004:青空の地に住む者たち

夢を見ていた。

それは本当に懐かしく、心の中にしまい込んでいる大切な記憶。


幼いアーサーは迎えを待っている。

皇帝家のカントリーハウスであるレディ・リズ・ハウスの裏には、庭師の手が届いていない自然なままの花畑があった。

そこには、珍しい色の花が咲いていて、アーサーは今日自分を迎えに来る誰かの為にその花で小さな花束を作ることにした。

張り切っていた。だから朝からここで待っていた。

気づけば、太陽は位置を大きく変え、幼い自分の目線にまで身を屈んで来ていた。

さあ、もう諦めて戻りましょうとオレンジ色の光に言われているような気がした。

アーサーは、何度も何度も近くの小さな水の流れる小川とを往復していた。

作った花束が萎れてしまわないよう、何度も、何度も水につけに行った。

諦めなさいと告げてくる夕日から逃げるようにしてまた小川へと走る。

しかし、足がもつれてしまい、地面に倒れるようにして転ぶ。

せっかく今まで手にしていた綺麗な花束が地面にばら撒かれ、自分の倒れた体に押しつぶされて台無しになってしまったのが目に入ってきた。

じわりと涙がにじむ。ごめんなさいと、ずっと一緒に待ってくれていた花たちを土に埋める。

元の場所に戻り、また花を摘んで花束を作る。

―――でも、もし本当に迎えがこなかったら?

ふと、小さな頭にその考えが浮かんでしまった。その可能性を、ついに認めてしまった。

ぽたりと涙が落ちる。その落ちた雫を見て、急いで目をぬぐう。

ダメだボクは、セスの子は泣いちゃダメなんだ…。

皆に心配をかけちゃだめだ。ボクが泣いてたら、きっとウェイバーは困ってしまう。

…でも。

止めようとすれば、涙はもっと落ちてきた。いやだ、だれもきてくれないなんて、いやだ。怖い。悲しい。寂しい。

幼いながらも、必死で声を抑えた。ボクは泣いてはいけない。

両手の袖で涙を押し止める。落ちてこないでと、自分の涙へ口にしてお願いする。

ようやく涙が引っ込んだ。大きく息を吸って、涙が零れないようにゆっくりと慎重に息を吐く。

あ。だめだ。また…。

その時、誰かが呼ぶ声が聞こえた。「アーサー」と。

声のする方を見る。夕日を背に、誰かがこちらにやってくる。あれは…。

あぁ。嘘だ。本当に?でも、確かにあの姿は、間違えたりするもんか。だっていつも一緒にいる大切な人じゃないか。

幼いアーサーの目から涙の雨が落ち、代わりにその顔に笑顔が咲いた。両手を伸ばし、そしてその名前を呼ぶ。

やっと、来てくれた。ボクが待ちわびた人。


「ハウエル…!」



◆◆◆◆◆


自分の声に目が覚めた。

気づいた時にはすでに目は開いていたのだが、頭が冴えるのにはもう少しだけ時間が必要だった。

ぱち、ぱち、もう一つぱち、と瞬きを繰り返して、さっきまでの景色と香りが夢であったとようやく理解した。

でもあれ、ここはどこだ?

目の前には見知らぬ天井。しかもなんだか薄暗くて目の間に迫っているかのように錯覚してしまうほどに近い、つまり低い天井。

つり下がっているのは籠と、すこししおれた花束と。

意識がさらにはっきりしてくる。なんだか体が痛い気がする。

それになんだか、手が擽ったい。少し湿った何かが手を這っているような…。音がする。ふがふが。うん?これはなんだ?

疑問しか浮かばぬ脳内に、せめてその右手の違和感の原因を見せて知らせてやろうと、アーサーは自分の右手の中の違和感をそっと握ってみた。


「ぎゅびぃ」


聞いたこともないような音が響き、右手のそれは急いでアーサーの手から逃れていった。

目を向けると、ピンクの塊が不思議な音を立てながら自分の元を離れていくのが見えた。

なんだ。あれは。


「あら。目が覚めたのね」


誰か、知らない女性の声が聞こえた。

そこに居たのは、緑色の髪の物腰が柔らかそうな美しい女性だった。

湯気の立つカップを二つ持ち、彼女はにこりと微笑んで近づいてくる。


「体は痛くない?痣はどこにも見当たらなかったけど…。はい、カモミールミルクティー。きっと落ち着けると思うわ」


差し出されたカップに手を伸ばす。受け取ったカップから花の香りと蜂蜜の匂いが馥郁とした。

じんと手のひらに伝わる温もりに、思わずほっとする。


「えっと…お名前を伺ってもよろしいかな。レディ」


アーサーの問いかけに、彼女はきょとんとした。が、すぐ後に嬉しそうに微笑んだ。何か変な事を尋ねてしまっただろうか?


「私はライラ。でも皆にはリラと呼ばれているわ」

「あたたかいミルクをありがとうリラ。いただくよ」


アーサーはカップに口づけ、温かいその飲み物を飲む。

こくんとアーサーの喉が動くのをじっと見つめ、リラは隣の小さな古い木の椅子に腰を下ろした。

アーサーは飲んだ飲み物の優しい味に驚く。初めて飲んだので馴染みのない味ではあったが、まろやかな優しい味をしていて、その味にホッとさせられた。


「まあ。さすが世界の皇子様って感じね。でも、言葉はとっても紳士だけど、知らない人からの飲み物を疑いなく、ぐーっと飲みこんじゃっても大丈夫なのかしら?」


不思議そうに、感心したかのようにリラはアーサーを見つめながらそう尋ねてきた。

カップの中身を飲んでしまったアーサーはハッとしてカップを見つめる。

恐る恐るリラのほうを見る。飲んでしまったがどうすればよいのだろう。と助けを求めるかのようなアーサーの困った表情に、リラは思わず吹き出してしまった。


「大丈夫よ。このミルクティーには麻痺薬は入ってないし、ましてや毒なんてそんなものは入ってないわ」


そう言って彼女は、アーサーの手からカップを取り返し、自分もごくんと飲んで見せた。

ね?と優しく笑って、リラはまたアーサーの手にカップを戻した。

アーサーはほっと肩を落として、もう一度その香り高い甘いミルクティーを飲んだ。


「うん。麻痺薬も完全に抜けきったみたいでよかったわ。川に落ちた時の怪我もなさそうだし」


さらりとそう言ったリラの言葉に、アーサーの手が止まった。

目が覚める前までの記憶が一気にフラッシュバックしてきた。

待て。なぜ彼女はそれらを知っているのだ。


「森に入る前でよかったわね。あの“白い森”はきちんとした抜け道を通らないと、“黒い森”のほうに迷い込んでしまうから…。あぁでも、初めての異国の旅に胸を躍らせていたんだもの。アーサーなら、きっとそうなっても楽しめたんじゃないかしら」

「…リラ。君はなぜ私の全てを知っているのだ?」


祖国への帰還中に飲んだ冷たい水に痺れ薬を入れられた事も、森に入る前に飲んだというタイミングの話も、そしてアーサーが密かに胸に秘めていた異国の旅路への強い関心の事も彼女は知っている。

その事に驚愕したアーサーの、驚いた表情を見つめて、リラは悪戯を楽しむかのように笑った。


「わかるわよ。だって私は魔女だから」


薄い桃色の唇に、白くて長い人差し指をそっと寄せて、リラはそう言った。

その台詞は、あまりにも不意を突くものだった。

冗談でも自分を魔女なんかという人間なんて、そんな人は一人としていないだろう。

だが、彼女は楽し気にそう言って笑っている。

アーサーはわけもわからず、ぽかんと彼女を見つめた。


「あはは。なんてね」


からっと笑い、リラは立ち上がってアーサーが座っているベッドの向こう側にある窓のカーテンに手をかけて一気に開け放った。

薄いカーテンで遮られていた光が部屋に雪崩れ込むようにして入り、部屋の中を明るく照らした。

その美しい眩しさに、アーサーは思わず少しだけ目を細める。

明るさに目が慣れはじめた時、アーサーは窓の外に広がる景色に目を大きく開いた。

そこにあるのは、青。

どこまでも広がる、美しい空の景色。遠くにまで広がる草原の緑。

その窓の下方をのぞき込むと、そこには清らかな小川があった。


「ここはね、貴方が落ちちゃった川の少し下にある私の小屋。気を失った貴方を抱えて、ファーティゲルマ人のハウエルっていう男の人がここへやってきたのよ」

「もしや、そのハウエルという男は黒髪で長身の男のことか?」

「えぇ。貴方の護衛をしてるハウエルよ。ハウエルが貴方の看病を私に頼んできてね。その時に貴方の事を色々と聞かせてもらったの」


だからリラは私の事を良く知っていたのか、とアーサーは納得した。

納得してから、そして少し心が躍った。

ハウエルが居てくれているというだけで、アーサーは心の底から安心するのだ。


「ハウエルは今どこに…?」

「ハウエルなら、森の入口付近に戻って様子を見てくるって言っていたわ。貴方が目を覚ます頃には戻ってくるって」


なら、そろそろハウエルはここへやってくるだろう。

ホッと肩を下ろし、アーサーは手の中のカップを指の腹でなぞった。

リラが、飲み干した後のカップを受け取ろうと手を伸ばした時、どこからか遠くで犬の鳴き声がした。

その声を耳にしたリラは、あら。と声を漏らして部屋の入口の扉の方に視線を向けた。


「リラー!来たよー!」


扉の向こうから、扉を叩く音と小さな子供の声が聞こえてきた。

リラはアーサーのそばから立ち上がり、扉に近づいてノブに手をかけた。

扉の向こうに立っていたのは、大きな帽子を被った少年と、その後ろで大きく尻尾を振っている黄金色の大型犬だった。


「いらっしゃいルカ。早かったわね」

「うん!レーヴェと走ってきたから」


明るい少年の声の後、犬はアーサーのほうをみてひとつオンッと吠えた。

背後の犬の鳴き声に、少年はリラの向こう側をのぞき込む。

ベッドの上のアーサーはきょとんとしてその様子を見ていた。ばちんと少年と目が合う。


「あれ?見かけない顔だ」


そう言って少年はリラの脇を抜けて、アーサーに近づいてきた。

じっとアーサーを見上げ、少年はにんまりと笑顔をこぼした。


「おねーさん、とってもきれいだね。ボクはルカ!おねーさんは?」

「…オネーサン?」

「ルカ。“彼”はアーサー。お姉さんじゃなくて、お兄さんよ」

「へえ!アーサーって言うんだ!ねぇねぇアーサーはどこからきたの?」


ルカと名乗る少年は、アーサーが座っているベッドに乗りあがり、のぞき込むようにしてアーサーの瞳を見つめてきた。

初めて会うアーサーに興味深々のようで、その熱量の高い眼差しにアーサーは思わず少しだけ仰け反ってしまった。


「わ、私はファーティゲルマから…」

「えー!ファーティゲルマ!じゃあアーサーはファーティゲルマ人なんだね!ねぇねぇ!どうしてスぺルビアに来たの?何しに来たの?好きな食べ物は?」


抑えきれない好奇心の嵐、もとい質問の嵐にアーサーはたじたじになる。

ど、どれから答えればよいのだろうか。


「ルカー。かぼちゃ持って帰るー?」

「うんー!持っていくー!」


扉の近くに立っていたリラがルカの気をそらしてくれた。

ぴょんと軽やかにベッドから降りて、ルカはアーサーに手を差し出した。


「アーサー、起きられる?」

「あ、あぁ」


アーサーは自分の太ももの上の毛布を捲り、足をベッドの外に出した。

リラがその場で宛がってくれた、少しサイズの大きいシャツとパンツとブーツに身を包んでアーサーは小屋の外へと出た。







▷▷▷つづく


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Hello,World!-愛を謳う世界より- しげまつ @shige_matsun

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