003:帰国の途中で

まるで奇跡みたいな話じゃないか。

誰かがそう言っている声が耳に届いた。

歩んでいた足を止めてそちらを見やると、そこにはファーティゲルマへの帰国の準備をする兵士たちがそう話しているのが見えた。

戦いで使うことのなかった剣をもう一度拭き上げ、次の戦いのために支度をする彼らは、急いでファーティゲルマへ戻る必要があった。

祖国へ一度戻ってすぐ、彼らは北の大陸クラブレへの遠征が控えているのだ。

実のところ、今回の戦いよりもずっと激戦になることが予想されている戦への遠征だ。


「アーサー様自らファラー候へ話をつけにいったんだと。おかげで戦いなくして終わったってわけだ」

「それにしても向こう見ずな行動をされたのではなかろうか?セスの子で在られるとはいえ、もし命に危険が迫ることがあれば大変な事になっていたぞ。是非とも命を大事になさってほしいものだ」

「なぁに、肝の据わった長ではないか。それに、全ては「いかなる時も、愛をもって人を導け」の賢者様の御意志を体現するが為の行為であったと聞いているぞ」

「それは本当か。なるほど、殿下は陛下と同じく、我々のために良い統治をなさろうとしてくださっておるのだな」

「ファーティゲルマは…いや、世界は更に平安へと向かうだろう」


自分たちの大将の期待値が高いことに、兵士たちは非常に喜んでいるようだった。

それもそうだろう。兵士たちにとって長というのは、自分達の命を左右する立場となる存在だ。

新しい自分たちの指揮官であるアーサー皇太子が、いくらセスの子の皇太子であったとしても、無能であれば今後の期待が薄れてしまう。下手をすれば、見込みが無くなるのだ。

兵士たちは、やはり少なからず不安を感じていたのだろう。

幸いにも、今回のアーサーの采配は兵士たちに希望を与えるものとなったようだ。


(勝てさえすれば、どんな采配だろうが“名将”に仕立て上げられるだけのこと…)


兵士たちを見つめていたその男は、心の中で毒付くと小さく舌打ちをしてその場を後にした。

周りの人間が分かるほどの不機嫌なオーラを出しながら歩いていく男を横目に、別の兵士たちが耳打ちしていた。


「おい見ろよ。リンフォードの息子が歩いてるぜ」

「やめろ。ハウエル様は無関係とされているだろ?上のヤツに聞かれたら、粛清されるぞ」


兵士たちは男———ハウエルを横目で見つめる。


ハウエル・リンフォード。

鴉のように黒い髪を持ち、あまりにも鋭い翠色の光を放つ瞳を持った彼は、アーサー皇太子の護衛役。

生まれながらにしてアーサーたち皇族家と親密な関係を持っていた前大臣の一人息子である。

彼は、いつも誰もを近づけさせないオーラを出していた。

それに人々は努めて彼に近づこうとすることもないだろう。いつも遠目に彼を見つめるだけなのだ。

ハウエルは足を進める。

どうせ、自分がそこにいても周りの人間に気を遣わせるだけで、なにも生まれやしない。

それに、実際ハウエルは不機嫌だったのだ。

ファーティゲルマの兵士たちの、セスの子であるアーサーたちへの崇拝にも似た歪んだ信頼。

そして、噂のアーサーが現在、ファラー候の処遇をエルヴィナにゆだねるために彼を生かして連れ帰ろうとしてる事実に対してだ。

ファラー候はエルヴィナに対して酷く不敬な言動をとった人間だ。

そんなファラー候の粛清をすぐに行わず、さらには彼の要求を受けて共にファーティゲルマに安全な警備の元連れ帰るだと…。

アーサーの決定を思い出すだけで腹が立つ。

それはあまりにも…———。


◆◆◆


「あまりにも寛容すぎるのではありませんか?」


その怒りを含んだ声色に、アーサーは後ろを振り返った。

アーサーと共にいた参謀のカーライン、軍隊長他多くの者たちも何事かとそちらを見やった。

そこにいたのはハウエルではない。

だが、ハウエルと同じく今回のアーサーの采配が腑に落ちない様子の男が一人。


「彼は…?」


アーサーはそっと軍隊長に尋ねる。

軍隊長はぐっとかがんで、アーサーに小声で返答した。


「ファラー候の長男ガイ殿でございます。」

「父は!」


酷く興奮した様子であったが、理性で抑えているのか、彼―――ガイは顔を上げないままアーサーに向かって大声で訴えた。

「我が父ファラー侯爵は、セスの子で在られる我らが皇帝エルヴィナ様へ只ならぬ無礼を働きました。更には、罪もない多くの兵士たちを虐殺し、その罪状は極めて重いものとされるべき男です。それなのに陛下は父を生かし、よもやファーティゲルマへ連れて行き、彼の望みであるエルヴィナ様との対談を承諾するとは、あまりにも甘い過ぎるのではありませんか?」

「貴様、言葉を慎め!誰に口を利いておるのか分かっているのか!」

「まぁまぁ」


そう苦く笑いながらも、アーサーは場をおさめた。

ガイはずっと頭を下にさげている。ふむ、とアーサーは困ったように頬を掻き、ガイに近づく。


「ではガイ。貴公はどのような結末を望んでいたのだろうか?」

「……父の、死による償いです」

「そう。それならやはり、その決定をくだすのは私ではなく姉上だ」


優しい声色だったが、ぴしゃりと言い放ったアーサーの言葉に、ガイは顔を上げた。

皇太子の瞳が見える。その色はどこまでも広がる“空”だった。


「私はあくまでもこの戦いにおける皇帝エルヴィナの代理役でしかない。ファラー候のこの度の言動の裁断は私が下すのではなくエルヴィナ皇が下すべき事。私にはその権利がないからね」

「…」

「それに、どうやらファラー候には姉上に申し上げたい事柄があるようだ。それが通らなかった故に起きた悲劇だったとも言っていたから、それは是非とも姉上に伝えてもらわなければね」


殿下。と、アーサーの後ろから軍隊長が声をかけた。

アーサーにはまだ、急いで済まさねばならない事があるのだ。

失礼。とアーサーはガイに一言伝え、踵を返して軍の司令部の者たちの元へ向かう。

ぎりぃ、と。ガイは周りにも聞こえるほどの歯ぎしりを鳴り響かせ、握りしめた拳を床に突き立てながらアーサーに更に問う。


「ではなぜ貴方自身が伝令として乗り込み、父を救ったのですか!」


怒りに満ちた目でこちらを睨むかのようなガイの表情に、アーサーは少し驚いたが、物怖じすることなく答えを返した。


「武力行使で解決したとすれば姉上の名に傷がつくだろう?それに出来れば誰も死んでほしくなかったから

ね」

「、」

「私は姉上の名を、最高の形で歴史に残したいのだ。その為に出来る事なら、何でもするつもりだよ」


その言葉に、そこにいた人間はほぅと感嘆していた。

姉を思う弟の純粋な愛は、怒り狂っていたファラー候、そして彼に仕える者たちを救うこととなった事を知ったからだ。

幼けない少年であるアーサー皇太子の、聡明な采配の事を兵士たちはまた噂することだろう。

アーサーは軍の司令部の者たちと共にその場を去った。

その場に跪き、床に拳を突き立てたままのガイ。

誰も居なくなった屋敷の廊下にただ一人残る彼の拳が、小さく震えているのに気づく者は居なかった。



◆◆◆◆◆



アーサーがスぺルビアを発つ時が来た。

出発の朝。涼し気な風が木々を揺らす。

真っ青に晴れ渡った午前の空の下、ファラー候の屋敷の者たちはファーティゲルマへと帰国するアーサーたちを見送る為に外へ出ていた。

皆に見守られながらアーサーは愛馬に乗り、その場に居るファラー候の従者たちを見下ろした。


「世話になったね」

「いいえ殿下。お世話になったのは私どものほうでございます。…しかし、本当にこの少人数でご帰還なさるおつもりなのですか?」


そう不安そうな表情を浮かべたファラー候の従者の一人は、アーサーの後ろで帰還の準備を整えている者たちを不安そうにのぞき込むようにして見つめる。

そこに居るのは、共に祖国ファーティゲルマを発った幾万もの軍隊の者たちではなく、その軍隊の中の小隊第5番隊に配属されている数十名の兵士たちと、アーサーの護衛役であるハウエル。そして布に視界を遮られた檻を繋いだ馬車に乗った男たちのみであった。

アーサーも従者の目の先を追い、頼りになる長旅の仲間たちを見て大丈夫だよ。と笑った。


「この人数なら目立たないからね。何より、彼らはファーティゲルマ軍の中でも精鋭部隊と評価されている者たちだから大丈夫だよ」

「そうですか…。では、どうかくれぐれもお気をつけてご帰還なされてくださいますようお祈りいたしております」

「うんありがとう。諸君らもどうぞご達者で」


馬の下でファラー候の従者たちがアーサーを見上げ、再び礼を口にする。

ひらりと手を振り笑いかけ、アーサーは自分と共に祖国に帰る者たちのほうを見やった。


「皆も、もう出発しても構わないだろうか?」

「えぇ勿論。殿下の道中の護衛、我ら五番隊が命を懸けても務めさせていただきますぞ」

「頼もしいなぁ」


そう言ってアーサーは、祖国まで護衛を担ってくれるファーティゲルマ軍の小隊の者たちを見回した。

安心して自分の身を預けられるこれらの男たちと共に、今から祖国への長い旅路を歩むのだ。

それにしても、アーサーたちがなぜ数日前に先に祖国へと発った大勢の軍の者たちと共に戻らず、少人数で帰還することとなったのか。

それは、アーサーの護衛役であるハウエルによるとある一言がきっかけだった。


『エルヴィナ様に恥をかかせるつもりか』


鋭く空気が震えるように、部屋にその声が響いた。

まだファーティゲルマ軍の全員がにファラー候の屋敷に留まっていた数日前の事だ。

軍司令部の者たちとの話し合いを終え、明日の朝にここへやってきた全ての兵士たちと共にこの国を後にすることになっていた。

長く緻密な話し合いを終えて、ようやく一息つけると一人紅茶を飲んでいたアーサーの元に、護衛役のハウエルがやってきた。

アーサーは、先程決定した日程を記した紙をハウエルに手渡し、大まかな決定事項を説明した。説明を聞きながら、ハウエルの表情が見るからに不機嫌になっていくのに少し恐れを感じながら。

そしてついに、さっきの言葉をずばりと、なんともナイフを突き刺すかのように遠慮なしに受けたのだった。

その声にアーサーの体がびくんと小さく跳ねたが、すぐに落ち着きを取り戻した様子でハウエルの次の言葉を待った。


「ファラー候は、今回の事があったとは云えスぺルビア侯国の諸侯。諸侯の座が開いたのなら、また次の諸侯を据えなければならない。だが、お前もわかっただろう。この国はあまりにも不明な点や曖昧なところが多すぎる。遠く祖国におられるエルヴィナ様にこの何もかにも不安定な国を丸投げするつもりなのか?」

「そんなつもりでは…」

「そのつもりは無かったですませられる事ではないだろう。お前が本当にエルヴィナ様の事を思うのなら、この国の現状をお前自身がある程度知ってエルヴィナ様に伝える事がお前の義務じゃないのか?」

「…うん、そうだな…。確かに、私がやらねばならぬことだ…」


下を向き、紅茶カップの淵をゆっくり指でなぞりながらだんだん小さくなる声を絞り出して、アーサーは苦く笑った。

ハウエルの言う事はもっともだ。


この世界は、セスの子が統制することが定められている。

しかしながら、賢者によって命じられているとはいえセスの子も所詮人間である。

故に、二つの眼。一つの肉体では全ての大地を見通し、治めることは至極困難であることは、きっと非常に多くの元たちに理解してもらえるだろう。

よってセスの子は、各地に“諸侯”を配属し、彼らに代わりに“目”となってもらう事で世界中を統べる事が出来ていた。

しかし、セスの子が承認した諸侯が何か悪行を犯したというのであれば、基本的にはその粛清はセスの子の指令の元に行われる。セスの子である皇帝は代わりの諸侯を選び、その国に配属させなければならない。


今回、スぺルビア侯国の諸侯として任命されていたファラー候は、セスの子への暴言冒涜。さらに多くの兵士たちの命を奪ったなどの度を越した大罪の故にその立場を外される事となるだろう。

とすれば、おそらくこのスぺルビアの地には新たな諸侯が配属されることになる。

先程、自身の父の処遇を申し立てていたファラー候の子息であるガイが引き継ぐやもしれない。

いずれにせよ、次にスぺルビアを統べる諸侯を任命するのはエルヴィナの役目である。

世界を担ったセスの後継人としての権威。それを所持する世界の皇帝であるからだ。


しかし、世界中を統制する世界皇帝で在られる姉上は多忙の身。

それを誰よりも理解しているはずなのは私自身だったではないか。


ましてや、アーサーでさえあまり知らなかったこの遠い異国の地の必要や状況を姉上が把握できているのだろうか。

正直なところ、ここまで小さな侯国を常に把握できるような余裕は姉上にはない。

ならばハウエルの言う通り、少しでも姉上のこれからの労力を軽減するために、私がこの国の状況を出来る限り把握しておくのはとても良いことだろう。


「4日もあれば、この規模の諸侯国の現状はある程度把握できるはずだ。そこまで大きな領域でもない」

「ハウエルは…ハウエルは、私と共に残ってくれるのか?」


少しだけ不安そうな表情で、アーサーはハウエルに尋ねる。

本当は彼の軍服の裾を握って縋り願いたい気持ちを抑え、ただハウエルが自分と一緒に居てくれる事を強く望みながら、彼の意向を尋ねる。

本当の気持ちを口にできないアーサーの視線から、ハウエルは避けるようにして目をそらし、ため息を吐いた。


「…仕方ないだろう。俺を含め、小隊を一つスぺルビアに残して後はファーティゲルマへ返すのが無難だろうな。お前がそう決めたなら、さっさとカーライン卿に伝えろ。お前の居ない軍隊を連れて戻る指揮を代わりに努めるのは彼になるだろうからな」


その言葉を聞いて、アーサーはほっと胸をなでおろした。

例え大勢の軍隊と別行動になるとしても、ハウエルが傍に居てくれるなら安心できるからだ。



「すまないハウエル。ありがとう」

「…」


礼をいうアーサーに見向きもせず、ハウエルは部屋を出ていった。

ハウエルの背中が見えなくなるまで見つめ続けていたアーサーは俯き、少しの間目を閉じた。

ぐっと唇を嚙みしめて、自分の胸をゆっくりと撫でつける。

数秒だけ目を閉じ、ハウエルに言われた通りの事をカーラインに説明する言葉を頭の中で整理し、目を開けて立ち上がった。

すでに、軍隊は私と共に祖国に帰る為の準備に取り掛かっている。

急いでこの変更を説明し、彼らに安心感を与えなければ…。




そんなわけで、アーサーはカーラインに事情を説明し、姉上に説明と詫びと挨拶をしたためた手紙を手渡して先に祖国へと帰還してもらった。

カーラインは当初、この変更に対して反対していたが、アーサー自身の願いの強さやこれからの姉上の為にどうしても必要な決定であること。そして自分の護衛役であるハウエルが必ず傍にいて護ってくれることを説得し、頭を下げたことで渋々了承してくれたのだ。

本当なら、全軍隊がアーサーと共に数日残るという事が一番良いのだろうが、軍隊は次の激戦への遠征の為、どうしても急いで祖国へと戻らなくてはならないのだ。

カーラインはアーサーの為に、精鋭ぞろいの小隊第五小隊の幾人かと、十一番隊の全員を残してくれた。彼らはカーラインの“とっておき”の兵士たちなのだ。


そんな彼らと共に、ついにファラー候の屋敷を出発する。

世話になったファラー候の従者たちに別れを告げ、アーサーはファーティゲルマへの長い道を歩き出した。


「快適な天候で、本当に良かった」

「えぇ誠に。何も無い大草原だからなのか、ここから見える空は広く、非常に青く見える気がいたします」

「うん、とても大きな青い空だ。空気が綺麗だからなのだろうなぁ」


アーサーの白馬の前で馬を並走する第五番隊の隊長であるヨークは、楽し気なアーサーの言葉に大きく頷いてくれた。

この数日間、アーサーはファラー候の屋敷の中に箱詰め状態であることが続いて居た。

ファラー候の屋敷に留まり、ファラー候がファーティゲルマの姉の政体に報告していた報告書や従者たちからの話からとにかくこの土地の情報を収集してまとめていたのだ。

本当ならば、ファラー候が治めていた領域内にある数少ない町や村などに向かい、そこの住人たちの意見を直接耳にすべきだっただろう。

しかし、カーラインや他の者たちに町へ降りる事を断固として許可してもらえなかった。

ここは呪いの大陸スぺルビア。そしてそんな場所にわざわざ住んでいる人々の中には、かつて国を追われたことでセスの子に逆恨みしている人間もいる。との事だった。

もしセスの子であるアーサーが、彼らに近づき危険な目に遭うようなことがあっては、生きた心地がしないのでお止めください。と、ファラー候の従者たちにも地に伏せられながら頼み込まれてしまったのだ。

実のところアーサーとしては単純に外国の地に足を踏み入れ、そこに住む人々と関わってみたいという個人的な憧れがあったのでそれを実現できるチャンスなのではないか。と軽い気持ちで頼んでみただけなのだが、そこまでして必死に懇願されてしまっては、あまりの申し訳なさに、黙って屋敷に留まり皆が持ってきてくれる情報や書類などと向き合うことしかできなかった。

時々、休憩がてらに窓の外から見えるスぺルビアの雄大な大自然を見つめては、祖国とは違いただ地平線までに広がる雄大な草原や谷を颯爽と駆け出している秋風を羨ましく感じていた。

そして今日、ついにその焦がれていたあの草原の上に立つことが出来ている。

草花を揺らしていた秋風を自らの肌に感じながら、込み上げてくる嬉しさに思わず笑顔がこぼれてしまった。

こんなに爽やかで心が洗われるような風を、これまでにアーサーは感じたことはなかった。


「こんなに綺麗な風の吹く大陸が、呪われているとは到底思えないのになあ…」


ぽつりと、言葉が唇からこぼれていた。

口に出すつもりはなかった言葉だったが、その言葉を耳にしたヨークは少しの間口を閉じ、そしてにっこりと笑顔を作ってアーサーのほうに振り向いた。


「確かにとても雄大な自然であります。さあ、先に行った11番隊の者が待っております。待ち合わせの場所へ急ぎましょう」


ヨークの言葉に、先に帰路の安全を確認しに行ってくれた11番小隊の事を思い出し、アーサーは素直に頷いた。



◆◆◆◆◆


先に偵察をしに行った11番隊と合流する場所にやってきた。

そこは、この地に大きく跨る美しい川に掛かる水車の傍にある橋だった。

橋を渡ったところに、11番隊の者たちが集まっており、アーサーたちを出迎えた。

アーサー、ハウエル、5番隊の数名、そして白い布に覆われた檻を乗せた馬車が、不安定ながらもしっかりとした橋を渡り、ついにこの帰路の同行者たちがすべてそろった。


「ディアシェヴの人間が行く先の付近に野営を張っているとの情報が入りました。当初予定していた帰路の道順を変更すべきだと思われます」

「ディアシェヴ人は危険だ…。それが妥当だな」


11番隊の報告を聞き、ヨークは予定していた道順を変更する必要があることをアーサーに伝えた。

アーサーは了承し、一行は新たに帰路を決めるために、一度その場で休憩をとる事にした。

11番隊の半数の者は再び道を見極めるために先に進んでいく。

アーサーの後ろに居たハウエルは、彼らと共に道を見てくると言って、馬を走らせて彼らの後を追った。

残ったのは11番隊の残りの者と、5番隊のメンバーと、アーサー。

5番隊のメンバーの者が馬に括り付けていた大きな革袋を下ろし、残ったメンバーに水を振舞ってくれた。

アーサーにも、水の入った器を用意し、毒見をして安全を確かめてからアーサーに差し出した。


「ファラー候の屋敷を出る時に、家令が持たせてくれたのです。とても冷えていておいしいですよ」

「ありがとう。皆にも振舞ってくれ」


アーサーは水を入れた器を受け取り、それに口をつけずに馬を降りた。

器から水が零れてしまわないようにしてそっと歩き、布を被せた檻に近づいた。


「いけませんアーサー様。奴への水は、我らが飲ませますから」

「大丈夫だよ。それに、少しだけ話をして様子を見ておきたいだけだから」


檻を見張っていた兵士たちにも、水を受け取って飲むように促し、アーサーは白い布を少し手で押し上げた。


「ファラー候。乗り心地は悪くないかい?」


アーサーの声に、檻の中に繋がれて座っていた男は顔を上げる。

そこに居たのは今回の不祥事の当事者であるファラー候本人だった。


なぜ罪人であるファラー候がアーサーたちと行動を共にしているのか。

それは、ファラー候自身のたっての願いだった。

アーサーの居ない群衆と共にファーティゲルマへの道を進むことが恐ろしいというのだ。

アーサー以外の人間は、おそらくエルヴィナの元に突き出される前に自分を殺してしまうかもしれない。と脅えていたのだ。

その脅え方が異常だったのを見て、アーサーは哀れに思った。

そういう訳で、この罪人は抜け出せない頑丈な拘束下の元、この少人数のメンバーと共にファーティゲルマに輸送されているのだ。


「アーサー様。えぇ、少し窮屈ですが、大丈夫です」

「よかった。道中は長いから、辛くなったら遠慮なく言ってくれて構わないから」


アーサーはそういうと、両目を塞いでいるファラー候の目隠しを少しだけずらし、水の入った器を持ち上げて見せた。


「今、休憩中なのだ。ファラー候も飲まないかい?」

「水ですか…。これは、どなたから…」

「うちの兵士だよ。卿の家令が持たせてくれた水のようだ。さっき、毒見を終わらせてくれているから安心して飲んでくれていいよ」


じっと、差し出された水を見つめるファラー候。

そして穏やかな表情で微笑み、首を振ってアーサーのほうを見つめた。


「殿下。先にお飲みになってください。私はここに繋がれた身。これほど多く飲んでしまっては手洗いが近くなってしまいます。そうなっては、帝都までの時間がまた伸びてしまう」

「そうかい?」


その半分で充分。と言われ、アーサーはその水を半分飲むことにする。

ぐっと器を傾け、冷たく美味な水を飲み下す。

こくんと白く細い首が水を通す。その動きをじっと見て、ファラー候はごくりと喉を鳴らした。


「うん。美味しいね。スぺルビアの水はオーベロンと比べて飲みやすいよ」

「軟水でございますからね。喉の通りが違うと思います」


アーサーは半分水の残った器をファラー候の口に当て、残りの水を飲ませてやった。


「アーサー様!どこにおられるのです!」


向こうで、ヨークの呼ぶ声がする。

アーサーはファラー候に一言そえて、目隠しを戻し、急いで向こうへ戻っていった。

ファラー候はアーサーの足音が聞こえなくなったのを確認して、そっと口の中に含んでみた水を吐き捨てていた。


「アーサー様。こちらの者が、森を抜ける道を案内してくれると言ってくれました」


ヨークの元に行くと、そこには3人の見知らぬ若い男たちがやってきていた。

2人は頭を垂れて跪いているため、顔は見えなかったが、その前にいる青年はヨークの知り合いのようだった。


「彼はクラウスと言いまして、あのルーズヴェルト家の4男坊なのです。どうやら、とある事情でスぺルビアに来ていたそうなのですが、彼がこの先を案内してくれると名乗りを上げてくれたのです」

「ルーズヴェルト家といえば…グリスの身内のものかい?」

「はい。グリゼルダとは私の兄でございます。殿下」


そういって深々と膝を折り、クラウスという青年はアーサーに敬意を示す一礼をした。

ルーズヴェルト家というのは、ファーティゲルマ大帝国の名門貴族のひとつであり、姉の政体内にも彼の兄が所属していたり、さらにセスの子を護る騎士団の中にもルーズヴェルト家の者がいる。

顔のそばかすが印象的なクラウスはその名に恥じぬ敬意ある挨拶をし、アーサーに微笑みかけた。


「先程ハウエル様にお会いし、殿下ご一行がファーティゲルマへの安全な道を探しているという事をお聞きいたしました。それで、ハウエル様たちが先に進んでいる森の道へと案内できればと思い、参上つかまつりました」

「それはありがたい。ぜひ案内してくれないだろうか」


アーサーたちは、クラウスたちの案内についていくことにした。


◆◆◆◆◆



クラウスたちの乗った馬の後ろを着いていき、アーサーたちは森の前へ向かう。

馬に跨り進みながら、アーサーはこの地域の地図を見ていた。

森といえども、そこまで深い森ではないようだ。


「クラブレの白い森へと続く小さな森です。白い森の入口まで案内いたしましょう」


ありがとう。と、礼を言うため口を開く。と、その時後ろからどさりと重いものが地面に倒れる音がした。

アーサーが振り返ると、そこには馬から落ちた兵士の姿があった。

驚くのはまだ早かった。地に伏した兵士に近づこうとした別の兵士が膝から崩れるようにして転んだ。


「な、何事だ!」

「おい。どうした!」

「力が…、!からだがしびれて、」


馬から落ちた兵士は、自分でも理解できていない様子だった。呂律も回らないのか、地に伏せたまま震える腕でどうにか身を起そうとしている。

次々と兵士たちが体の痺れを感じて倒れていく。その異様な状況に馬も落ち着きを失い始める。

その景色を見ていたアーサーの視界が、突然くらりと回りだす。

兵士たちが訴えているのと同じように、ついにアーサーも右腕から徐々に体に広がっていく痺れを感じるようになってきた。

…焦るな。落ち着いて、冷静に状況を見極めるのだ。

徐々に失われていく体の感覚を感じながら、アーサーは馬の手綱を握りしめ、地に伏し動けぬ兵士たちを見ながらその原因を探っていく。

ぼやける視界の中、ある兵士の馬の背に乗せられた革袋が目に入り、そうか。と納得した次の瞬間、


「殿下!」


ヨークのであろうその呼び声が聞こえたすぐ後、先程とは比べようにならないほど大きく世界が回った。

ついに自分も馬から落ちてしまったのかと思ったが、地面まではまだ遠い。

代わりに見えるのは、こちらに手を伸ばして自分の名前を叫んでいる兵士たち。

そして、ここまで案内してくれた三人の男たちの必死な表情だった。

なぜこんなにも彼らの表情がよく見えるのだろう?

その時アーサーは、自分が男たちに担がれてどこかへ連れていかれているという現状を理解した。

アーサーは必死に顔を上げ、兵士たちを見る。

馬が暴れている。あれでは頭を踏まれてしまう者が出てしまう。


「ノル!」


知らない誰かの声が聞こえたすぐあと、アーサーの体がガクンと下がった。

三人の男たちが馬を乗り捨てて、森の中に逃げ込んだのだ。

いけない。急いで男たちの腕から逃げなければ。

アーサーは冷静に、自分の体の動かせぬところ、動くところを見極める。

利き手ではない手がまだ微かに自分の力で動かせる事を理解し、アーサーは最後の力を振り絞って腰にしていた短剣を抜き、自分を担ぐ男の背中に剣の柄頭を振り下ろした。


「いだっ!」


男は大きく背中を仰け反り、ぱっとアーサーを手放した。

しかしそれは一瞬の事で、結局肩に担いでいたアーサーを、懐に持ち変えただけの結果になってしまった。

それでもアーサーは短剣を握り、震える手で男の顔を目掛けてその刃を見せた。


「あっぶねえ…。じっとしててくれよ皇太子、今はまだ逃げなくちゃいけねーんだ!」

「私を、兵士たちの元に戻すのだ…、はや、く」

「悪いな。それは無理な相談だ!」


男は走る足を止めず、ついに森を抜けた。

先程、アーサーたちと出会った橋のところに出てきた。

そこに繋いでいた馬のところに向かい、急いでその馬に乗り込む。

いけない。この先連れていかれては兵士たちに会えなくなってしまう。

焦る心がそうさせたのか、アーサーの体は馬の上でガクンとバランスを崩した。


「危ない!」


アーサーを抱え込んでいた男がアーサーの服を掴もうと腕を伸ばす。

とにかく掴まなければと闇雲につかんだのか、男の手はアーサーの上着の襟と、アーサーの長い髪を巻き込んで力いっぱい掴まれた。

痛みに呻き、アーサーは鋭い痛みから逃げようと体を捩じった。

握っていた短剣に何か肉を断った感触を感じ、その気持ち悪さに思わず短剣から手を離した。

すると短剣の刃がまっすぐアーサーの顔を目掛けて落ちてくる。

避けようと反射的に顔を背ける前に、男の手がアーサーの顔を守り、その閃光は左耳のすれすれをまっすぐ下に裂いていった。

頭の皮膚に留まっていた鋭い痛みが途端に消える。するとアーサーの体も男の腕の中をすり抜けて真っ逆さまに下へと落ちていった。

一体全体、何が何だかわからぬアーサーの身が、どぼりと何かに沈んだ。

一瞬で耳がふさがれ、視界が歪み、口の中に勢いよく息を奪うものが入り込んできた。

突然呼吸を奪われ、アーサーは訳も分からず必死に体を動かし、藻掻く。

そこが水の中だと気づいた時には、もう意識がかなり遠のいていく時だった。

上は、空気は、下は、ここはどこだ、?

私はどうなっている。苦しい。光は、人は、どこに、どうして、ああ、誰か、誰か、誰か!

助けてくれ。


「(ハウ、エル…)」


遠のく意識の中、無意識に助けを求めたのは、今はどこにいるかわからない自分たち兄弟の大切な人の名前だった。




▷▷▷つづく

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