第7章 設定は意識的に
ガザエルの提案から、僕たちは毎晩それぞれ考察を述べることになった。考察というのは、例の林檎が描かれた絵画に対する考察だ。その作品に関することなら何でも良いが、とにかく何らかの考えを述べなくてはならない。それがガザエルの趣味なのか、それとも単に仕事のリフレッシュのつもりなのかは分からないが、僕たちは彼の言う謎解き紛いのことをしなくてはならなくなった。
発表者は僕とウルスとボォダの三人だ。僕とリィルは二人で一人として扱われたが、ウルスとボォダには協力者はいない。この点について二人は特に何も抗議しなかった。ボォダは状況を一番よく分かっていないが故に、そこまで興味があるわけではないみたいだったし、ウルスは僕たち以上に優れた思考力を持っているだろうから、そもそも協力者は必要ないのかもしれなかった。言い出したガザエル本人はなぜか発表者には含まれていない。彼は僕たちの考察を聞くだけで満足のようだ。
昨日の晩にそんなことを決め、明日から一人ずつ考察を述べていくことになった。最初の発表者はボォダだ。ウルスはもう少し考えを纏める時間が欲しいとのことだったし、ボォダ本人は何でも良いというスタンスだったので、自然にそのような形に収まった。
「うーん、どうしようかなあ……」昨日の取り決め以来、リィルはいつになく真剣だ。仕事もそのくらい真剣に取り組んでほしいと言ったが、彼女にはそういうことは都合良く聞き流す能力が備わっているみたいだった。「闇雲に考えても仕方がないし……」
今日と明日で絵画の作業を終わらせなくてはならないから、僕はペースを落とすことはできなかった。とはいっても、全体的に作業は昨日よりも順調で、ガザエルに詳細を調べてもらった絵画も含めて、説明の翻訳はかなり進んでいた。
「考えていたって、何も思い浮かばないよ。閃きというものは、考えないときにこそやって来るんだから」
僕がタイピングをしながらそんなことを言うと、リィルは久し振りにこちらを向いた。
「でもさでもさ、何か思いつかないかなって考えるからこそ、そういう閃きを得られるわけでしょう?」
「自分から考えようとしなくても、頭の片隅に入れておくだけでいいんだよ」
「よくないでしょう、全然」
「仕事をしながら考える必要があるんだから、普通はそんなふうに積極的に考えることはできないはずだよね」
「私が、仕事をしていないっていうの?」
「まあ、要約すれば」
リィルは溜め息を吐いて立ち上がり、僕の方に近寄ってきた。
「何をすればいい?」
「え?」僕は顔を上げて彼女を見る。「だから、絵画の観察……」
「だからそんなのもう飽きたんだって」リィルは少し声を荒げる。「何回同じこと言わせるわけ?」
「君が観察して分かったことを、僕に伝えてくれないと意味がないよ」僕は諭すように話す。「そうそう、そうやってほかの作品を観察していれば、今君が興味を抱いている例の絵のことも分かるようになるかもしれないじゃないか。目が肥えてくるってことだよ。自然と芸術家の視点から作品を見ることができるようになるってこと」
「……本当に?」
「まあ、成果は人によると思うけど……。……やらないよりは、やった方がいいんじゃないかな」
僕がそう言うと、リィルは黙ってドアの向こうに消えた。直接的な利益があると分かると行動を始めるのは、リィルの行動パターンの一つだ。まあ、それは多かれ少なかれ誰にでも見られる心理だろう。好きな人と一緒にいたいと思うのも、その人の傍にいて自分が楽しい気持ちになれるからにほかならない。楽しいと思うのは自分だから、それは自分の利益になる。愛はその逆だが、恋愛というものはそうした有益・無益の取り引きから始まる。
僕が今翻訳しているのは、ローマの日常風景を描いた絵の説明だった。英語の意味をそのまま読み取ると、それは十二月七日の午後十二時五十八分のローマの市街を描いたもので、噴水を中心にして、奥に向かって店舗が軒を連ねている様子が窺える。人の数はそれなりに多いが、店と人が重なっていても、それが何の店か分かるように工夫がされていた。
リィルにあんなことを言っておきながら、僕も仕事をしながらあの絵の考察をしていた。動機の割合としては、個人的な興味が二割、ガザエルに要求されたことが八割だ。どちらかというと、僕は他人に何かを頼まれると断れない質だ。素直に嫌だといえないし、頼まれたというだけでモチベーションが上がるような気さえする。結局は他人に認められたいという気持ちが根底にあるのだろうが、できるなら、僕はそうした動機は持たない方が良いと考えていた。自分でも持たないように努力はしているが、やはりそう上手くはいかない。完全になくしたいと思っているわけではないし、できるだけというスタンスで取り組んでいるが、もう少し主体的に行動できれば良いとはいつも思っていた。
コーヒーに使うお湯が切れたから、僕はポットを持って部屋の外に出る。展示ブロックではリィルが絵画を広げて眺めていた。
「勉強しているね」
僕は通りがけに声をかける。
リィルは腕を組んだまま頷いた。
水は食堂で貰える。水道が完備されているわけではないが、そこにはいつも水が入った別のポットが置かれていて、自由に使って良いことになっていた。数時間おきに中身が交換されるから、新鮮でない水がいつまでも置かれていることはない。
再びブロックに戻ってきたところで、僕はリィルに呼び止められた。
「なんでさ、林檎じゃないといけなかったのかな?」
唐突に吹っかけられた質問を受けて、僕はその場で立ち止まって考える。
「なんでと言われても……」僕は上を向いた。「……うん、たしかに、それは考えていなかったな」
「林檎の赤と、血の赤をかけているってことだよね? でも、林檎じゃなくても赤いものは沢山あるし……」
「僕は作者じゃないから分からないけど……」僕は考えながら話す。「……その人にとっては、赤いものといえば林檎だったんじゃないかな。それに、林檎って案外ぱっと思いつくものだよ。算数の問題にも必ずといっていいほど登場するだろう? 芸術に使うモチーフとしてもそれなりの地位を築いていると思う。だから、作者は思いついたまま採用したんじゃないかな」
僕の意見を聞いて、リィルは再び唸り出した。
リィルと会話を交わしたことで、僕はあることに気がついた。それを彼女に伝えても良かったが、まだ考えが纏まっていないので今はやめておくことにした。実際に皆の前で発表するのは僕だし(発表といっても、プレゼンテーションと呼べるほどしっかりしたものではないだろうが)、きちんと考えを纏めてからでないと彼女には伝わりにくいだろう。
部屋に入る。ドアを閉めてポットを台座に置き、スイッチを入れてお湯を沸かす。
仕事を再開する前に、今気づいたことを再検討してみることにした。椅子には座らずに立ったまま腕を組み、じっと床の一点を見つめる。座っているよりも立っている方が僕の頭は活性化する。それは僕が認知している数少ない僕自身の能力の一つだ。
リィルはなぜ林檎にしたのかを考えているみたいだったが、僕はその問いに対する答えはないだろうと思った。なぜという問いを立てることは大事だが、大抵の場合そのまま求めている答えをストレートに導くことはできない。むしろその答えを求める過程で、別の発見をすることが多い。今の僕もそんなふうに道を逸れたことになる。
検討してみたところ、説明の要素の一つとして使えそうなことが分かった。それをもとに理論を構築することはできそうだ。その気づきをどうやって効果的に使うかが問題になるが、それを考えるとなるとある程度時間がかかるので、今はやめておいた。使える要素が一つ増えただけで良しとすることにする。
お湯が沸き、僕はインスタントコーヒーを飲んだ。普通に美味しくて、インスタントでないコーヒーとの違いは分からなかった。
その後も作業を続け、今日は全部で六枚分の翻訳をすることができた。昨日の分と合わせて十四枚になるから、明日二枚を終わらせれば絵画の作業は完了する。見直しの時間も充分にとれそうだったから、今日は一先ず安心することができた。
話し合いの結果、今日は僕が先に風呂に入ることになった。美術館の制服に関しては、一人につき二枚が与えられており、洗濯はここのスタッフがやってくれる。
山道を下って風呂場に到着すると、早い時間にも関わらず先客がいた。一昨日一緒にここまで来たボォダが、今日は僕よりも早く来ていた。
「どうですか、調子は」
湯船に浸かり、僕はボォダに尋ねる。
「それは、仕事のこと? それとも、あの……、絵に関する考察?」
「どっちもです」
「うん、まあ……」ボォダは顔を逸らした。「……どっちも、まあまあというとこかな」
ボォダによると、考察の方はもうだいたい纏まったとのことだった。もともとやる気がないし、こんなもので良いだろうと思えるくらいのクオリティだとのことだ。発表は明日の晩だから、まだ一日以上時間が残されていることになるが、余計なプレッシャーがかかって仕事に支障を来さないように、早めに終わらせたとのことだった。
「意外と繊細なんですね」
失礼だと思ったが、僕は思ったことを素直に口にした。
「いや、そうでもないよ」特に気分を害したわけではなさそうな口調で、ボォダは答える。「面倒なことは、やりたくないんだ。やりたくないことは、先に終わらせるようにしているだけ。そうやって、面倒事を先回しにして、あとでやりたいことだけをずっとやろうって魂胆ってわけ」
「なるほど」
「君はどっち?」
「先回しにするか、後回しにするかですか?」
ボォダは頷く。
「どうでしょう……」僕は考える。「やりたくないことを、自分で多くしてしまうタイプとでも言えばいいでしょうか……」
風呂から出て部屋に戻ると、リィルが椅子の上に立っていた。
「何をしているの?」
彼女は僕の質問には答えずに、そのまま天井に向かってジャンプをする。木材を組み合わせて作られた椅子が妙な音を立てて軋み、勢いをつけて触れられた天井からはぱらぱらと埃のようなものが降ってきた。
何度がそのわけの分からない行動を繰り返したあと、リィルは最後に空中で位置をずらして床の上に着地した。
「何がしたいのかな?」
僕が何度声をかけても、リィルは返事をしなかった。やがて、彼女はそのまま部屋から出ていった。タオルを持っていたから、風呂に向かったのだろう。
その後、入浴を済ませたリィルと食堂へと向かい、僕たちはその日の夕飯を食べた。
そして、翌日。
昨日と同じ席に着いていた僕たちは、いよいよボォダの考察を聞くことになった。
この場で状況を楽しんでいるように見えるのは、ガザエルとウルスの二人くらいだ。当のボォダは澄ました顔をしているし、僕とリィルはそもそもデフォルトが無表情に近いから、前述の愉快そうな二人だけがムードメーカーとして機能しているといえる。
ボォダはリィルの隣に座っていた。食事が半分ほど進み、仕事の進捗などを報告し合ったあと、ガザエルがボォダに考察を述べるように促した。
「まあ、じゃあ、話そうかな」
そう言いながら、ボォダはフォークでアスパラガスを刺す。それを咀嚼して食べ終えてから、彼はフォークを軽く振りながら話し始めた。
僕の結論は、いたってシンプルなものだよ。結論というか、なんというか、うーん、まあ、要するに、あの絵を見て何を思ったのか、何を考えたのかについて、話せばいいわけだよね。
うん、僕が直感的に思って、それで、それを検討して出した答えは、あの絵を描いた人は余程の皮肉屋だったってこと。これが、僕の考察であって、結論。 ……自分でも、大したものじゃないことは分かっているけど、でもね、そうだな……。うーん、僕はもともとこの件には興味がないから、そういう頭で一生懸命考えて結論を導き出した……。そういうつもりで聞いてほしいんだ。
絵のメインとして描かれているのは青い林檎なのに、タイトルにあるのは”Red of Blood”……。つまり、林檎の色は血の赤だと言いたいんだよね。これって、芸術家がとる典型的な手法だと思うんだ。シニカルとでもいえばいいのかな。僕は芸術にはあまり詳しくないから、よくは分からないんだけど、要するに、言っていることと逆のことをやろうって試みだよね。タイトルを先につけたのか、それとも、絵を先に描いたのかは分からないけど、まあ、いずれにせよ、先行したのとは逆のことをしようと思ったわけだ。青い林檎の絵を描いて、それから血の赤というタイトルをつけたか、それとも、血の赤というタイトルをつけてから、青い林檎の絵を描いたってことだね。
さて、それじゃあ、そういう矛盾した状況……、タイトルと実物で矛盾することをやろうと思ったのは、どうしてなのか、それについて考えてることになるわけだけど、これについては、僕はあまり良いアイデアは思いつかなかった。一番最初に考えたのは、さっきも言ったけど、その人が根っからの皮肉屋だってことだ。そういう作品ばかり作っていた……。シニカルな絵を描くことが、その人のアイデンティティの表現であり、オリジナリティだったんだ。こういう人は、決して少なくはないから、考えとして間違えではないよね。うん……。僕も、どちらかというとそういうタイプだと思う。というか、こういうことを自分で言うのは気が引けるけど、ある程度の教養がある人には、そういう傾向が見られると思うんだ。教養があるが故に、色々なものを疑う癖がついて、それがシニカルなことを言うようになったとか……。
まあ、以上が僕の考察のあらましなんだけど……。……最後に、一つだけ捕捉しておこうと思う。
それは、あの絵のメインが本当に林檎なのかということ。絵の中心に青い林檎が描かれているんだから、まあ、普通に考えれば、絵自体のメインは林檎で、そこに目が引かれるように設計されているということになるんだろうけど、タイトルと絵で一つと考えた場合は、必ずしもそういう解釈だけとは限らないよね。僕が一番気になったのは、うん、そう、タイトルにある”The Fruit”ってところだ。この”The Fruit”っていうのは、本当に林檎のことを指しているのかなと思ったんだけど……。……うん、僕には、これ以上考える体力はなかったよ。だから、僕の考察はこれでお仕舞い。
……何か訊きたいことはあるかな?
一通り説明を終え、ボォダが聴衆に問いかけると、まず最初に手を挙げたのはウルスだった。彼女は天井に届くかという勢いで真っ直ぐ腕を伸ばす。
ボォダは飄々とした挙動で彼女に掌を向けた。
「お話はよく分かりました。確認したいのですが、つまりボォダさんは、作者は意図的にそうしたタイトルをつけた、もしくは絵を描いたと考えられているということでいいですか?」
「うん、まあ、そうだね」ウルスの質問を受け、ボォダは頷く。「皮肉屋だっていうのが考察の主軸だったわけだから……。意識的にじゃないと、皮肉なんて言えないよね」
ボォダの返答を聞いて、ウルスは満足そうに頷いた。
「ありがとうございます」
ボォダの話を聞いて色々と思うところはあったが、僕は特に質問したいことはなかった。正面に座るリィルにも目配せしてみたが、彼女も黙って首を振った。
「ブラボー」右手の上座に座るガザエルが、小規模な拍手をした。「なるほど。なかなかに面白い考察でしたね……。うん……。私も同じようなことは思いついたんですが……。それを上手く纏めてくれたという感じでしょうか」
「お二人の意見は、僕のとは、大分違う?」
ボォダは僕とウルスに尋ねる。
「私は、ボォダさんの考察に通じるものがあります」ウルスが即座に答えた。「しかし、まだお話しするわけにはいきません。楽しみにしていて下さい」
「分かった。じゃあ、期待しているよ」ウルスの答えを聞いて、ボォダは少し笑った。「……もっとも僕は、あまり興味はないんだけどね……。なんか、一人だけ浅はかな考えで、申し訳ないよ」
次の発表者はウルスだが、彼女は明後日の夜に担当することになっている。すべてガザエルが決めたことだが、誰も反対する者はいなかった。
「それにしても、いいものですな。こんなふうに、集まった人々と意見交換をするというのは……」生ハムのサラダを食べながら、ガザエルが話した。ボォダが話している間は誰も食べ物を口にしていなかったが、発表が終わると全員が食事を再開した。「……テーマ設定は、なんというのか、たしかに物足りたい感じもしなくはないが……。まあ、いいでしょう。面白ければ、それで……。皆さんは楽しめていますか?」
「とても楽しいです」ガザエルに問われて、僕はどう答えようかと迷ったが、ウルスの的確な返事がそれをカバーしてくれた。「それに、非常にためになっています。このような機会を設けて頂いて光栄です」
ウルスの返事を聞いてガザエルは笑う。
「それは大袈裟すぎると思うが……。まあ、せっかく集まったんだ。宴くらいスペシャルにやりましょう」
夕食が終わると、僕たちはそれぞれ食堂から去った。普通なら部屋に戻るが、僕はすぐにウルスのあとを追うことにした。リィルには先に部屋に戻るように伝えておいた。彼女は特についてくるつもりはないようで、部屋に戻って考察を進めたいと話していた。食事の場では大人しくしていたが、彼女もこの話題に興味を持っているのだ。
彼女の部屋があるブロックで、僕はウルスに追いついた。ちょうど部屋に入ろうとしていたところを呼び止めると、彼女はこちらを振り返って応じてくれた。
「ボォダさんの発表、面白かったですね」
ウルスは笑顔だったが、僕にはそれが作られたものに見えた。作られたといっても、隠したい感情があるわけではないだろうが、社交辞令的な意味が強いように思えたのだ。
「ええ……」僕は適当に相槌を打つ。
「何か御用ですか?」ウルスは無表情に戻って僕に尋ねた。
「えっと……。貴女に訊きたいことがあるんです」
「それは分かります。そうでなければ、デートのお誘いかと期待してしまうところです」
「え?」
「どうぞ、続けて下さい」
「ええ……。えっと……」言葉を選ぼうとしたが、僕は結局訊きたいことをストレートに質問することしかできなかった。「……貴女があの林檎を拾ったことを知っている人は、僕とリィルのほかに誰がいますか?」
僕とリィルを除けば、残りはガザエルとボォダしかいないことになる。今日の晩を迎えるまで、僕はガザエルとボォダがそれを知っていると思っていたのだが、どうも違うみたいだと思って、ウルスに聞いてみることにしたのだ。
「お二人のほかには、誰も知りません」ウルスは端的に答えた。
僕は少し声を落として、ウルスに再度尋ねる。
「……なぜですか?」
「なぜとはどういう意味ですか?」ウルスは小首を傾げて僕を見つめ返す。「伝える必要がないと判断したから、伝えなかっただけです。それに、お二人にお伝えしたときに、その時間に行くのはやめた方がいいと助言を頂きましたから……。伝える機会が失われてしまったのです」
ウルスの返答を聞いて、僕は少し恐怖を感じた。それが何に対する恐怖かは分からない。ただ、目の前に立つ少女が怖いと感じたのだ。
「……それでは、アンフェアではありませんか?」
僕の言葉を聞いて、ウルスはさらに首の角度を大きくする。
「アンフェア?」
「いえ……」
僕は言葉に詰まる。言いたいことや訊きたいことは沢山あったが、どれも喉に閊えて実際に口から出てくることはなかった。それを言ってはいけないと誰かに口を封じられているように、僕は何も言えなかったのだ。
「何かに、気づいたのね」
ウルスの言葉を聞いて、僕は下を向いていた顔を上げる。
「貴方には……」ウルスは綺麗な声で言った。「……絶対的な直感を得ても、それをそのまま信じられない、そんな傾向があるのではありませんか? 非論理的な直感を、論理的な思考によって排除しようとしてしまう。それが貴方の特徴なのではありませんか?」
「……何を言っているんですか?」
僕は尋ねたが、ウルスは答えてくれなかった。おやすみなさいと言って、そのままドアの向こうに消えてしまった。
その場に佇んだまま、暫くの間僕は閉ざされたドアを眺める。
何をしたら良いのか分からなくて、思考がフリーズしてしまったみたいだった。いや、それは逆だろう。思考がフリーズしてしまったから、何をしたら良いのか分からなくなったのだ。
身体は正面を向いたまま、なぜか足だけ後ろに向かって動き出す。
それを見ていたかのように、目の前のドアが唐突に開く。
驚いたが、身体は動かず、僕は声を出すことができなかった。
「戸惑わせてしまったのなら、謝ります」
再び姿を現したウルスが、僕に向かって言った。
「貴方を驚かせるつもりはなかったんです」彼女は笑顔を浮かべている。しかし、それは先ほどのように挑戦的なものではなく、酷く柔和で、どこか母性的な暖かさを含んだ笑顔だった。眉が少しだけ垂れ下がり、困ったような顔をしている。「ただ……。ええ、ごめんなさい。少しだけ楽しかったんです。……私は貴方の敵ではありません。それだけは覚えておいて下さい」
依然として声は出なかったが、僕はどうにか頷くことができた。
ウルスの黒い髪が揺れる。適度に伸びた繊細な錦糸が、周囲に色彩を撒くように振る舞う。
ウルスはドアを閉め、今度こそ僕の前から姿を消した。
身体に力が入らなかったが、僕はどうにかドアに背を向けることができた。
自分の部屋に向かって歩き出す。
足が床から離れるような感じがした。
感覚が世界から乖離してしまうような気がする。
こんな状態になるのは初めてではなかった。
けれど、最近はあまり経験していなかったことだ。
僕は……。
僕は今、何について考えているのだろう?
自分の腕に付いているはずの手首が、どこか遠くの方にあるように見えた。焦点が定まらず、眼球を固定する術を忘れてしまったように、ピントは呆け続け景色は流動する。
何かを思いついたと思った。
そう思ったことに今気がついたと、そう思った。
僕はどうしてここに来たのだろう?
何をするために来たのだろう?
そこに理由はない。
求めてはいけない。
しかし、求めなくてはならないのかもしれない。
ウルスが言っていたことを思い出す。
自分の直感を信じずに、それを思考によって隠蔽しようとしてきた……?
何のために?
僕がそういうふうにプログラムされているからか?
誰が僕をそういうふうにプログラムしたのか?
僕は……。
部屋に戻った僕を、リィルが満面の笑みで迎え入れた。腕を掴み、窓際へと連れていく。リィルの腕が胴体に絡みつき、彼女の小さな顔が僕の首の下に潜り込んだ。
「……どうかした?」
リィルは自分の首を動かして、僕の顔を見上げる。
「いや……」
僕はなんとか声を出す。
数時間摂取していなかったために禁断症状が表れたのだと思って、僕はとりあえずインスタントコーヒーを飲むことにした。
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