夏休みの肘と空
村田天
夏休みの肘と空
「あいつら、いなくなったけど……」
「えっ、」
「……俺ら、どうする?」
*
中学二年の夏休みに友達四人で水族館に来ていた。メンバーはわたしの友達の美憂ちゃんと、彼女の好きな人である、今井君。
それからわたしと、いま目の前にいる
トイレから戻ったら四元君しかいなかった。
門をくぐってからもずっと、明るい美憂ちゃんとよくしゃべる今井君のペースだったので、途端静かだった。
蝉の声が、こんなに鳴いてたのかと思い出すくらいに。
そこまではなんとなくずっと、女子同士男子同士で固まっていたので、四元君とも少し話してみたいとは思っていたけれど、いきなりふたりきりは気持ちの準備ができていなかった。
夏の水族館。建物の外は蒸していた。
夏休みも半ばのせいか四元君の半袖から出た長い腕はもうずいぶんと日焼けしていて、擦り傷がひとつあった。顔が見れなかったので、腕ばかり見てそんなことに気づく。
軽いドキドキと、自分がしくんだわけでもないのに変な罪悪感が少しあった。四元君、わたしとふたりだけなんて気まずいし、もう帰りたいとか思ってないかな。なんだか申し訳ない。
水族館のチケットは結構高いので、できればもう少し見ていきたい。もちろんそれだけじゃないけれど。
「あちーな」
風邪気味みたいな掠れた声で四元君がつぶやく。彼は最近ずっとそうで、だけど別に風邪とかじゃなくて、声変わりというやつらしい。
元々よくしゃべるほうでもないのに自分の声が恥ずかしいのか、最近の彼はとても無口だ。
確かに暑い。いろんな意味で。汗で顔が不細工になってそうで怖い。
彼は出口とは少し違う方向に向かって歩いていた。目指しているのは、たぶんアデリーペンギン。
四元君が帰ろうとしてなくてよかった。そのことに、嬉しい気持ちを覚えながらも、半歩後ろからまた彼の腕のあたりを見ていた。きっと今日の記憶は青すぎる空と、四元君の日焼けした腕の色ばかりだろう。
途中休憩所のようにベンチがたくさん置いてあるところで知った顔に気付いた。
わたしには高校生の兄がいる。その友達の新川さんだった。
あまりひとりで来るところとも思えないので誰かと来てるんだろうけど今はひとりでベンチで携帯をいじっていた。
「あれ、草間いもーと」
彼はわたしが男子とふたりでいるのに気づいて、あれ、という顔をした後にニヤニヤと笑った。
「なんだよ中ガキ生の癖に一丁前に男連れかよ」
含み笑いのまま、近寄って目の前まで来て、わたしの頭を軽く小突く。最悪だ。睨みつける。
「……言わないで」
「あ、雄大に?」
こくりと頷く。兄なんかに言われたらまたニヤニヤされて、からかわれるだけだ。
「わかったわかったよ。内緒にしといてやる」
新川さんは楽しそうに破顔して、わたしの頭をくしゃりと撫でる。普段から軽い人だけれど、わざとみたいに馴れ馴れしくしてくる。それから四元君のほうをからかうようにチラリと見た。彼がどんな顔をしていたのかは見れなかった。
その場を解放されて、彼を確認する。
四元君はほんの少し離れた位置で、こちらを見るでもなく、ちょっと明後日の方を向いて、だけど待っててくれた。
そちらに戻るとまた黙ってペンギンを目指して歩き出す。
さっきより気まずい感じがするのはわたしだけだろうか。悪いことをしたような。だけど彼はわたしの彼氏でもないし、わたしのことを好きかどうかだってわからない。何も気にしていない可能性だってある。
それでも気になってしまう。あんな風に、わたしが目の前で少し大人の男の人に触られて、どう思っただろうか。探るために顔を見る勇気がわかないし、当たり前だけど彼は何も言わなかった。
わたしが彼でも何を言っていいか、わからなかっただろう。
だけど試しに逆で想像したら、ちょっと悲しくなってしまった。四元君のお姉さんの友達の、高校生のお姉さんに呼び止められて、触れられる彼を。
悲しい。自分の想像に勝手に悲しくなって、それなのに、四元君にどうも思われなかったことにも改めて残念さを感じる。本当はほんの少し、彼の嫉妬みたいなものを期待していたのかもしれない。
気持ちのよい風が吹いて、自分の熱くなった体を少し冷やす。
「気持ちいい……」
小さい声で呟いた言葉に隣から小さく「うん」と返事が返ってきた。
ペンギンの柵の前にたどり着いて、しばらくその前に立っていた。四元君はどうだか知らないけれど、少なくともわたしはペンギンは見ていない。四元君の肘のあたりをじっと見ていたし、もっと言うと心ここにあらずで、実際は視線はそこにあっても見ていなかった。
*
帰り道で少し前に美憂ちゃんと今井君を見つけた。四元君の顔を見ると彼も気づいたようで、こちらを見た。
少し大きな声を出せば、あるいは早足で歩けば、彼等と合流できるだろう。
だけど、心の一部がそれを寂しいと感じる。四元君とふたりだけの時間が終わることを。わたしの足はむしろ歩みを遅くしていく。こうやってゆっくり歩いていればきっとどんどん距離は開いていく。
四元君も、特に急いだり、声をかけたりはしなかった。
彼もわたしも、どんどんスピードは落ちて、ついには立ち止まってしまう。そうして、とうとう前を歩くふたりの姿が見えなくなった。
それを確認してからもう一度だけ顔を見ると、ばっちり目が合った。今日一日で、一番まっすぐ見つめ合った気がする。
なぜだか目が合ったことにお互いびっくりした顔で数秒、息を止めた。自分の頬がかぁっと熱を持つのを感じた。
ふっと顔を逸らして、はぁっと息を吐いた。呼吸の浅さと、軽い高揚感。夏の暑さは頭をぼんやりさせて、夢みたいだ。
陽の光がだんだんぼやけた橙色に変わってくる時刻。ゆっくりと歩き出す。
隣の四元君の肘がわたしの肘にとん、とぶつかった。
何故だかそのとき無性に手を繋ぎたくなって、そう思うと同時に自分の手が彼の手に掴まれた。心臓がどきんと大きく跳ねて、びっくりした後に嬉しいという感情に満たされる。
思ったより大きい手。
駅に着くまでの短い時間、会話はなかったけれど、ちっとも気まずくなくて、駅がもっと遠ければいいのに、なんてそんなことを思う。
焼きついていく。樹々の緑、まるい空、汗ばんだ手の感触。茶色い肘。
あっという間に通り過ぎて行く、夏のスライド。
夏休みの肘と空 村田天 @murataten
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