深夜の怪
鴎
***
深夜の街だった。大通りから一本入った住宅街。街灯が並び、明かりの消えた家々が並び、その合間で自販機がブーン...と静かな音を立てている。車なんか走っておらず、人気など無く、音らしい音は聞こえない。そんな風な眠りに就いた景色。動く者の無い闇夜の景色。静かな静かな夜の景色。
都会と言えば都会のこの街だが、深夜ともなればそんなものだ。
チンピラの一人も居ない。
酔っ払いの一人も居ない。
街で動いている者はどこにも居ない。街の中心街、飲み屋のある駅前あたりなら、今の時間でも人が居るのだろう。しかし、純粋な住宅街であるこの辺りはこんなものである。
家々の合間に闇が横たわる。空に星はほとんど見えず、少し欠けた半月がこの街を見下ろしている。
小綺麗な新興住宅も闇の中ではおどろおどろしい印象を与える。
税金をかけて整えた道路も静謐すぎて恐ろしい。
闇が与える印象は、それらに包まれた景色が与える印象はやはり恐怖だ。
それはどれだけ美しい街並みでも変わりは無い。むしろ、綺麗だと余計に強く感じるかもしれない。
仕方が無いのだ、恐怖を感じるのは。
人間の本能なのだ。得体の知れない何かが潜んでいる。そう思わせるものに危険を感じるのは生物として必要な機能だ。捕食者を警戒するのは無くてはならない感覚だろう。
これに関して俺は、小難しい理屈など実は無くて単に見透しが悪いものに人間は恐怖を感じているのでは無いかと思ったりする。蛇足の自分の意見でしか無いが、個人的には無いことは無い理屈なのではないかと思う。
まぁ、今し方でっち上げたスカスカの理屈なのだが、案外気に入ってしまった次第だ。
とにかく、街は深夜だった。街は闇に包まれていた。
俺はその中に突っ立っていた。
何故こんなところに突っ立っているのか。それほど大した理由ではない。
単に夜中に散歩していただけである。
俺が深夜に散歩するのが好きなだけである。『深夜の散歩』というワードに得も言われぬ魅力を感じているのである。深夜を歩く背徳感とか、人の居ない街を我が物顔で歩き回る支配感とか、そういったものに反応してしまう年頃なのだ。俺は高校二年生である。
いつものように親が寝た後に家を抜け出し。人の居ない街を夜の王にでもなったかのように歩き回り、そしてある程度満足して家に帰ろうというところだったのだ。
俺は足を止めたのだ。止めざるを得なかったとも言えるだろう。そして、動けなくなったとも言える。
俺の目に入ったものがそうさせたのだ。
「なんだ、人間か」
それは言った。
自販機の明かりにおぼろげに照らされそれは立っていた。
それは小柄な人間のようだった。
それはくたびれた着物を着ていた。
それは腰まで届くような長い黒髪だった。
そして、それの頭には二本の角が生えていた。
闇の中に浮かび上がるそれは、ニヤリと笑いながら俺を見ていた。俺を見て上機嫌だった。まさに、探していた者が見つかったというように。まるで、ご馳走でも見つけたというように。それは俺を見てニヤニヤしていた。
恐らく人間では無かった。
恐らく化け物だった。
外見の特徴だけ見ればコスプレか何かと思っても差し支えは無いだろう。
しかし、残念ながらそうは思えなかった。
俺の前に立っているこの存在はあまりにも異様だったのだ。なにがとか、どこがとか言われるとはっきりとは言えないのだが。どう考えても俺の普段持っている常識から外れた存在だとなんとなく感じたのだ。いや、どうしても分かったのだ。
それを見た瞬間に俺には恐怖が湧き上がった。理屈で無く全身が言っていたのだ。これは危険だと。
だから、俺は動きを止め固まっているのだ。動くに動けないのだ。下手に動いて何が起きるか分からないからだ。
「夜にしか動けんから難儀しておったが、ようやく食い物にありつけるというわけだ。しかも、若い小僧とは。食いでがありそうではないか」
それはクツクツと笑いながら歩み寄ってくる。にじり寄ってくる。なんとも軽い足取りで。昼食を取りに食堂に向かうように。
そして、実際その通りなのだろう。この存在は今し方『食い物』と言った。それはまさしく俺を指して言った言葉なのだろう。
つまり、この怪物はどうやら今から俺を取って食おうというつもりであるらしい。
なにがなにやら分からない。
何故、夜の散歩をしているだけでこんな怪物に遭遇したのか。
そもそも何故怪物がこんな住宅街の真ん中に居るのか。
そして何故、俺は取って食われそうになっているのか。
全て現実感が無い。まったく、俺の街で起きることとは思えない。というか現代で現実で起こることではない。
現代の深夜の住宅街で怪物に襲われ食われそうになる。今どき、漫画でもそんな設定のものは中々無い。分かりやすすぎる。返ってリアリティがなさ過ぎる。
しかし、それが今まさに俺の目の前で起ころうとしていた。
怪物はテクテクと歩いてくる。
「ふむ、近くで見ると間違いない。どうやらお前は美味そうだ」
今にもよだれを垂らしそうなほど表情を崩しながら。
食われる。すなわち、命を失うということだ。死ぬということだ。このままでは死ぬならすることは決まっている。
「う、うわぁあああ!」
俺は弱々しい悲鳴を上げ、走り出した。
逃げるのだ。この怪物から。食われるという現実から。
しかし、俺の両足は上手く力が入らなかった。当たり前だ。恐怖で全身震えているのだから。腰だって今にも抜けそうだ。立っているのでやっとかっと。
だから、ほどなくして俺は頭からすっ転ぶこととなった。
「うぐぅ....」
うめき声を上げながら俺は地面を舐めることになる。しかし、それでも動きを止めるわけにはいかない。立ち上がろうとするがやはり足腰に力は入らない。俺は這うようにして体を動かす。手で地面を掴み、なんとか体を前に進めようとする。なんとかして後ろに迫るモノから遠ざかろうとする。
しかし、無駄だった。
「そんな地を這う虫のような速度でわしから逃げられるものか」
ずし、と背中にめり込んだのは怪物の足だった。そしてさらに力を込め俺の背中を圧迫する。ものすごい力だった。ミシミシと体から音が鳴った。体からそんな音が鳴るのを初めて聞いた。そして、強い痛みが走る。
「あぐっぁああ!!」
俺は声を漏らす。俺の上で怪物は笑った。ゲタゲタと。
そして、怪物はぽぉい、と俺を宙に放り投げた。そしてそのまま何度もそれを繰り返す。まるで俺をお手玉のように扱った。軽々とだ。すさまじい力だ。俺は電柱を超える高さを何度も何度も超え、落下で圧死する恐怖を何度も何度も味わった。
「うわぁああああ!!」
「くははは」
俺が悲声を上げ、怪物が笑う。これだけ音を立てているが、深夜だからか誰一人気付くものはいない。この漆黒の闇の中、人間は俺ただ一人でその俺を怪物が蹂躙していた。
そして、飽きたのか落ちてきた俺を掴んで地面に叩きつける。また、俺の背に足をめり込ませる。俺はもがくが無駄だ。
「人間、哀れだぞ。今まさに死のうというのにもがくものはやはり哀れだ。そして、そういったものを殺して食うことほど愉しい事も無いのだ」
俺は怪物を睨む。街灯に照らされたその姿はまるで少女のそれだった。恐らく俺と大差無いかのような年齢の顔。小柄な少女、その頭に角が生え、その口から鋭い牙が覗いている。瞳孔は縦に伸び、獰猛に俺を見下ろしていた。
「さて、まずはどうしてやろうか。腕を千切ろうか、足を裂こうか。このまま胴に穴を空けるのも良いな。頭はやはり最後だろう。体をズタズタにした後にゆっくり力を込めて潰してやろう」
恐ろしい言葉が俺の耳に入ってくる。
「や、止めろ! 止めてくれ! 助けてくれ!」
俺は叫んだ。この状況下で俺に出来るのは最早命乞いだけだった。
「ほう、良いぞ良いぞ。その言葉。まさしく、強者に蹂躙される弱者の言葉だ。面白い、興が乗ったぞ」
しかし、怪物はその言葉と同時に俺の背中を踏みつける足にさらに力を込めた。ビキリ、と嫌な痛みが俺の胸から全身に響く。あばら骨にヒビでも入ったのか。俺はたまらず叫んだ。 このままでは殺される。
「そうじゃな、ワシの言うことを聞ければ見逃してやらんでも無いぞ?」
「言うこと? なんだってんだそれは」
「くはは。お前の代わりを連れてこい。そうすれば、お前を見逃してやろう」
「な、なんだって?」
「代わりの人間じゃ。お前の代わりにワシに食われる人間じゃ。それを用意せい。そうすればお前の命を助けてやると言うておる」
「な、なんだと」
それは、俺に俺の代わりに死ぬヤツを連れてこいと言っているのだ。俺に誰かを生け贄に捧げろと言っているのである。俺に罪を犯せと言っているのである。俺にクソ野郎になれと言っているのである。
始めは無理難題でもなんとか聞いてなんとかこの運命から逃れられないかと思った。しかし、こんな頼みはあまりにも残虐過ぎる。この怪物は本当に怪物だ。人間性など欠片も無い
らしい。まさに、自分の野蛮な欲望を満たすためだけに生きているのだろう。
こんな頼みを聞くわけにはいかない。
だが、このままでは俺は死んでしまう。
「分かった! 分かった! 用意する、用意するから解放してくれ」
なので、とりあえず承諾するフリをするしか無かった。
「ほう、言うたな貴様。自分の身代わりを用意すると」
「ああ、ああ。必ず用意する。だから、足をどかしてくれ」
「くははは、良いだろう」
そして、怪物は俺の背中からその足をどかした。背中には痛みが残った。胸の鈍痛は消えそうにない。だが、圧迫感は消えた。
俺は立ち上がる。目の前には怪物の顔。怪物でさえなければ美少女と言っていい整った容貌、綺麗な黒髪、妖艶な体。しかし、今この状況下ではそれらは禍々しいものでしかなかった。返って人間でないという事実を強調する役割しか果たさなかった。
俺は改めて震えた。
すぐに死ぬことは無くなった。しかし、これからこの怪物の言うとおりに俺の身代わりを探さなくてはならない。
「さて、では探して貰おうか。だが、難しくはないだろう。この通り、人間は腐るほど家の中で寝ておるのだからな」
怪物はクツクツと笑う。そして俺のすねをその足で小突く。小突いただけだがそれだけで俺の足には激痛が走った。
「そら、行くがいい」
行くしか無かった。うながされるままに俺は歩きだす。住宅街の中を進んでいく。いつもの見慣れた景色が、最早地獄のようだった。
この中から、俺の代わりにこの怪物に食われる人間を選ばなくてはならないのか。でなくては死ぬしかないというのか。
そんなのはゴメンだ。絶対に嫌だった。誰かを身代わりにするのも自分が死ぬのもなにがなんでも避けたかった。
俺はグルグル考える。どうにか、この状況を打破する秘策は無いかと。
しかし、そんなものすぐには思いつくわけは無かった。
大体俺は頭が悪いのだ。頭が悪い薄ぼんやりした男子高校生、それが俺である。そんな俺がこんな極限状態を打破する方法をすぐに思いつけるはずがない。
懸命に頭を回す。この怪物を出し抜いて、誰も巻き込まず俺が助かる方法がないか考える。なかなか思いつかないとなると、思考は段々脱線していく。
そもそも何故こんなことになっているのかと。どこから間違えたのかと。どうにかこうならない方法は無かったかと、考えても仕方の無い問題探しを始めてしまう。そもそも、今日散歩に出たのがまずかったのだとか、そもそも夜の散歩なんか趣味にしているところから間違っているのだ、とか思考はどうでも良い結論を導き出していく。
単なる現実逃避でしかない。
そうこう言っているうちに、怪物に急かされるまま俺は一件の住宅の前に立っていた。新築二階建ての一軒家。ベージュの外壁、少し大きいこだわりを感じる造りのベランダ。庭には子供向けの自転車。恐らく子供の居る家族の家。
目の前にはインターホンの付いた入り口があった。
これを押せば家の中に来客を告げる音が鳴る。深夜といえど、何回も鳴らせば住人が出てくるだろう。その人間が俺の代わりになる。なってしまう。
極限の状況がすぐ目の前に迫っていた。
「そら、その機械を押せば中に音が鳴るのだろう。そうすれば中の人間が出てくる。早く押せ、くはは」
怪物は上機嫌で俺を急かす。冗談じゃ無い。本当に冗談じゃ無い。なんで、俺がこんなことしなくてはならないのか。
このインターホンを押せば俺はめでたく外道の仲間入りだ。
代わりの誰かが出てくる。その人は死ぬ。
俺の平凡な日常は終わりを告げる。
「や、止めようこの家は。確か、じいさんとばあさんしか住んでない」
俺はでまかせを言った。
まったくの嘘っぱちだ。だいたい、庭に子供用の自転車が駐まっているのだ。ほぼ、子供が住んでいることは間違いない。小学生でも分かるような嘘だ。
極限状態で思考が混濁した俺がすがるように発した嘘だ。中身は空っぽだ。
「ほう、そうかそうか。それはいかんな。年寄りは骨ばかりでまずい。そんな家のものを食うのはごめんじゃ。くははは」
しかし、怪物はあっさりと俺の嘘を受け入れた。すぐに、くるりと来た方向へ戻って歩いていく。門を出て次の家へと向かう。
「どうした、早くせい。次の家に向かうぞ」
「あ、ああ」
怪物は俺の嘘を嘘と思っていないのか。実は恐ろしく頭が悪いのか。
いや、ひょっとしたら人間社会そのものに疎いのかもしれない。怪物なのだ。人間社会と関わりなど持つはずもない。だから、子供用自転車というものそのものが分からなかったのか。
分からなかった。しかし、とにかく今の危機は脱したのだ。すぐに次が来るわけだが。
二軒目の家。ここも新築だ。玄関には黒のワンボックスと白のセダン。ここも家族で住んでいるのだろうか。車が好きな人間がいるのだろう。ワンボックスもセダンもピカピカだった。
なんとなく躊躇して立ち止まりかける俺の背中を怪物が蹴りつける。俺はそれだけで軽く吹っ飛んだ。背中に鈍痛が残る。
「早くせい。でなくてはお前を食ってしまうぞ」
さっきと同じだ。すさまじいプレッシャーをかけてくる。後ろに居るのは死そのものだ。怪物に場所を選ぶという感覚は無いだろう。気にくわなければこの玄関先ででも俺の頭はスイカみたいにたたき割られるのだ。
俺はインターホンの前に行く。
また、極限の選択だ。また、人生の大きな大きな岐路に立った。
こんな選択迫られるだけで正気を保てなくなる。
だが、俺はもしやと思っていた。
「ああ、ダメだ。ここもじいさんとばあさんしか住んでねぇよ。ここもダメだ」
「なんじゃと。それは困った。それはいかん。ならば次じゃ次」
怪物はまたあっさりと俺の嘘を信じ、スタスタとこの家を後にする。
どうしたことか。怪物は俺の言葉を聞くなりすぐに信用している、ように見える。ひょっとして本当の本当に俺の言葉が真実だと思っているのか。こんなまるで嘘っぱちを疑っていないのか。
分からない。分からなかった。どういう事なのか俺には分からなかった。
怪物特有の思考パターンなのか。
しかし、この方法が有効だというならすがらない手は無い。
俺はその後も何軒も何軒も「老人の家」だということにしてやり過ごしていった。そして、やはり怪物は俺の言葉に素直に従い、次へその次へと移動していった。
しめた、と思った。これを繰り返せば誰も殺さず、自分も死なずに済むかもしれない。長くてたまらないが、朝まで耐え切れれば家から出てくる人間も現れるだろう。
それに、俺は確かに聞いたのだ。初め怪物は「夜しか動けない」と確かに言ったのだ。どういう理屈かは知らないが怪物は日が出ていたら活動出来ないのだろう。なんとか朝まで保たないものか。俺は歯を食いしばりこの状況に堪える。
「ダメだ、ここもじいさんとばあさんの家だ」
「ほほう、そうかそうか。ならば仕方あるまい」
そして十数件目でそれまでの十数件と同じことを言う。俺はまた怪物を美味いこと言いくるめて十数回目の危機を脱する。恐らく、もう一時間以上が経過していた。夜明けまではまだまだ先は長い。俺の精神は最早限界が近づいていた。
と同時に、
「くははは」
怪物の笑い顔が目についた。怪物は笑っていた。ずっとだ。最初から今までずっと。
なにかおかしいように思った。怪物はいわばずっと食い物のおあずけを食らっているのである。にも関わらず、怪物の表情は愉悦に歪んでいる。実に楽しそうである。
まるで、この状況そのものが怪物にとって面白くて喜ばしいかのようだ。
「いや、飽きたな。さすがに」
そして、唐突に怪物は言った。
俺の体が吹っ飛んだ。景色がむちゃくちゃに揺れ、俺はアスファルトの地面に転がる。なにが起きたのか分からない。とにかく、全身を打ち付け痛くてたまらんということだけが分かる。
「これ以上面白くもならんだろうし、そろそろ食わせてもらうぞ」
そして、仰向けに倒れる俺の腹に怪物の足がめり込んだ。内臓が圧迫され苦しくてたまらない。
どうやら、俺は怪物に投げ飛ばされ道路を転がった後にこうして踏みつけられているらしい。
しかし、これは、
「初めから気付いてたのか....」
「おうとも、弱々しくあがき回る貴様を見て愉しんでおったのよ。いや、生死の境でみじめたらしく策を練るお前は面白かったぞ。誰も身代わりに差し出さなんだのはやや興ざめだったがの」
「出来るかそんなこと。人殺しをするようなもんだ」
「おう、そうだろうな。差し出された人間を喰い、人殺しをしたお前も喰うつもりだったのだが、いやそこまで上手くはいかんわの」
「なんて野郎だ」
つまり、俺に身代わりを差し出させて、その後罪悪感と絶望感に満ち満ちている俺にさらに恐怖を味合わせて喰おうとしていたのか。まるで、人間性などない。この怪物は頭のてっぺんからつま先まで完全に怪物なのだ。慈悲の心とか善意なんてものはまるでない。相手に苦痛を味あわせ、どうやって最高に絶望させるかしか考えていないのだ。
最早、万事休すである。
この一時間ちょっとは単に怪物に遊ばれていただけだということだ。
状況はなにも変わっていない。
このままでは死ぬ。一時間前に逆戻りだ。
「うむうむ、見れば見るほど良い肉付きだ。若く柔らかそうな肉にほどよく脂も乗っておる」
帰宅部の俺の腹は痩せているとはいえないものだ。少なくとも腹筋は浮いていない。こんなだからモテないのだろう。いや、放っておいて欲しい。
とにかく今はそれどころではない。
最早、怪物は俺を今にも殺そうという体勢だ。怪物が俺のどこを殴りつけても俺の肉は弾け飛び、大量出血でショック死するだろう。
このままでは本当に死ぬ。
俺の鼻先まで死が迫っている。
これが、摂理なのか。弱いものは強いものに蹂躙される。
人生なんてものはある時唐突に、こんなにも哀れな終わり方をする。
形は違えど、あらゆる人の人生にこうした結果が待ち受けているのかもしれない。
そして、俺は今まさにその運命に呑みこまれるということなのか。
俺は苦痛と恐怖に顔を歪める。
それを見て怪物は本当に満足そうに笑った。この怪物の思うとおり、理想の表情を俺は浮かべていたらしい。つまり、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながらそれでも目の前の脅威に助けを請う顔だ。
しかし、怪物はそんな俺に同情するはずは無かった。にんまりと口を歪め、そしてとうとう俺の腕に手をかけた。
すさまじい力で俺の右手を引きちぎりにかかる。激痛だった。筋肉や関節が強引にあってはならない方向へ別たれるのを感じる。俺は絶叫した。誰も助けに来ない。俺はこれから四肢を引きちぎられ、そして最後に頭を潰される。最悪だ。こんな死に方は無い。なぜ、こんなことに。
しかし、そんな思考は無意味だ。もう、死ぬしか無いのだから。
死ぬしかないのだ。このまま怪物が俺を蹂躙すれば。
しかし、俺の腕に加わった力は突如止まった。怪物は唐突に俺の右手を引きちぎるのを止めたのだ。
なぜだ、なにが起きたのか。
俺はパニックになっていた頭を落ち着け、俺に掴みかかっている怪物の顔を見た。
怪物は俺を見てはいなかった。
その視線は俺から外れて、俺の後方、怪物の前方を見ていた。すなわち、通りの向こうだ。
「な、なぜだ。おかしい。お前は夜は出てこないはずだ」
怪物の顔からはついさっきまで浮かんでいた愉悦に満ちた笑い顔は消えていた。代わりに
浮かんでいたのは恐怖だった。まさに、今し方まで俺が浮かべていた、みじめな恐怖の表情を今度は怪物が浮かべていた。
「ま、待て。止めろ、止めてくれ。わしを襲うな....」
怪物は俺の頭の後ろに居る何かに向かって言っていた。手を前に差し出し、ワナワナと震えながら。懇願している、俺の後ろに居るなにかに。明らかに助けてくれと。
俺は寝転がった姿勢のせいでなにが居るのかは見れなかった。代わりに今にも腰が抜けそうになっている怪物だけが見える。
怪物はジリジリと後ろに下がっていく。
「わしを喰うな! わしを喰うなぁ!!!」
そして、そう叫んで走って行く。逃走である。怪物は俺の後ろのナニカから一目散に逃げだした。
しかし、その怪物目がけ、俺の真上を抜けてそれこそナニカが伸びていった。これをどう形容すれば良いのか、俺には分からない。生物なのか無機物なのか、個体なのか液体なのか気体なのか。もしくは物質なのかエネルギーの塊なのか、それがさっぱり分からなかった。
とにかく、そのナニカが俺の上を何本も抜けていき、そして逃げる怪物の手足を絡め取った。
「止めろ! 止めろぉおお!!!」
叫ぶ怪物をそのまま宙に引き上げ、そして俺の後ろに引きずり込んでいった。
それから聞こえたのは、モシャモシャというナニカが何かを咀嚼する音だけだった。
怪物の声はまるで聞こえなかった。そして、とてもとても静かになった。
なにが起きたのか、俺には分からなかった。とにかく、俺は俺の後ろに居るナニカを見ようと顔を無理矢理上げようとする。
その時、
『見るな。お前も喰いたくなってしまう』
恐ろしい声でナニカが言った。俺はその言葉に怪物を見た時以上の恐怖を感じ、それ以上動けなくなった。
それから、ゴロゴロと何かが転がるような音が響いた。およそ生物が出す音では無かった。それはしばらく続き、やがて通りの奥へと消えていった。ナニカの気配は消えていったのだ。どうやら、俺は助かったらしい。
「は、はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ......」
俺は過呼吸になりかけながら激しく息をした。全身びっしょりと汗をかいていた。そして、ようやく起き上がり、今し方何かが起きたところを見る。
そこには何も無かった。ただのアスファルトの道路、コンクリの塀、その向こうに家々が並び、街灯が照らしていた。
俺を喰おうとした恐ろしい怪物は、どうやらさらに恐ろしいナニカに喰われてしまったらしい。
唐突に終わる日常。理不尽な現実。それがこの世の摂理。
しかし、今日その運命に飲まれたのは俺ではなく怪物だったようだ。
俺はそら恐ろしくなりガタガタ震えた。帰ろう。早く家に帰って温かい自分の部屋に戻ろう。そして、明日は学校を休んで部屋で安全に過ごそう。
俺は走った。とにかく、全力疾走だった。必死すぎて気付かなかったが絶叫していたかもしれない。それぐらいの勢いで帰宅した。
とにかく間違いないのは、俺が夜中の散歩をすることはもう一生無いだろうということだ。
深夜の怪 鴎 @kamome008
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