The Color of The Fruit Is Red of Blood

彼方灯火

第1章 開幕は印象的に

 ただひたすらに山の中。


 僕とリィルは歩いていた。リィルという単語を初めて耳にした人は、それが何なのか分からないだろう。「僕」という人を表す単語と並列して記されているのだから、それが人か、あるいはもう少し抽象度を高めて、動物であることは分かると思うが、その動物の性別がどちらなのか、また僕とどういう関係なのかということについては、想像で補うほかにはない。


 リィルというのは、釣りをするときに用いるあれでも、クリスマスツリーに巻きつけるあれでもない(それはモールか、そうでなければリースだ)。リィルという単語は、ここでは僕のパートナーを示す。パートナー……。パートナーという単語に、世間の人々はどのようなイメージを持っているのだろう。少なくとも僕にとっては、その単語には付き添い人くらいのイメージしかない。もう少し強固な関係を想像する人もいるかもしれないが、生憎と僕の想像力は、そこまで豊かなものではないみたいだった。


 とはいっても、その想像力を活用する仕事をしているのだから、そんな呑気なことは言っていられない。今日までなんとか食い繋いでくることができたが、僕に乏しい想像力しかないことがばれてしまえば、明日からどうなるか分かったものではない。だから、人前ではそれなりに優れた振りをするようにしている。この優れた振りをするという行為が、実のところ僕にとっては苦痛でしかなかった。


「川遊び、したいよね」


 僕が考え事をしながら歩いていると、すぐ隣からリィルの高くも低くもない声が聞こえてきた。ちなみに、彼女はおそらく女性だ。おそらくという言葉を付けたのには理由があるが、このままの表現でリィルに確認したら、きっと彼女は怒って帰ってしまうだろう。


「川なんてあるの?」僕は歩きながら応える。


「いや、知らないけど」


 リィルは澄ました顔でそう言うと、上を見たまま歩き続ける。彼女は長距離を歩いても全然疲れない。僕にはそれほど優れた体力はないから、先ほど少し休憩を挟んだのだが、それでも息はすでに上がっていた。


「川に入ってさ、こう、竿を持って釣りをしている人って、なかなか様になっていて、格好いいよね」


 僕は少しだけ視線を横に向けて、彼女の独り言に付き合うことにする。


「格好良いって、どんなところが?」


「うーん、帽子とか?」


「それは、その人が格好いいんじゃなくて、その帽子が格好いいんじゃないの?」僕は笑いながら話す。


「いやいや、うーん、まあそうかもしれないけど、その帽子の格好よさが滲み出て、その人まで格好よく見えるってことだよ」


「じゃあ、帽子をとったら格好よくないかもしれないね」


「そんなの、当たり前じゃん」リィルは若干声を高めて話す。「素っ裸でも格好いい人なんて、いないし」


 そういうリィルは、たしかに、今日もなかなか歪な格好をしていた。簡単にいえばレンジャーのような格好だ。レンジャーといっても、休日の朝にテレビでよく目にするあれのことではない。森林を警備する人たちとでもいえば良いだろうか。彼女の頭には厚手のベレー帽が被さっており、その側面には何の種類かは分からない鳥の羽が付いている。上着として肋骨の下辺りまでしかないジャケットを羽織り、下には足首の辺りまでしかないズボンを履いていた。靴は革靴。すべて、一般的とはいえないアイテムといわざるをえない。


 ちなみに今はもう春だから、その格好では少し着すぎな感じもしないでもないが、山の中は思っていた以上に寒かったので、彼女の格好は正解かもしれなかった。一方で僕はというと、これがなんと厚手のコートを羽織っている。いつもは準備不足の僕だが、今回は充分な準備をすることができたみたいだ。しかし、それでもまだ寒く、快適な環境を自分の身体とともに持ち運ぶには不足だった。


「私ね、一度、こういうところでキャンプをしてみたいんだ」リィルが話し出す。「なんかさ、いいよね、そういうの。川で釣ってきた魚を炭火で焼いてさ、それで、レモンを絞って塩をかけて……。食事が終わったら、キャンプファイアーをやりながら花火もやって、終わり次第露天風呂に入って……」


「うん、どれも、君には不要のイベントだね」


「不要?」リィルは僕を睨みつける。「不要って、どういう意味?」


「君は食事をしないから、釣りも魚を炭火で焼く必要もないし、落ち着きがないから、キャンプファイアーも花火もできそうにないってこと」


「失礼じゃない?」そう言って、リィルは僕の腕を思いきり引ったくる。「君さあ、私のこと、誤解しているでしょ」


「誤解?」僕は首を傾げる。「むしろ、よく理解しているから、そういうことが言えるんだと思うけど……」


「最低、最悪」


「うん」


「もういいよ。帰れば?」


「いいね、僕も、帰りたいよ」


 山道はまだまだ続いている。途中で何度か方向転換したが、それは、右に曲がって上昇したあと、今度は左に曲がって上昇したようなものだから、少しずつ上に上っているだけで、実質方向が変わっているわけではなかった。


 僕たちは、これから仕事に行くところだ。仕事といっても、毎日こんな山道を歩いているわけではないし、この先に僕の勤務場所があるのでもない。僕の職業は翻訳家だが、定まった仕事をしているわけではなく、はっきりいって、依頼を受けたら飛んでいくような日雇い人だった。今回の場合は、依頼主に指定されたのがたまたまこんな山奥だったというわけだ。


 明確に仕事として依頼をこなすのは僕だけで、リィルは単なる僕の補助といった方が正しい。そういう意味では、彼女はたしかに僕にとっての「パートナー」だといえる。僕がメインの仕事をしている間、彼女には別のことをしてもらうことが多い。多いというよりも、大半といった方が正しいか。前回の仕事では子どもの世話なんかもしてもらったから、彼女は僕以上に便利屋的な傾向があるといえる。


 そんなリィルだが、彼女には隠された秘密がある。


 というのも、彼女は人間ではないのだ。ウッドクロックと呼ばれる人工生命体で、かつては人間と離れて生活をしていた(らしい)。彼女に食事が必要ないというのも、こうした特徴が関係している。そして、実際には僕も彼女と同等の存在なのだが、リィルほど奇抜な性質があるわけではなかった。


「あああ、なんか、もう、人生も終極って感じだよね……」


 暫くの間ずっと黙っていたが、リィルがまた独り言のように言葉を漏らした。先ほどは機嫌を損ねてしまったみたいだが、少し回復したみたいなので、良い機会だと思って僕は彼女の話に付き合うことにした。


「終極って……。何が、君にそう感じさせるわけ?」


「毎月、決まった額のお金が貰えないところとか」


 彼女の返答を聞いて、僕は噎せ返えりそうになった。そして、実際にそのあと少し噎せた。喉に黄粉を詰めているわけではないが、それと同様の感覚が喉もとに伝わってきた。


「そんなこと言われてもね……」僕は応じる。「それなら、君も何か仕事を始めたらいいじゃないか。今のところ、僕だけでも普通に生活する分は賄えているから、これ以上稼ぐ必要はないと思うけど……。うん、まあ、でも、女性の社会進出なんかも、随分前からだけど話題にされているから、そういうのも強ち間違えてはいないと思うよ」


「私はさあ、普通の生活じゃなくて、お洒落な生活がしたいの」


「お洒落って? お城に住むとか?」


 冗談で言ったつもりだったが、リィルはうんうんと激しく首を上下に動かした。


「そうそう。分かってるじゃん」彼女は説明する。「せっかく生きているんだから、それくらいぱっとしていないとつまらないよ。毎日天蓋のついたベッドで目を覚まして、それから、紅茶を一杯、ベランダで朝日を浴びながら啜って……」


「いや、だから、君に飲み物の有無なんて関係ないだろう?」


「いいじゃん、理想を言っているだけなんだからさあ」先ほどよりもさらに目を細めて、リィルは僕を睨む。「君さ、ホント風情ってものを分かってないよね」


「うん、そう」


「で、午後はプールサイドでのんびり雑誌を読んで、夜は広間でダンスをして……」


「一人でダンスをするっていうのも、なかなかシュールだよね」


「君と踊るんだって」リィルは駄々っ子のように声を荒らげる。


「嫌だよ、そんなの」僕は言った。「踊って、何になるの?」


「素敵なお嫁さんと一緒に踊れるのが、そんなに不満?」


「いや、不満じゃないけど……。……躍ったところで、何にもならないし……」


「何にもならないって、何?」リィルは大きな声を出す。


「いやいや、そんなにむきにならなくてもいいじゃないか」僕は笑いながら彼女を諭す。「理想の話をしているのに、そんなにリアルに怒らなくても……」


「もういいよ」リィルは劇的に肩を落とした。「……ほかの人、探そう……」


「何か言った?」


「何も」


 下層にいたからなのか、先ほどまではずっと暗い森の中が続いていたが、木漏れ日が差し込み、徐々に周囲が明るくなってきた。ようやく春の暖かさを感じられるようになった感じだ。山道はまだ続いているが、そろそろ頂上に到着しても良い頃だった。


 さらに十分くらい歩き続けた頃、リィルが突然立ち止まった。


「どうしたの?」


 僕も立ち止まり、彼女の傍に近寄る。


「蛙」


「え? 帰る? 本当に?」


「違う! 蛙!」


 彼女が指差した方を見ると、たしかに蛙が一匹地面を這っていた。斑模様の不気味な感じの蛙だ。如何にもな感じではないが、ごつごつとした肌が却ってリアリティを出しているように見える。


 リィルはその蛙へと近寄り、しゃがみ込むと、平気な顔でそれを掌に載せた。そのまま僕の方を振り返り、にっこりと笑う。


「どう? 凄いでしょう?」


「え、何が?」


「蛙」


「うん」


「凄くない?」


「え?」


 さすがにそろそろ着くかと思っていたが、それから二十分ほど歩き続けても、まったく頂上には至らなかった。いや、頂上らしい雰囲気は感じられるのだが、雰囲気だけで、実際に頂上に辿り着くことはない。まるで蜃気楼のように、そちらに近づくほど気配だけは濃密になり、実体は遠ざかっていくばかりだ。


 さすがに何かおかしいと思って、僕は立ち止まって携帯端末を取り出した。こんな山奥だと電波が届かないのではないかと思ったが、そんなことはなく、多少弱いものの通信することができた。


 地図を起動して現在位置を確認したところで、僕は脚の力が抜けそうになった。途中で方向を間違えていたらしく、三キロメートルほど戻らなくてはならないことが判明したからだ。その旨をリィルに伝えると、彼女は頰を膨らませて言った。


「ほら、だから、お城に住むべきなんだよ」


 何を言っても状況は変わらないので、僕とリィルは素直に道を引き返すことにする。といっても、下り坂なので、先ほどと比べれば負荷は大きくない。ただ、ここまでずっと歩き続けてきたから、そろそろ足が限界に近づいているのは確かだった。


「あのさ……。もし、僕がもう歩けそうになくなったら、その……、君に担いでもらってもいいかな?」


 僕の言葉を聞いて、隣を歩いていたリィルはこちらを向く。


「まあ、いいよ、それくらいなら」


「え、本当に?」


 リィルはなんともないような顔で頷く。


「うん……。そんなの、大したことないし」


「いや、僕さ、リュックも背負っているんだけど……」


「だから?」


「重いよ、結構」


「うん、そうだね」


「あそう。……まあ、いいや。いざとなったら、本当に頼むかも……」


 リィルは再び頷く。


 僕とリィルの会話は、いつもこんな感じだ。噛み合っていないというか、冗談が冗談として通じないことが多いというか……。


 しかしながら、それはそれだけ関係が安定しているということでもある。リィルとの間に沈黙が続いても、それで僕が不安を感じることはない。それはきっと、僕が彼女に一定の信頼を抱いているということだ。


 少し前に出現した分かれ道まで戻ってきて、僕たちはもう一方の道を先へと進んだ。わざわざ分かりやすいように看板が出ているのに、それを見落としてしまったのは、明らかに僕のミスでしかない。なんというのか、いつも通りの僕で、リィルも特に呆れているわけではなさそうだった。


 この辺りに生えている木々は、葉がかなり厚い。それだけ年数が経っているということなのだろうが、それにしても丈夫な葉ばかりだ。これを使って、カレーでも食べろということかもしれない。


 暫く進むと、丸太を組み合わせて作られた階段が現れた。明らかに人の手によって作られたもので、先ほど間違えて進んでしまった道とは雰囲気が異なる。少し進むと階段は手摺りを伴ったしっかりとしたものになり、そのさらに先には板材でできた橋のような道が続いていた。


「なんか、わくわくしてきたかも」


 木でできた道を歩きながら、リィルが呟いた。


「僕は、もうへとへとだけどね」


「リュック、持とうか?」


 断りたいところだったが、僕はかなり疲れていたので、彼女の言葉に甘えさせてもらうことにした。


 リュックをリィルに渡し、一度立ち止まる。


 道の左右は開けていて、眼下には麓まで連なる道が見えた。道はじぐざぐにずっと下まで続いており、今は誰も歩いていない。日の光が少ないが故に下に向かうほど暗く、ここから道の端を見ることはできなかった。もっとも、そこから上がってきたわけだから、山の麓がどうなっているのか僕たちは知っている。麓には小ぢんまりとしたバスロータリーがあり、その一帯には小規模な店舗が何件か軒を連ねていた。


「気持ちのいい所だね、ここ」


 リィルの言葉を聞いて、僕は頷く。


「こんな所で、ピクニックがしたい」


「今、しているじゃないか」


「それはハイキングじゃん」


「ピクニックと、ハイキングって、何が違うの?」気になって、僕は彼女に尋ねてみた。


「お弁当があるか、ないかじゃないの?」


「君さ、さっきから飲食に関することしか言っていないよ」


「だって、そうじゃん」


「何が?」


「山といったら、美味しい食べ物でしょう?」


 道の先には再び階段が続いていたが、それは数段で終わり、やがて前方に光が見えた。階段を最後まで上りきり、僕たちは開けた場所に出る。


 山を抜けた先には広場があった。それもかなり広い。頂上といっても、山のそのままの形を維持しているわけではなく、人工的に削って、表面積を広くしているみたいだった。


 山の頂上には変わりはないが、景色はほとんど見えない。周囲は立ち並ぶ木々に囲まれ、頭の上には空が広がるだけだ。太陽の日に照らされているここは、山の中よりも明らかに暖かかった。リィルの格好では暑く感じられるかもしれない。


 広場は二段構造になっている。手前と奥でスペースが二分されており、その間は緩やかな傾斜で繋がれている。


 手前の広場は文字通り広場という感じで、右手に木製のちょっとした舞台がある以外には、これといって目立つものはなかった。舞台はすべて木材で作られており、楽器を設置してバンドが演奏できるくらいの広さはある。実際にそうした使われ方をするのかもしれない。陰に隠れていて見えなかったが、舞台の隣にはベンチが二脚設置されていた。


 真っ直ぐ進んで傾斜を上がると、そちらは二段目の広場だ。立ち止まって後ろを振り返ると、下よりも比較的景色がよく見えた。山の麓まで見下ろすことはできないが、並び立つ木々の群れがどこまでも続いている様が窺える。


 僕たちはそのまま方向転換し、もう一度正面に顔を向けた。


 そこには巨大な建物がある。


 それが、今回依頼主に指定された目的地だった。


「こんな所に建っている美術館って、なんだか素敵だよね」リィルが呟いた。


 僕は顔を上に向けたまま、思いついた感想を口にする。


「まあ、でも、芸術ってそういうものだよ、きっと」


 リィルは僕を見る。


「どういう意味?」


「いや、そのままの意味だけど……。……きっと、常人には理解できない理論が、そこにあるんだ。ただの思いつきじゃないってことだよ。きとんと説明できる理屈があって、それに基づいて芸術家たちは働いているんだ」


 リィルは僕を見つめる。


「なんか、分かったような台詞だけど」


「僕って、どちらかというと芸術家の素質があるだろう?」


「そうなの?」


「え、そう思わない?」僕は少し下を向く。「……違うのかな……」


 今回僕たちが仕事をするのは、この巨大な美術館だ。山の頂上に建っていると聞いたときは断ろうかとも思ったが、ほかに依頼がなかったため、生活のために了承せざるをえなかった(それはさすがにオーバーだが)。


 建物はいたってシンプルな構造をしており、正面に階段があり、それを上ると建物の入り口へと至る。一階は十時方向に突出したブロックが全部で四つで構成されていて、二階は後方に二つと手前に一つの三つ、そして三階には一つのブロックがある。これを見てシンプルだと感じるかは個人差があるだろうが、少なくとも僕はシンプルな建物だと思った。古民家なんかよりはずっとシンプルだろう。


 建物は白く、所々に窓があるから、見ようと思えばスペースシャトルのようにも見えなくはない。三階のブロックの上にはアンテナが立っており、宇宙と交信していると言われても、あまり驚かないような気がした。たしかに、美術館というイメージは抱きにくいかもしれないが、美術館を代表する絶対的なイメージというものはないから、まあ、これはこれで良いだろうということで納得しておく。


 美術館に入る前に、僕とリィルは建物の周囲を散策した。建物はそれなりに大きいから、外周を回るとなるとすぐにとはいかない。建物の裏側に小さな公園があり、そこには展望スペースがあった。展望台と呼べるほど立派なものではないが、双眼鏡が設置されていて、遠くの方を観察できるようになっている。この頂上で唯一遠景を眺めることができる場所だったので、僕とリィルはその公園に入り、暫く休憩することにした。


「あああ、疲れた……」普段はあまりないことだが、僕は自分の状態を素直に口にした。そのまま傍にあるベンチへと腰を下ろす。「予定していたより多く歩いたから、もう、明日の分まで体力を消費してしまったよ」


「お疲れ様」リィルは無表情のまま呟く。


 僕はリィルに持ってもらっていたリュックを受け取り、中から水筒を取り出した。水筒の中身はホットコーヒーだったが、運動したせいか、暖かい液体でも充分に喉を潤してくれた。


 仕事の依頼先には、いつも衣類を持っていっている僕たちだったが、今回は今着ているものを除いて、何一つとして用意してこなかった。美術館の方で用意してくれるとのことだったからだ。というのも、美術館では制服を身に着ける必要があるらしい。おそらく、美術品を保護するという意味もあるのだろう。着替えが不要だったので、僕たちの荷物は一つのリュックにすべて収めることができた。


 風が吹いてくる。


 腕時計で時刻を確認すると、午後三時だった。一般的におやつの時間と言われている時刻だ。


「暖かいね」


 気が抜けたような顔をして、リィルが声を漏らした。


 そんな彼女の横顔を僕は黙って見つめる。


「何?」


 こちらを向いたリィルに、僕は言った。


「振り返ると思った」


「振り返ってほしくて、見ていたんじゃないの?」


「それもある」僕は頷き、コーヒーを口に含む。


 リィルは再び正面に顔を戻す。


 ここの空気は、幾分乾燥しているみたいだった。周囲に木々があるのだから、その分水気を感じられても良いくらいだが、現実はその逆で、吹き抜ける風は僕たちの肌から水分を奪っていくようだ。実際にそんなことは起こらないのだろうが、空気が硬質な感触を伴っているのは確かだった。


「今回は、何をするの?」


 リィルに問われ、僕は彼女を見る。彼女は僕の方を見ようとしない。ずっと前を向いている。


「いつもと変わらないよ」僕は答えた。「でも、少し特殊だ」


 今回依頼されたのは、この美術館に新しく運び込まれる作品の、説明文を翻訳する作業だった。運び込まれる作品は出身地が様々だから、展示する際には文章の言語を統一しなければならない。余談だが、この美術館は世界的に有名なものではないらしい。それどころか、国内でも知名度はあまり高くなく、あくまでローカルな人々が訪れる場所のようだ。


 作品に付随する説明には、作者の生没年や制作年、その他の概要などが記されている。作者がまだ生存している場合は、その作者に対するインタビューなどが記されているが、作者がすでに亡くなっている場合は、その作品に関する研究の結果分かったことが記されている。


「まあ、たしかに、いつもと変わらないといえば、変わらないね」


 僕の説明を聞いて、リィルはうんうんと頷いた。真面目な顔をしているが、動作は馬鹿げているというギャップが、僕には堪らない。


「というかさ、むしろ今までの依頼よりも簡単じゃない?」


「え、そうかな?」僕は首を傾げる。


「うん……。なんか、今までは企業とか特定の個人とか、重要度の高いところからの依頼だったけど、今回は、なんていうのか、その……、作品を相手にする作業なんでしょう? だから、思い悩む必要もないし、いつもより気軽にできるんじゃないの?」


「まあ、たしかにそうだけど……。……でも、作品には人の思いが込められているだろう?」


「そんなの、分からないじゃん」


「え?」


 リィルの一刀両断な意見を聞いて、僕は沈黙する。


 リィルは少しだけ僕を見て、口を開く。


「君さ、いつも考えすぎなんだよ。大切にしようと思えば、何でも大切にできるに決まっているじゃん。たまには自分に優しくしたら? もう、疲れているの、見え見えだよ。色々なことにいちいち本気になっていたら、老後まで体力が保たないって」


「いや、全然疲れてはいないけど」僕は応える。


「さっき、疲れたって言ってたじゃん」


「それは身体の話だろう? 精神に関しては、今日も準備万端、安心安全の禅問答だよ」


 コーヒーの入った水筒をリュックに仕舞い、僕は立ち上がる。


「まあ、いいさ。どうかしてしまったら、君に頼るしかないから……。当てにしているよ、今回も」


「今まで、当てにされたことなんてないけど」


 リィルは溜め息を吐くと、今度は立ち上がって拍手をし始めた。


「何に対する拍手?」


 僕の問いを聞いて、リィルはこちらを見て真顔で答える。


「物語が始まったみたいだから、華やかにする意味を込めて、拍手」


 彼女に背を向けて、僕は歩き出した。


「物語って、そんな大層なものじゃないよ。どうせ、今回もささっと終わって、ちゃちゃっと家に帰ることになるんだろう」


「蛙は、もういないんだけど」


「それ、いつまで引き摺るつもり?」


 リィルは欠伸をしながら呟く。


「今まで、ささっと終わったことなんてないよ」


 僕は彼女が来るのを待つ。


 彼女が追いついてから、僕は少し笑って言った。


「じゃあ、どどっと終わらせて、ばばっと家に帰ろう」

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