塔の魔女、少年の幸福

ミドリ

塔の魔女、少年の幸福


 冷たい風が吹いた。


 石材を精巧に組んで作られた塔の上。目にかかる稲穂のような金髪をおさえて、少年は朝焼けの世界を見渡す。


 この時間が好きだった。


 空が白み始めて、藍色をて、太陽の赤と交じる。紫、青と移り変わっていく世界。それに合わせて眼下の森も明るくなる。若草色の葉っぱが、ヒスイのごとく鮮やかに。美しい大自然のパレットだ。


「何をしている?」


 少年は肩を震わせた。振り向こうとしたとき、肩にふわりと布がかかった。少年の背丈に合わせて作られた赤いマントだった。


「ダメだろう。厚着しないと風邪をひく」

「……あり、がとうございます」


 少年はうつむいた。背後に立っている彼女と目を合わせるのが気恥ずかしいのだ。噂に聞いていた魔女が、まさかうるわしい妙齢の女性だったとは。想像もつかなかった。


「なにを見ていたんだ?」


 魔女が少年の隣に立ち、塔のへりに手をついた。褐色の指先に眼を奪われた。かつて自分の寿命をするりと抜き取った指先だ。そのときのことを思うだけで心臓が跳ねてやまない。


「ん?」

「っ……」


 魔女にのぞき込まれて視線を背ける。一瞬見えたのは、つるりとあでやかな夜色の髪。そしてエメラルドの瞳。


 ──直視してはいけない。


 寿命どころか、魂さえ持っていかれてしまう。

 心はすでに鷲掴みにされている。

 せめて魂だけは守らないと。


「そんなに嫌うこともないだろうに」


 魔女はくすっと笑い、少年が話し始めるのを待っていた。

 とうの少年は赤くなっていく頬を自覚しながら、魔女と自分が出会った経緯けいいを思い返していた。




     *




 少年は生贄だった。

 飢餓に苦しむ村に命を宿され、生まれつき生贄となる運命だった。


 ──村から遠く離れた場所に、石造りの城がある。尖塔せんとうがやけに目立つその城には、大切なモノと引き換えになんでも叶えてくれる魔女がいる。お前はそこへ行って、自分の命と引き換えに村を救ってくれと頼め。


 少年はそう聞いていた。


 大切なモノとは、寿命。

 魔女は他者から受け取った寿命でもう数百年も生きているのだという。現実味のない壮大な年月だ。少年は「すごい」と思うのみだった。


 そして実際に生贄になる日が来た。


 少年は村との別れを悲しいとは思わなかった。別れがつらくならないよう、人々は少年を虐待していたし、両親でさえそれに加わっていたから。


 森を超え、川を渡り、いくつかの谷を迂回した。


 少年がたどり着いたのは森から突き出ている崖の上だった。こちらを見下ろす建物にいまさら恐怖を抱きながら、大きな門をノックした。


「待っていたよ」

 背後から声がした。


 ふりむくと、華奢なドレスを着た魔女が立っていた。

 世界から輪郭を隔絶されたような肌の色に驚く。少年の視線に気づいた魔女は自分の手を見下ろし、「じきに慣れる」といった。


 待っていたとはどういうことだろう。


 少年が怪訝けげんそうにしていると、魔女が片手で門を開けながら──これにも少年は本当に驚いた──口を開いた。


「百年以上も前から君が来ることは知っていたんだ。私は今日を待っていた。君を待っていたんだ。さ、おはいり」


 村にいたころはにわとり小屋が居場所だったのに。

 入ってもいいのかと戸惑う少年の背中を、魔女は押す。

 少年の後ろで門が閉じた。すると城の中は真っ暗だった。


「失敬。君はこれじゃあ見えないね」


 魔女が指を鳴らした。


 ぼう、と赤い炎が壁際のたいまつに灯る。燃料なんかどこにもないのに、それはいまも燃え続けている。


 目の前に階段があった。それは地下と二階へのびていた。


「さて」魔女は少年の身なりをじっくりと見た。「少し汚れているようだ。道中危険もなかったし、村での扱われ方がひどかったんだろうね」


 おいで、といざなわれ、地下へ向かうと、そこには大きな風呂があった。


「この部屋は特別なんだ。欲しいものを念じて入ると、その通りのものが現れる」


 少年は魔女に服を脱がされた。他人に肌を晒すのは恥ずかしくて、手で大事なところを隠した。魔女はまったく意に介していない様子だ。そのまま少年を木の椅子に座らせる。


 しかし、魔女は少年の背中を見て眼を細めた。


「ひどい傷跡だね……私の魔法でもこんなに残酷なことはそうそうできないよ」


 鞭、火かき棒、釘。少年が様々な器具で傷つけられた痕だった。何年たっても消えないだろうと思われるほどに深い傷跡だ。魔女が細い指でなぞってくすぐったい。もじもじしているのに気が付いた魔女は、


「ふふ、ごめん。すぐに済ませよう」


 少年に優しく湯をかけ、体を丁寧に洗った。水が床に跳ねているのに、魔女は服を着ているのに、ほんの少しも濡れていない。この城の中ではすべて彼女の思い通りなのかもしれない。少年は畏怖と尊敬を抱きながら、体をなぞる泡だらけの手にじっと耐えていた。やはりくすぐったかった。


 体を洗い終わると、魔女は少年の体にバスタオルを巻き、指を鳴らす。それは服になった。動きを阻害しないシンプルな作りで、それゆえ丈夫な服。


「さ、今度は食事だ。私にお客様を歓迎させてくれるね?」


 少年はおずおずと頷いた。

 魔女に頭を撫でられた。


 城の二階には暖炉を備えた一室があった。机の上にはほかほかのミートパイと野菜のスープ、それからパン入りのバスケット、ワインの注がれたグラスが置かれていた。


 魔女は少年を座らせた。


「好きなモノから、好きなだけ食べなさい」


 少年は自分が何を食べたいのかわからなかった。もっと言えば、どうやってパイを食べればいいのかすら知らなかった。困惑しているのに気が付いたのだろう。魔女は少年の隣に座って、ナイフとフォークを手に取った。


「どうにも幸福を知らないお客様のようだね。ほら」


 さくりと切り分けたパイ生地を差し出され、少年は本当に食べていいのだと気がつく。口をつけると、豊饒ほうじょうな肉の香りと適度な塩気が味蕾みらいを突き抜けた。腹の虫が息を吹き返した。


 魔女が置いたフォークを奪うように取って、パイを食べた。スープを飲んだ。パンも食べた。少年は泣いていた。こんなにおいしい食事は初めてだ。


 ワインを一口飲んでむせていると、魔女に笑われた。


「満足したかい?」


 少年は頷く。


「そうか。それなら、行こう」


 立ち上がった魔女についていくと、三階の一番奥へ案内された。そこは小さな書斎だった。奥の壁際に引き出しつきの机と、前後に揺れるロッキングチェアが置かれている。それ以外の壁は一面本だった。


 部屋の中央で、魔女は少年に向かい合った。


「さ、聞かせてくれ。君はなにをしにここにきたんだ」


 少年はうつむき、か細い声でいった。


「生贄に、なるために」

「君がそう望んだのか?」

「……決められてたことです」

「そうか。戻りたいとは思わないかな?」

「え……」

「今から君をあの村に──」

「嫌だっ!」


 少年はとっさに叫んでいた。はっと気がついたころにはもう遅く、魔女は少しばかり驚いた顔でそこにいた。少年はもう一度うつむく。


 しばらくの静寂を置いて、魔女の手が頭の上に乗った。


「そうか。いじわるなことを言ってしまったね」

「……」

「君は、私が大切なモノを奪うことを知っているかな?」

「……はい」

「それが寿命だということも?」

「はい」

「それでも、叶えたいことがあるのかな?」

「……」


 少年は黙った。


 頭の中で何度も考えた。叶えたいこと。叶えたいこと。自分の役目は村を飢餓から救うこと。そう教えられたじゃないか。でも、なんで虐待してきた人たちを救わなきゃいけないんだろう。本当は、本当は。


 少年は顔をあげた。


 魔女がことんと顔を傾げ、少年に視線を合わせていた。ぞくりと背筋が震える。何もかも見透かされている感覚があった。この人の前では世界のすべてが無価値だ。この瞳の前では。


 そう思いながら、少年はいった。


「ぼくの村を、救ってください」


 それが役目だから。


 魔女は少しのあいだ寂しそうにして、

「わかった」といった。


「君の寿命を引き換えに。その願いをかなえよう」


 彼女が人差し指を立てる。

 綺麗な爪の先に青い光が浮かび上がる。


盟約めいやくを交わそうか」


 光がこぼれる魔女の手に、少年の顎は下から包まれた。

 親指で唇をつとなぞられる。


「さ、力を抜くんだ」


 少年がどうすればいいのかと顔をあげた瞬間、


「んむっ!?」


 深い口づけがそこに待っていた。

 魔女の体温を帯びた舌に口の中を蹂躙じゅうりんされ、気が遠くなる。背中を駆けあがった震えが脳天から突き抜けていく。


「──ッ」

「ふ、んふ。君は、自分の欲に嘘つきだな」


 唇を離し魔女は言う。

 ぎくりとした少年が弁解を始めようとしたとき。


「また明日」


 魔女の人差し指が目にもとまらぬ速度で少年の胸を突く。少年は後ろに倒れながら、人差し指に何かを抜き取られるのを感じた。──きっと寿命だ。


 すると途端に眠くなった。

 少年は魔女に抱きかかえられたまま寝てしまった。




     *




 それからというもの、少年は魔女と二人この城で暮らしている。数か月たってわかったのは、魔女が世話焼きなこと。


 この赤いマントも、彼女が少年の身長に合わせて一から織ってくれた。魔法を使わずに機織り機を使ったのだから驚きだ。彼女いわく、身に着ける物は魔法でない方がいいらしい。なにか不便があるわけではないけど、彼女なりのポリシーのようなものだとか。


 数か月のあいだに不思議なことが起きた。少年の傷があとかたもなく消えていったのだ。魔女はどうしてだろうねと首を傾げるばかりで、真相を教えてはくれなかった。


「聞いているかい?」

「え」

「何を見ていたのかと尋ねたのだけど」

「……朝焼けを、見てました」

「そうか。──たしかに綺麗だね。君がいなかったら、私はこの景色を知らずに生きていったのだろう」


 魔女はくるりと少年へふりむいた。


「しかし、私のいるベッドを抜け出していくとはどういう了見りょうけんかな? おかげで起きてしまったのだけど」

「あの、それは……ごめんなさい」


 少年は魔女と一緒に寝ている。この城にはベッドが一つしかないのだ。地下に行けばいいと少年は思ったのだが、魔女がそれを許してくれなかった。それというのも、


「言っただろう。君はもっと私に甘えるべきだ。これまでの薄幸に対する清算をしなければいけない」

「でも、その」


 恥ずかしくて、とはいえず、少年は口ごもる。おそらく魔女にはお見通しで。まったく、と腰に手を当てた彼女はどこか嬉しそうだった。


 魔女のほうこそ少年を溺愛しているようだった。

 無口な少年がたまに見せる不器用な微笑みが、数百年の孤独をじわりと溶かして埋めていくのだ。少し前に彼女はそう語ったことがある。


 魔女は少年を責めることをやめ、世界を見下ろした。少年も再び朝の世界を望んだ。この塔からなら、あの村もよく見える。






 ──すでに人の死に絶えた村が。






 少年はわかっていた。


 魔女はたぶん、少年の役目ではなく本心を優先したのだ。あのとき願った魔女の傍にいたいという思いを。彼女の傍で幸福な日々を送りたいという想いを。


 いったい誰が少年のことを責められよう?

 死ねと罵られながら生きて来た少年のことを。


 少年自身は村に対してどこか物悲しい気持ちになることもあったが、魔女から与えられる優しさはそのすべてを塗りつぶしていった。共に食事を摂り、森を散歩し、本を読む毎日。幸福の日々。あるいは美しい彼女との交わり。全身がほどけるような快楽──。少年は幸せだった。


 とすると、疑問が残る。


「あの」

「うん?」

「あのとき抜き取られた寿命は、なんの対価になったんですか?」


 魔女の形のいい唇が愉快そうに笑む。


「はて。私が君の寿命を抜き取ったことなどあっただろうか」

「えっ。じゃあ──」


 さ、と魔女はいった。


「もう昨日は去った。今日の幸せを呑みくだそう。まずは朝食からだよ」

「あのっ、魔女様?」


 塔の螺旋らせん階段に向かう彼女はぴたりと止まって、ふりむいた。


「ああ、そうそう、そういえば」


 エメラルドの瞳を直視してしまった少年は、今度こそ魔女にすべてを奪われた。心も、体も、魂も。すべては彼女のモノだ。それでいいと思った。与えられる幸福に比べたらどれも安いものばかりだ。


 魔女はいった。


「君のなら、今も書斎の机の中さ」






 塔の中にはいまも魔女と少年がいる。

 止まった時間の中、永遠の幸福に溺れている。

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塔の魔女、少年の幸福 ミドリ @Midri10

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