サブスク

高見葵

サブスク

 彩香が電車のホームに立って2分経ったとき、いつもどおり電車がやってきた。少し濡れた車内には、晴れた日には見ない顔が浮かんでいる。ある顔の持ち主は、スマホを横に傾けて何やら真剣な表情で画面を見つめている。ある顔は窓に映る景色を眺めているように見える。しかしよく観察すると、それは窓がある方面を見ているだけで、実際には何も見ていないようだった。

 彩香が降りる駅は乗った駅から5駅であり、県の中枢機能が集まっている4駅目で最も人の出入りが激しくなるから、その邪魔にならないよう、電車の出入口と出入口のちょうど真ん中あたりの定位置に立つ。車掌が車内の中ほどに進むようお願いするアナウンスが流れるが、出入口周辺に少しばかり密集している人たちに動きはない。まるで、アナウンスが情報としてではなく、ただの音として発されているように彩香は感じた。

 おもむろにポケットからウォークマンを取り出し、イヤホンをつける。イントロの一音目が鳴った時、全身がドクッと脈を打った。と同時に足元がぐらついた。車内の何人かがバラエティ番組のノリみたいに数歩よろけた。電車のヌルッとした発車に反して、私の高揚は一瞬で最高到達点に達した。昨日の部活帰りに一人でタワレコに寄って新譜を買った後の、家に帰るまでのワクワクと、心臓をバクバクさせながら聴いた1時間強の時間が蘇る。

 一瞬で気分を変える力が、音楽にはある。

 電車の中に、目を閉じて音楽に浸る女子高生の顔が浮かんだ。


 登校時間の10分前に教室に着き、席に座る。教室内は様々な情報や音で溢れている。昔は昨夜見たテレビの話で持ちきりなんてこともあったのかもしれないけれど、今は各々の好きな人や関心ごとの共有に勤しんでいる。一方で、朝は機嫌が悪いのか、話しかけるなオーラ全開で机に突っ伏している人もいる。

 ちょうどいいな、と彩香は思う。全員が同じことをしていても、全員が全く違うことをしていても、気持ちが悪い気がする。そして、私はそれらを客観的に眺めていられる立ち位置を確保することに勤しんでいるのかもしれない。

「彩香!聴いた?」

 登校時間間近に突然教室内に現れた裕美によって、私も教室内に溢れている音に参加し始める。

「聴いたよ」

「やばない?」

「やばかった」

 共感的な短い言葉で会話をすることで、違和感なく溶け込めている気持ちになる。

「なんか、今までの好きなところは残しつつ新しさもあるみたいな」

「そう!さすが彩香なら分かると思ってた。特に1曲目が好きすぎて」

「私も1曲目好きだな」

「もう10回は聴いたもん。ほんと昨日この話彩香とできなくて悶々としてたんだから」

「悶々とって笑」

 裕美はダウンロードで音楽を聴いているから、私と違って発売日の朝には聴いていた。

「あ、もう先生来るじゃん。後で語ろ」

「うん」

 私たちは、教室内で好きなバンドの話をする二人としての存在を終え、裕美が私とは少し離れた自分の席に慌しく座りに行くのと同時にチャイムが鳴った。

「桜井、新譜買ったの?」

 私の席の前から、また一つ新たな教室内の音が生まれた。

「うん。昨日部活帰りにタワレコ寄って」

「今度貸してよ」

「いいけど、新藤君そんな好きな感じじゃない気がする」

「そうなんだ。余計気になるわ」

 そう言って、私のほうを向いていた新藤が前に向き直った。少し遅れてきた担任が教室に入ってきて、日直の号令を合図に全員分の椅子と机が摩擦する音が教室内に響く。

 朝の喧騒は少し苦手だ。それに比べて、ただ先生の話を聞いているテイでいれば成立する朝礼の時間に、私の気持ちはようやく落ち着く。

 新藤君が話しかけてくれた。純粋に好きだからバンドの新譜を買っただけなのに、新藤君と話すきっかけになることをどこか期待して買った自分がいる気がして、下腹部のあたりがドロッとした。

 先生がなにやら受験生の気持ちを引き締めるための話をしているが、あまり耳に入ってこない。私の脳内の音は、さっき新藤君が私に向けて発した声音と好きなバンドの新譜のメロディーに支配されていた。


 バンドとの出会いは、高校1年生のときだった。比較的田舎な中学校に通っていた私は、それまで周りに流行に敏感な友達もいなかったので、テレビで流れている曲や親が車で流している曲を聴いて、なんとなく良いなと思ったり、思わなかったりといった具合だった。幸い勉強が苦手ではなかった私は、県の中でも有数の進学校に入学をすることとなったが、そこで会う同級生は中学校のそれとはまるで別だった。女子高校生は、自分の好きなことや憧れを主張することに余念がない。自分の中でこだわりというものを特に持てていなかった私は、周りの言うあれやこれやに同調するということに努めていた。その中で、同じソフトボール部だった裕美が熱を込めて語っていたのが、バンドだった。裕美に借りたインディーズの頃から最新までのCDを全て聴いた。聴いては、裕美とバンドの話をした。前はこの曲が好きだったけど今はこの曲にハマり始めているだとか、このフレーズのここの歌い方がどうだとか、そういう自分の思ったままのことだ。新譜がリリースされれば、発売日に二人でタワレコに行った。私はアルバムに加えてPVの収録されたものを、裕美はライブの収録されたものを買って、後日交換するなんてこともあった。

 いつからだろう、裕美とタワレコに行かなくなったのは。

 最近、音楽をダウンロードで聴く人が増えた。自転車で通学しているある友達は、制服の胸ポケットにスマホを入れて音楽を流しながら通学しているらしい。イヤホンをつけるのが法律違反だからって、何もそこまでしなくてもと思う。

 テレビでCDの売り上げランキングを取り上げれば、いつも上位に来るのはアイドルばかりだ。バンドよりアイドルのほうが音楽的に優れているように見えてしまうから、私は嫌だった。こんな私でもバンドのためにできることをと、私はタワレコに寄って、CDを買うことにしている。


「キャッチボールーーー!」

「あぁい!」

 キャプテンの号令で、私たちはグラウンドに散らばる。

 ポス、ポス、ポポスポス。

 10数名の部員がそれぞれに指を鈍角に広げて掴んだボールを対面の胸元に向かって放り投げてはそれを掴む音が鳴る。

 相手の取りやすいところに投げ続けることは、簡単なように見えてとても難しい。綺麗な投げ方を身に着けていないと、どうしても自分の癖が出て外側に少し逸れたり、散らばったりする。

 ある程度続けた後、相方の裕美が少しずつ後ろに下がり始めた。正確さに加えて、遠い距離を投げる肩の力も要求される。

「あっ、ごめん!」

 どこかで暴投を謝る声がする。顔を向けると、絵里がごめーん!と申し訳なさそうに声を張り上げている。絵里は肩が強い。遠投ではノーバウンドで相手に届けることにこだわらず、ワンバウンドでも正確に投げることが肝要だ。しかし、絵里はノーバウンドでも届くという自信から、相手の取れない高さまで投げてしまうことがよくある。

「絵里、今日も叫んでたね」

 キャッチボールが終わり、裕美が声をかけてくる。

「穂乃果がかわいそう」

「うん。彩香が相方で良かった、ほんと」

 絵里が暴投すると、穂乃果はいつも走ってボールを取りに行く。周りがキャッチボールをしているのを後ろに感じるから、拾いに行く時間は、暴投した相手への怒りや、早くキャッチボールに戻りたい焦りや、孤独といった感情が沸き上がるものだ。しかし、穂乃果がそれでイライラしているのを、私は見たことがない。

 ノックが始まるので、私はサードの位置につく。

 私は中学校の時にソフトボールを始めてからずっと、守備位置はサードだ。野球よりもバッターとの距離がさらに短いサードは、鋭い打球に対して一瞬の判断が要求される。そこに考えるという時間は存在しない。ただ体の微妙な重心移動とグローブを差し出すという動作で、ボールを捕らえなければならない。そこに必要なのは、ただ経験値と自らのセンスと打球を恐れない気持ちだけだ。いつも頭で考えて行動してばかりの私にとって、そうした動物的に行動する時間というのは貴重だった。

 コン。

「サード!」

 ノッカーがバントを再現するように、ホームベースから3塁線に向かってボールを転がし、それに対して他の守備位置にいる部員がサードの反応を求めた。

 私はつま先で地面を後方に蹴り、勢いよく前進する。

 早く捕らないと内野安打になってしまう。でも正確に投げることも考えて突っ込みすぎるのも…。

 私は一度捕りかけたボールをこぼしてしまった。

「しっかりー!」

 エラーをしたら部員から注意される。

「どんまい。彩香なら次はできるよ」

 そう声をかけてきたのは、同じサードを守る穂乃果だった。穂乃果は、私に対してもいつも優しい。不甲斐ない守備を見せた私がサードのスタメンを務めていることに不満はないのだろうか。

「ごめん。ありがと」

 私としては少し気まずさを覚え、挨拶だけを返す。

 ノックの球はレフトに転がり、絵里がホームに投げる姿勢で補球体制に入る。

「ホーム!」

 部員の声が絵里の右腕にエネルギーを加えるかのように、綺麗なフォームで球が手元から放り投げられた。

 ガシャン、とバックネットが音を立てた。何人かの部員の口角が上がるのが分かる。

「しっかり!」

「すみませーん!」

 絵里の謝る声は、芯の通った音としてしっかりホームまで届いていた。


「これ返すよ。全然良かったよ」

 授業の休み時間に、新藤がバンドの新譜を彩香のほうに差し出す。

「ほんと?新藤君の好きなインディーズの頃の感じと結構違う気がしたよ」

「確かにそうかもしれないけど、今までのらしさもちゃんとあるし、よりポップだからメジャー受けしそうって思った」

 私が裕美に対して言ったのと同じようなことを新藤君が言う。裕美と新藤君が話したら絶対に盛り上がりそうだ。そう思ったけれど、私はそのことを新藤君には言わない。もちろん、裕美に対しても同じだ。

「そういえば、うちの県にも今度アルバムツアー来るよね」

「それよ。人海戦術で絶対チケットとる」

「そこまでしなくても笑」

「桜井は、相原と行くの?」

 相原は裕美のことだ。新藤君が裕美の名前を出すのは意外だった。

「まだ話はしてないけど、行くかも」

 本当は、新藤君と行きたい気持ちだった。でも、それを声に出して伝えられるほど、私は肉食系ではない。あわよくば新藤君に誘ってもらえればと、思ってはいるのだけれど。

「そうよなあ」

 新藤は、簡単に引き下がった。いったい何のための質問だったのだろう。私を誘うためではなかったのか。こういうときは男に強引に引っ張ってもらいたいと私は思った。裕美と私と新藤君の3人で行くことは絶対にないのだから。

「とりあえずチケット取るところからだよね」

「だな」

 今ここで決めることを保留することで、私は希望を残した。


 昼休みになると、各々机の向きや椅子を変える。こうしてできあがった歪な島の数々を見ると、日本の県境が経線や緯線で定まっていない理由が少し分かる気がする。

「彩香さ、明日何の日か知ってる?」

 裕美が私の後ろの席が空いたのを確認して、こちらに移動してきていた。

「なんだっけ」

「バンドのライブ先行抽選申込開始日」

「さすがファンクラブ会員」

 裕美は、私にバンドを勧めてくれたときからずっとファンクラブに入っている。一般販売はまだ先だが、ファンクラブに入っていれば、一般より早めにライブのチケットの抽選に申し込める。

「一緒に行こうよ」

「いいの?」

「もちろん!ずっと彩香と行きたかったし」

 今まで裕美にバンドのライブに誘われたことはなかった。だから、私はいままでそもそもライブというものに行ったことがない。

「絶対行く。チケット頼むよ」

「任せて。こればっかりは運だけど笑」

 そうは言っても、バンドのユーチューブの再生回数は一番有名な曲が数百万再生あるだけで、それ以外の曲は数十万といった感じだ。まだそこまで有名ではないし、ましてやファンクラブ会員ならいくら地方のライブハウスはキャパが比較的狭いとはいえ、チケット確保は堅いだろう。

「楽しみになってきた。予習のために聴きこんどこ」

「私も」

 裕美はスマホで音楽を聴く。いつからかCDを買わなくなった。

「ねぇ、ダウンロードした曲ってさ、歌詞とか表示されるの」

「されるよ。聴きながら流れてくるからね、カラオケみたいに」

 私はCDを買ったら、1回目は絶対に歌詞カードを手にもってCDを聴く。作曲者や作詞者を確認しながら、曲を聴き、歌詞を部分的に読んだり一気に読み通してみたりしながら、また曲を聴いていく。そうした自分のお金で買ったもので体験するアナログな時間に、少し悦に浸ってしまう。

 ダウンロードは、一瞬だ。ましてやサブスクなら、お金を払った感覚もないだろう。そうやって聴く音楽って、一体どんな音なんだろう。

「やっぱダウンロードのほうがいいのかな」

「良いよ。彩香もそうしたらいいのに」

 バンドの前作までは、毎回のように裕美と二人で発売日にタワレコに行っては、裕美だけが買っていた。私はそれを二日後に貸してもらって聴いていた。

 一日後に裕美の手からCDが渡るのは、いつも新藤だった。


「彩香さ、好きな人とかいるの?」

 ソフトボール部に入部してから2か月ほど経った頃、月末に寄ったサーティーワンでポッピングシャワーを掬いながら裕美が聞いてきた。

「急だね。いないよ」

 好きな人の話って、本当に急だ。

「そっかー」

「あ、裕美好きな人できたんでしょ」

「いやあ」

「否定できてない笑」

 いつもなら目の前にアイスがあればそれを食べ切ることを最優先にする裕美だが、この日は明らかにスプーンが止まっていた。RGにネタにしてもらいたい。サーティーワンで好きな人の話をするJKのスプーン止まりがち。少し長いか。

「実はさ、同じクラスにバンド好きな男子がいるの」

「え、まじ」

「まぢ」

「なんでギャル」

 正直、まだバンドはよほど音楽が好きな人でなければ知らない存在だった。ユーチューブ再生回数1億以上の曲を持つ数々の億超えルーキーと比べれば、バンドはさしずめアルビダの船を抜け出したばかりのコビーといったところだ。

「運命としか思えんのよね」

「気持ちはすごい分かる」

 恋愛において、希少価値というのは優位性が高い。かっこいい人や可愛い人というのはクラスに2,3人ほどしかいない(諸説あり)が、バンドを好きな人はおそらく学校に片手で数えるほどしかいないレベルだ。そうすると、裕美とその男子との距離が急接近するのは容易に想像がつく。もちろん、私だってそのポテンシャルを持っているのだけれど、裕美やその男子とは違うクラスの私にはオポチュニティーがない。

「期末テスト終わったらデートでも誘ってみたら」

「待って。まだ話したことないって」

「じゃあ、家に誘うとか」

「それ前進してるから」

 そういう裕美はかなり照れている。どんどん溶けていくポッピングシャワーが裕美に重なる。こういうとき、なぜか私は強気な発言がでてきた。けれど、本当は焦っているのだと思う。

 裕美と新藤が付き合い始めるのに、やはり時間はかからなかった。


「礼!」

「ありがとうございましたー!」

 もしかしたら最後になるかもしれないグラウンドへの礼を終えた。今日の練習でも、絵里は相変わらず暴投していたし、穂乃果も相変わらず取り乱すことなくボールを追いかけていた。私の学校はそこまで強豪校ではないし、特に勝ちにこだわるという雰囲気もないから、そこまで気にはしないけれど、私が高1の頃に見ていた高3はもっとみんな上手だった気がして、少し不安を覚える。

 ソフトボールや野球といったスポーツは、チームの人数が9人だから団体競技として扱われるけど、私は個人競技だと思う。結局は、投手VS打者という構図が一定のルールに従って切れ目なく続いていくという印象だ。だから、勝つには打たなければならない。打つには、個人の力量が必要だ。バレーボールみたいにアタッカーに対して綺麗なトスを上げてくれるセッターもいなければ、サッカーみたいにシュートを決めるための絶好のパスを通してくれる味方もいない。誰も助けてはくれない。インコース低めが打てないまま、ただ部活動を2年強したところで、試合で打てるようになったりしない。

 私がソフトボールを始めたのは、唯一の兄弟である3つ上の兄の影響だった。小学校の頃、よく休みの日に父親と兄がキャッチボールをしていたのを私は見ていた。見ていると、なんだかやってみたい気持ちになった。そうして時々兄とキャッチボールをした。兄の投げる球は私には早くて、身体に当たって泣くこともあった。けれど、投げるのは好きだった。ただ投げたかった。

 中学校に入って、他に運動のできない私は消去法でソフトボール部を選んだ。兄とのキャッチボール経験者だった私は、周りの子より少しだけ肩が強かった。肩の強さが必要な外野は、あまり上手でない子がこぞって希望していた。だから、内野の中でも比較的肩の強さが要求されるサードを選んだ。

 あれから5年以上ソフトボールと関わってきた。明日でソフトボールがもうできないかもしれないことを想像してみる。それは引き算のように、何もプラスのないことのように彩香には思えた。


 1回戦の相手は、いきなり強豪校の北高だ。県の中でも特にあらゆる運動部のレベルが高い公立校で、その上進学校でもある。だから、学校生活で部活を優先したい人は、私たちの東高に行ける学力があっても北高を選ぶ人もいる。

 中学時代に私と同じソフトボール部でエースだった美咲も、北高にいる。

 試合前、私は裕美とキャッチボールしながら、相手高校のキャッチボールを盗み見ていた。そこには、中学時代に知っている球とは次元の違う球を投げる美咲がいた。

「相手ピッチャーの球やばない?」

「あの子、中学の同級生」

「え、そうなんだ。手加減してもらうように言ってよ」

 キャッチボールが終わり、裕美が少し張り上げた声で言う。しかし、どう見ても北高にそんなことを言える雰囲気ではなかった。強豪校の練習は、やはり統制されている。キャプテンの号令とそれに対する部員の反応一つとっても、無駄がなく、強そうに見える。淡々と自分たちのやるべきことをこなすことこそが頂点へ近道だと信じている顔がたくさんある。

 美咲からは昨日彩香に連絡が来ていた。「明日、試合終わったら話そうね」という文字には、北高が負けるという可能性を微塵も感じなかった。

 ノックでは、絵里が暴投した。三塁側ベンチにいる北高の顔を見ると、にやにやしている顔が何人か確認できた。

「ライトしっかり!」

 絵里の謝る声が試合会場に響き渡る。こうして大きなミスをする選手がいることを相手チームに見られて彩香は恥ずかしい気持ちだった。

  試合は、思っていた以上に緊迫した展開になった。東高の先行で始まると、トップバッターを務める裕美を含めて三者連続三振に終わった。絶望感が一塁側ベンチを支配しかけたが、まだ試合は始まったばかりである。みんなで声を掛け合って、守りでリズムを作ろうと切り替えた。初回、東高のピッチャーの球に、相手はタイミングが合っていなかった。巧みに変化球も交えることで、三振を取ることはできなくとも、打たせてアウトを取ることができた。その分、守備にもプレッシャーはかかったが、サードの彩香もファーストの裕美も落ち着いて処理をすることができていた。

 2回裏には、北高の4番打者の痛烈な打球が3塁線に転がってきた。彩香は一瞬グローブを右手に差し出そうかと考えたが、それでは弾く恐れがあるとこれまた瞬時に判断し、胸の上部で打球を止めて下に落とした。ドンと体に振動が伝わる。大丈夫だ、球は近くにある。彩香は素早く拾って、ファーストにボールを投げる。

「アウト!」

 塁審の声が上がるのに呼応して、チームメートからナイスファインプレーを称える声が聞こえる。これだ、これがサードの醍醐味なんだ。

「彩香ナイスー!」

 穂乃果がベンチから声を張り上げている。私は右手を挙げて笑顔で応える。

 彩香のファインプレーをきっかけに少しだけ東高に流れが傾いたのか、3回表の攻撃以降、バットを振れば球には当たるようになってきた。自然とベンチで声援を送る掛け声に明るさや出てきて、声量も大きくなる。

 北高はヒットは出るも得点には至らず、東高はヒットこそ出ないもののナインの元気だけは北高以上にあるといった具合で、5回を終えた。

 ソフトボールは7回までだ。塁間や投手と打者の距離が短いことや牽制がないことも含め、野球と違ってとにかくスピーディに進んでいく。

 6回表、流れを作りたい東高は、先頭打者に代打を送った。ソフトボールでは、リエントリーというルールがあり、代打で下げられた選手がそのまま次の守備から試合に戻ることができる。代打で出てきたのは、穂乃果だった。

「穂乃果ファイト!」

 東高ベンチの声がさらに一段と大きくなる。穂乃果は、バッティングフォームが綺麗で、足もそこそこある。しかし、力がないので、なかなか打球が外野まで飛ばない。

 ベンチのサインはない。美咲が初回と変わらない速球を放つ。穂乃果はセーフティバントを仕掛けた。

 打球は絶妙にサード側に転がった。北高の捕手と投手が反応するが、それより先に、セーフティバントを予測していたサードが素早いチャージをしてベアハンドキャッチで一塁に送球する。

 穂乃果は出塁することができなかった。狙いは良かったが、内野の動きを見て一球見送るべきだった。こうした決め打ちしかできないのが、強くなれない理由なのだと彩香は思った。

 0対0のまま迎えた6回裏、3巡目に入った北高が東高のピッチャーを捉え始めた。ワンアウトは取ったもののランナーが1,2塁にいる状況で、4番を迎えた。彩香の脳裏に体で止めた強烈な打球がよぎる。今度飛んできても絶対に体で止める。怖さはあったけど、試合のアドレナリンが出ているのか先ほどの痛みも全く感じない。

 初球、フルスイングとともに白い球が三遊間に転がった。体では止められない。彩香は右足で地面を蹴って球に飛びつくが、グローブの下を打球が抜けていった。打球の行方を追うと、レフトまで転がってきた球を助走しながら絵里が捕球するところだった。2塁ランナーを確認すると、3塁コーチャーが大きく腕を振り回す前で3塁ベースを蹴っていた。

「バックホーム!」

 球場内の全ての視線が絵里に集まっていた。何度も見たが、本当に綺麗なフォームで投げる。しかし、その球の行方は何度も見たものではなかった。レフトの定位置より少し深い位置から、レーザービームのように捕手のミットに吸い込まれていった。


「彩香久しぶり」

 試合が終わり、美咲がクールダウンもせずにこちらに寄ってきた。

「美咲球めっちゃ速くなってるね」

「頑張ったよ。県で優勝目指してるから」

「全然できそう。応援してるよ」

 そう言いながら、私は自分のことで精一杯だった。目標に向けて日々を過ごしていた同級生を間近にして、私には自分の誇れるものがないことに気付かされていた。

「じゃあ、次の試合あるから」

 美咲が駆け足で3塁側に戻っていく。

 一塁側には、なんだか清々しい雰囲気が漂っていた。私たち3年生には、もう次がない。そう思うと、悔しいなんて感情を抱くことが無意味なことに思えてくる。そう考えると、強い相手と良い試合ができたことを今は喜んでもいいのかもしれない。

「絵里、バックホーム最高だったよ」

 今まで絵里を褒めたことはなかったから、掌返しみたいな気がしたけど、私は労おうと思った。

「ううん。アウトに出来なかったし」

 絵里は少し悔しそうに言った。そのとき、彩香はなぜか絵里に負けた気持ちになった。

 出来ないことを出来ることにするためには、そのために犠牲を払わなければならない。

絵里は、練習で皆に笑われるという、人によっては恥ずかしいと感じてしまう犠牲を払って、それが今日の試合でのプレーにつながった。そして、そのプレーの経験での不満足を胸に、もう次の自分を見ていた。

「早く片付けて出るよ」

 キャプテンが片づけを急かす声で彩香は我に返った。周りを見ると、穂乃果がせっせとヘルメットを袋に詰め込んでいる。私はそれを手伝う。何か穂乃果にも声をかけようと思ったが、言葉が思い浮かんではどれも違うような気がして、ただ無言で手を動かすことしかできなかった。


 総体の翌日の朝の会では、先生が受験生の自覚を持って放課後を過ごすようにと注意を呼び掛けていた。自覚って、持つものじゃなくて、芽生えるものなんじゃないかと、彩香は心の中で先生に反抗してみる。

「ソフト部は総体どうだったん?」

 一時間目の準備をしていると、サッカー部の新藤君に話しかけられた。

「初戦敗退だよ」

「そっかー。お疲れだったね」

「強豪相手だったし、仕方ないかなって。新藤君は?」

「俺らはなんとか生き伸びてる」

「良かったね。おめでとう」

 彩香たちと違ってまだ部活を続けられる新藤の顔は、まだ何か言いたげだった。

「どうしたの?」

「いや、良かったら来週の試合見に来てくれない?」

 彩香は心臓が高鳴るのを感じた。全身の毛穴が開き、顔が熱を帯びていくのが分かる。今すぐこの場を離れたい気持ちになったが、彩香は思いとどまった。

「え、うん」

 なんといえば良いのか分からず、曖昧な返事になる。

「あ、いやソフト部の人も誘ってさ、応援みたいな感覚で来てくれたらいいかなって」

 新藤が彩香の様子を察して、ハードルを下げようとする。彩香は途端に道が開けたような気がした。

「あ、じゃあ裕美にも声かけてみるね」

「うん、また詳細は教えるから」

 そうしてなんとなく行く流れにはなったが、そもそも新藤君は裕美が来ることを望んでいるのだろうか。それに裕美に断られたらどうすれば…。様々な不安はよぎったが、それ以上に彩香は舞い上がっていた。


「ごめん、その日予定あって」

 裕美への提案はあっさりと断られてしまった。日付を伝えたときは大丈夫そうな感じだったが、新藤君の名前を聞いた途端に態度が変わったように見えたのは私の気のせいだろうか。

「そっかあ」

「ごめんねー」

 彩香は急に心細くなった。裕美以外に、私とプライベートで親交のある友達はほとんどいない。

「受験に向けて塾でも入ったほうがいいかなって思ってさ。体験入会みたいな」

 彩香は今まで裕美が真面目に勉強を頑張る姿をあまり見たことがない。でも、こういうときに切り替えて頑張れる人は伸びるって先輩に聞いたことがある。

「すご、行動早いね」

「彩香みたいにコツコツできる人のほうがすごいよ」

「いや、私も全然だって。電車通学の時間も単語帳とか読んだことないし」

「分かる。あれって本当に覚えられてるのかな笑」

 そう言いながら、私たちは受験というものに対して心の奥底で感じている焦りを打ち消そうとしていた。


 家に帰って、誰か誘える相手はいないものかとラインの連絡先を眺める。世の中はどんどん便利になっていくけれど、週末に一緒に男子の部活を応援してくれる人を探すのは私自身の脳と手によって行わなければならない。

 新藤は、裕美に来てほしかったわけではないのだろうか。そう思ってみても、あんなにはっきりと断られた手前、もう一度裕美を誘うことはできなかった。そういえば、部活の子を誘ってと新藤君は言ってくれたと思い出し、彩香はソフト部の同期グループを開く。

 ふと、穂乃果の名前が目に留まった。

 穂乃果とは、同じ守備位置を守っていたから、比較的話しているほうかもしれない。最近バットを買っただとか、昨日バッティングセンターに行っただとか、そういうソフトボールに関することだ。あまり深い話はしたことがない。

 彩香は思い切って穂乃果にラインしてみた。

「突然だけどさ、来週サッカー部の試合応援に行かない?」

 本当に突然だ。しかし、彩香にはこういう時に相手が来たくなるような誘い方というのが分からなかった。

 すると、すぐに既読がつき、

「うん、行く」

 と返ってきた。

 私は心から感謝の気持ちを込めてお礼のメッセージとスタンプを送った。そして、新藤君のこと以上に、穂乃果と過ごす時間に緊張し始めた。


 穂乃果は、白いワンピースに麦わら帽子という、まるで昭和のトップアイドルのような格好で現れた。

「突然の誘いだったのにありがとね」

「ううん。どうせまだ受験勉強って気分にはなれなかったし」

「分かる。私も」

「でもなんでサッカー部?」

「あ、なんか新藤君って同じクラスの男子がいるんだけどね、その人に誘われて…」

「ふうん」

 彩香はこういうとき、本当っぽい嘘でごまかずことができない。

「新藤君ってさ、裕美と付き合ってたんじゃなかったっけ?」

「そうなんだけど、もしかしたら別れてるかも」

「え、そうなの?」

「うん。4月からせっかく二人同じクラスになったのに、話してるところ見たことないし」

「教室内ではそうしてるだけかもよ」

「そうだといいけど」

 彩香はあくまで裕美のことを心配する友達というテイを貫くことにした。実際、裕美から別れたという報告を受けていないし、かといって直接そのことを聞く勇気もなかったから、心配していないわけではない。

 試合会場に着くと、他クラスの女子集団がいくつかすでに応援席にいた。サッカー部の人気が可視化されて、私がこの場にいていいのだろうかと少し不安になる。彩香と穂乃果は斜め後ろのほうの席にちょこんと二人並んで座った。

 東高のサッカー部は顔が認識できる程度の距離にいた。今は練習が一段落して休憩に入っているようで、座ってリラックスした様子で話したり、こっちを指差して何やら盛り上がったりしている。新藤は、トイレにでも行っているのか見当たらない。

「桜井、来てくれたんだ」

 声にびっくりして後ろを振り返ると、制服と違って腕が露出されている新藤君がいた。

「うん」

「あれ、相原は?」

「なんか裕美は来れないって、塾の用事で」

「そっか」

 なぜ新藤は裕美の名前を出すのだろう。教室では話さないし、直接連絡も取ってなさそうなのに。

「新藤君試合始まるんじゃない?頑張ってね」

「うん、ありがと」

 そう言って新藤は部の輪の中に戻っていった。誰かが絡みに行ってじゃれ合っている。

 どうしてサッカー部ってあんなに楽しそうなんだろう。彩香はいつも不思議に思う。なぜかサッカー部は一番華があって、女子の間で話題になって、誰かと誰かが付き合っただの別れただのと噂になる。

「穂乃果、この前のセーフティバント惜しかったね」

「あ、うん」

 急に振るような話題じゃなかっただろうか、穂乃果の返答の歯切れが悪くて、彩香の表情が少し硬くなる。

「本当は打ちたかったけど、私に出来ることって考えたらあれが一番かなって思って」

 確かに、あのピッチャーに対して大会初打席で捉えることはかなり困難だっただろう。チームのことを考えたら、ベストな選択だったのかもしれない。

 それでも、穂乃果にとって試合の思い出があの打席だけになるのであれば、打つ選択をすることはそんなにダメなことなのだろうか。

「穂乃果はさ、ソフト部入ってよかった?」

「もちろん」

「そっか」

「彩香、上手だった。私がどんなに頑張っても、彩香みたいに打てないし、守れなかった。練習試合とかでもさ、彩香がファインプレーをしてるのを見てると、自分にはできないなあって思ったよ」

 穂乃果は、もう過去になったソフトボール部のことをそう振り返った。ベンチにいる人はスタメンの失敗だけを期待していると思っていた彩香は、穂乃果の言葉が意外だった。

「私も穂乃果がいるからみっともないプレーできないって頑張れたからさ。嫌かもしれないけど、ありがとうって思ってる」

 彩香がそういうと穂乃果はフフッと微笑んだ。

 グラウンドではサッカー部の試合が始まっている。

「彩香は新藤君のこと好きなの?」

「え、いや、好きとかじゃ」

「優しいね、彩香って」

「え、なんで?」

 穂乃果はなんだか笑っていたが、彩香はどういうことなのか分からなかった。


「チケット取れた!」

 裕美から、ダウンタウン浜田の結果発表のラインスタンプの後にメッセージが届いた。

「やった!楽しみだ」

 私はそう返しながら、これで新藤君とは行けないかと少し残念な気持ちにもなった。メッセージはすぐ既読になり、

「今度私の家で一緒に新譜聴こうよ」

と来たので、オッケーだというニュアンスの伝わるラインスタンプを送る。

 数日後、放課後になると裕美と一緒に学校を出た。裕美の家は私の家の方面とは真逆なので、仲は良いし一緒に遊びに行ったことは何度もあるけれど、こうして家に行くのは初めてだった。

 裕美の家は、学校に近い。私みたいに少し遠いところから通学している人からすると、通学時間がかからない分、何をするにしても時間が周りの人より多くあるから有利な気がして羨ましく思う。

 裕美の家はマンションの3階の角部屋だった。裕美に続いて家の中に足を踏み入れる。

「おじゃましまーす」

 父親は仕事で母親は買い物に出かけているらしいけれど、彩香は囁くような声であいさつをする。礼儀とかではなくそうしないと何か悪い気がしてしまう。

 裕美の部屋は玄関を上がってすぐ左にあった。

「散らかってるけど」

「いやめっちゃ綺麗じゃん」

 ナイストゥミートューと言われてナイストゥミートュートゥーと返すくらい定型のやり取りをしながら、裕美に促されて適当なクッションの上にちょこんと座る。

 裕美の部屋は、実際綺麗だった。6畳ほどのフローリングの部屋の隅にベッドがあって、反対の隅に学習机があって、そして空いたスペースに棚がある。男っぽくはないが、色合いは木製の家具が目立ってそこまで女っぽすぎない、落ち着いた部屋だった。棚の中にバンドの今までのCDが並べられているのが確認できる。

 しかし、そこに新譜はない。

「新譜持ってきたからセットしようか?」

「いや、ブルートゥースでつないで聴くからいいよ」

 裕美はそう言って、スマホを触り始めた。するといきなり速いテンポの曲がスピーカーから流れ始めた。新譜の一曲目だ。

「私この曲好き!ライブでも一曲目にやらないかなあ」

「これのイントロだけで会場が沸きそう」

「絶対そう」

 こうして二人きりで音楽を聴くと、自分が良いなと思う瞬間が共有出来て楽しい。彩香はすでに今日来てよかったと思っていた。

 そして、この機会に聞いてしまおうと思った。

「裕美さ、新藤君と別れたの?」

 何やらスマホを見ていた裕美の手が止まった。動じないように平静を装おうとしてかえって身体が硬くなっているのが見ていて彩香に分かった。

「うん」

「そうだったんだ」

 裕美の声のトーンが下がっていたのを彩香は感じて、あまり聞きすぎないほうがいいかもしれないと思った。

「辛かったね」

 なんで私に言ってくれなかったのだろうと思う。好きな人ができたときは教えてくれたのに、別れたことは教えないなんて、そんなの都合よすぎるじゃんか。

 しばらく部屋の空間には新譜の音だけに支配されていた。私たちは確かにこの部屋にいるのに、耳が働いてないし、身動きを取ることも困難だった。

「私さ、ずっと無理してたんだよね」

 明るい曲が切り替わって少し静かな曲になったとき、裕美が口を開いた。

「無理して、疲れちゃった」

「うん」

 私は、話の続きを優しく待とうと思った。今は裕美の話を受け止められるだけ受け止めたい気持ちだった。

「新藤君ってさ、クラスの女子とかからもすごい人気でさ。休み時間とか、どうしても新藤君と他の女の子が話してるのとか気になっちゃってたの。でも、私はそれでモヤッとした気持ちになるのを新藤君に言えなかった。言いたくなかったの。そういう新藤君を尊重した上で付き合える彼女でいたかったから」

 裕美はもう私を見ていない。裕美の中にいる裕美と対話している。

「気付いたら、私は新藤君と関わるたびに疲弊するだけになってた。バンドの新譜が出た時だけ、CDの貸し借りを通して関わりを持てて、曲の話とかしたの。やっぱり二人とも、バンドは好きだったから」

 私は黙って裕美を見る。私自身も、裕美の体験を追体験している気分になっていた。

「結局、私たちって同じバンドが好きな友達って関係が一番だったんだろうね。私は新藤君のこと好きだったけど、その思いが強すぎて、新藤君が私を好きだと思うことができなかった」

 語尾が震えて、裕美が俯いた。抱きしめなきゃと思って私は裕美のそばに飛んだ。うん、うんと頷きながら、背中をさする。裕美が声を上げて泣く。

 スピーカーから流れるバンドのラブソングが、裕美の部屋で悲しく響いていた。


「チケット取れたんだけどさ」

 裕美の部屋に行ってから3週間が経ったころ、教室で新藤が彩香に話しかける。

「桜井、俺と一緒に来ない?」

「え」

 前はあんなにあっさりと引いていったのに、今度は急に割り込んできた。彩香はすでに裕美と約束をしてしまっているから、困惑した。しかし、突如彩香にアイデアが浮かんだ。

「そのチケットってさ、2枚?」

「うん、そうだけど」

「私にくれない?」

「え、どういうこと?」

「いいから」

 彩香はそう言って、新藤に向かって手を差し出す。

「俺と一緒に行ってくれるの?」

「私はライブに行くし、新藤君もライブに行くんだよ」

「なにその言い方笑」

 そう言いながらも、新藤は彩香にチケットを2枚渡した。裕美がこちらを見ているのを彩香は視界の端で確認する。

 彩香は、本屋さんに積んである本の上に檸檬でも置いてみたい気分だった。


 彩香は昼ご飯をいつもより早いペースで食べていた。

「彩香、なんか今日楽しそう」

「え、そうかな」

 そう言いながらも、口角を下げることのできない彩香がいた。裕美が少し間を置いて、思い切ったように口を開く。

「ねぇ彩香ってさ、新藤君のこ…」

「ごちそうさま!ちょっと用事あるから出てくるね!」

「え、どしたの」

 彩香は楽しくてしょうがなかった。裕美が何を聞こうとしたのかも分かったしどういう気持ちなのかも想像がついたけど、それを今答えるのは彩香にとって楽しいことではなかった。なにより、偶然にも裕美の質問のタイミングでちょうど食べ終わったのだからしょうがない。

 彩香は二つ隣の教室に向かう。廊下から見るとあらゆる集団がそれぞれの騒音レベルを発生させている。彩香の目はそれらをかき分けてある一人の人物のところで止まった。

「穂乃果、ちょっといい?」

「彩香」

 穂乃果が声に気付いて廊下に出てくる。

「この間さ、サッカー部の応援付き合ってくれてありがとね」

「ううん、全然。楽しかったし」

「ね、楽しかったね」

 彩香は穂乃果の顔を真っすぐ見据える。

「ねぇ、今度バンドのライブあるんだけどさ、二人で行かない?」

「え、バンド。私そんなに知らないけど」

「いいの。私は穂乃果と行きたいの」

「裕美はいいの?」

「裕美はいいの」

 穂乃果は困惑した顔を見せていたが、彩香のことを嫌いではないのか断りづらい性格なのか分からないが、彩香の感触としては想像どおりの反応だったので楽しかった。

「じゃあ、せっかく誘ってもらったし行ってみようかな」

「やった!」

 彩香は詳細は今度連絡することを穂乃果に伝えて、そそくさとその場を後にする。楽しい気持ちで少し気は大きくなっているが、他クラスで用もないのに長居する精神力は彩香にはない。自分のクラスの教室にまだいた裕美に向かって彩香は言う。

「裕美、新藤君とライブ行きなよ」


 初めてのライブハウスは、想像以上に人でいっぱいだった。整理番号が後ろのほうだった彩香は、必死に背伸びをしてなんとかボーカルの顔が見えそうな位置を探す。

 すると、流れていた音楽が突然止んだ。

 観客がわっと沸き、さらに後ろにいる人たちから背中を押される。

「わっ、穂乃果」

 穂乃果のほうに向かって手を伸ばし、はぐれないようにする。

「本当に出てくるんだね」

「そうだよ」

 バンドはチケットを取ってからテレビに出演する機会があり、それ以降一段と有名になった。だから、こんな距離の近いライブハウスでこのバンドを見れるのはもう最後かもしれない。

 バンドのメンバーが続々と出てきては、歓声が上がる。最後のボーカルの登場時に、その声は一段と大きくなる。

 彩香は必死につま先に力を入れる。足を延ばし切ったところでぎりぎり顔が見えるが、それを維持することができない。

 いきなり曲が始まった。ドラムのバスドラムやベースの音がお腹にずしりと響いてくる。何度もCDやウォークマンで聴いた音が目の前で鳴っている。嬉しすぎて楽しすぎてどうにかなりそうだった。

 裕美と新藤も二人で来ているだろうか。きっと来ているだろう。だって、バンドって、それを好きなだけで、男と女をつなぎ合わせる力を持った存在だから。

 彩香は曲にノッて体を動かす。その顔には汗とも涙ともつかない水が滴っていた。

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サブスク 高見葵 @ybjamm38

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