一枚の紙切れが置いてあった。

 それは、離婚届だった。

 すでに、百合の分の記載が済まされていた。


 これからだ、というときに、何故、百合は離婚をしようとしているのだろうか。

 達樹は考えを巡らせた。

 入院している間、百合は失意の底にいた達樹を励ましたり、リハビリを手伝ってくれたりしていた。

 それが、百合にとっては実は苦痛だったのだろうか。

 だが、達樹の中に、ある可能性が生まれた。

 もしそうなら、もしそうだったとしたら……。

 達樹は自宅の中で百合を探した。

 百合は自室にいた。

 明かりもつけず、暗闇の中で、百合は座り込んでいた。

「ねえ、百合さん」

 達樹は百合に話しかけながら明かりをつけた。

「離婚届、置いてあったでしょう?話すことは何もないわ」

 不意に点いた明かりに百合は目を細めながら言った。

 わざと冷たく突き放すように言っているが、その目の周りは赤く腫れている。

 その様子に、達樹は、確信を得た。

「百合さん、発症したんだね?」

 返事をする代わりに、百合の目から一筋の涙が流れ出た。

 百合の中に潜み続けていた病魔は、とうとう顔を出したのだ。


 達樹は、百合からもらったとある電話番号に電話をかけた。

「お父さん、何?」

 ぶっきらぼうに電話に出たのはさくらだった。

「なあ、さくら、また、家族三人で一緒に暮らさないか?」

「何言ってるの?私は、二人の本当の子供じゃないんでしょう?」

「お願いだ、一年でも、数か月でも構わない。また、三人で暮らしたいんだ」

 達樹は、百合から病気の話を聞いてから、何度もその病気について調べていた。

 発症すると、数か月の経過で、どんどん症状が進行して、最後には、意思疎通などできなくなってしまう。

 そうなってしまう前に、もう一度家族三人の幸せな生活を送りたかった。

 進行してしまったら、もう二度とあの幸せな生活は戻ってこないのだ。


 達樹の度重なる説得で、さくらはしぶしぶ二人の住む家に帰ってきた。

 だが、そんなさくらに、百合は言い放った。

「本当の子供でもないのに、よくのこのことこの家の敷居を跨げたわね」

 激高したさくらはその足で自宅に帰宅しようとした。

「さくら!」

「お父さん、来ないでよ!聞いたでしょ?お母さんは私となんか一緒に住みたくないって!」

「頼むから、話を聞いてくれ!お母さんは、本当はそんなことを言いたかったわけじゃないんだ!」

 リハビリをしたとはいえ、またおぼつかない足取りだった達樹は、桜を追いかけているうちに、転倒した。

「お父さん?」

 さくらは、思わず父親に駆け寄った。

 さくらが達樹を支えると、達樹は、さくらの腕をぐっとつかんだ。

「さくら、これを見てくれ」

 達樹は、紙の束をさくらに押し付けた。

 それは、長年の間、百合が恐れていた病について調べた資料だった。

 ことあるごとに、新しい治療法が見つかってはいないか、予防策は確立されていないかと、何度も調べた資料だった。

 何度調べても、治療法は見つかっておらず、その病の恐ろしさを思い知らされるだけだった。

「そこに、お母さんの病気のことが書いてある」

 さくらは、押し付けられたままの紙を渋々手に取った。

「お母さんはもう、発症してしまったんだ。さくらを悲しませたくないからと、わざとつらく当たっただけなんだ。お母さんとの時間は、もう、今しかないんだ。きっと、今を一緒に過ごせないほうが後悔する」

 よく読んで、考えて、また戻ってきなさいと言い残して、達樹は引き返していった。


 達樹は百合が一人きりで闘病生活を送ろうとしていることに気づいていた。

 あと少ししかない残された時間を決して一人きりになどさせない。

 そう、心に誓っていた。

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