夢も通さない門番


 それは、ミズハが生まれて初めて体験する異性と二人っきりの時間だった。


 厳格な武門の家に生まれ、家から放逐された後も自身の武力だけを頼りに誰からも距離を置いてきたミズハ。


 門番を目指すようになってからの姿からは想像もつかないが、かつてのミズハは他人に対して心を閉ざしていた時期もあったのだ。


 特に、家から出たばかりの頃は離縁された悲しみがつのり、寄ってくるあらゆる存在を同性異性問わず切り捨てる勢いで遠ざけていた。


 アイドルとして活躍するようになってからも、ミズハの笑顔はあくまでも大衆に対して向けられており、誰か特定の異性に良く見られたい、良く思われたい、一緒の時間を過ごしたいという欲求は、希薄どころか皆無だった。


 しかし今は――。



「あ……あの……師匠……」


「どうした?」


「い、いえ! その……さっきからずっと私と手を繋いでくださっているので……どうしてかなと思いまして……」


「ハッハッハ! 俺がそうしたいから繋いでいるのだ。嫌なら止めておこう」


「そんな! 全然、これっぽっちも嫌じゃないです!(むしろ……して欲しいです……)」


「それは良かった。ならば問題ないな!」



 なぜか普段よりも圧倒的に人通りの多いナーリッジの大通り。


 はぐれないためだろうか、ヴァーサスは屋敷を出てからずっとミズハの手を優しく握り締めて離さない。


 最初こそ驚き、真っ赤になってあたふたとしたミズハだったが、しばらくするうちにその小さな胸には満たされるような暖かさがこみ上げ、いつしかミズハの方からもヴァーサスの大きな手をきゅっと握り返せるようになっていた。


 身長180センチを越える長身のヴァーサスと、140センチにも満たないミズハ。


 まるで父親が娘を連れて歩いているような光景だったが、今のミズハにはそんなことは全く気にならない。



「(あ……師匠の歩き方……いつもとは少し……)」



 少し背伸びをするようにヴァーサスへと寄り添って歩くミズハは、ヴァーサスがその大きな歩幅を自分の歩みに合わせてくれていたことに気づく。


「私のことは気にしないで」と、ヴァーサスを見上げて口に出そうになるミズハだったが、ヴァーサスはそんなミズハの気持を既に察していたかのように、いつもよりも穏やかで優しい笑みをすでにミズハに向けていた。



「あ……」



 ヴァーサスは笑みを浮かべるだけで何も言わなかったが、その微笑みを見たミズハは今にもヴァーサスに抱きつき、泣いてしまうのではないかというほどの凄まじい衝動に駆られた。



 体が熱い。胸が苦しい――。


 それはヴァーサスと出会ってから、ミズハが時折感じるようになった感覚。


 だが、今は不思議とその苦しみに痛みはなかった。


 自分を受け入れて欲しいと願う相手に、という喜び。それは、その場で叫んでしまいたくなるほどの多幸感だった――。



「(ああ……私、やっぱり……師匠のことが……)」



 くらくらと、目眩がするほどの喜びに満たされたミズハの心に、抑えることができないある想いが浮かび上がる。しかし――。



「(――違う。師匠は立派で、私は未熟で、師匠は尊敬できて優しいから、だから、嬉しいだけ――)」



 ミズハはまたもやそこで視線を逸らした。

 

 逸らした視線。それはヴァーサスに向けられた笑みからではない。


 ミズハの心の中であるときを境に産まれ、日に日に大きくなるのだ。


 その気持は今も必死にミズハに向かって呼びかけていた。

 

 私の声に気づいて欲しい。見て欲しい。知って欲しい。認めて欲しいと。



 しかしミズハは恐れていた。



 その気持を自覚することで、もっと辛く苦しい日々が始まるのではないかと。

 もうヴァーサスの傍に自分が居られなくなるのではないかと。

 大好きな景色が、永遠に色あせて失われてしまうのではないかと。



 ミズハは恐れ、それ故に自分の中で叫び続ける声を黙殺する。


 違う違う違うと。


 いつしかミズハの心の声は小さくなり、いじけるようにしてどこかに消えた――。



 ●    ●    ●



「た、楽しかったですぅぅ~~! 師匠とお出かけするのがこんなに楽しいなんてぇぇ……うえええ……っ」


「うむ! 俺も楽しかった。ミズハが喜んでくれたなら俺も嬉しい!」


「師匠ぉ~~っ!」



 それから暫く時の経った夕暮れの中。ナーリッジの外れにある公園で。


 ミズハは泣きべそをかき、その丸く小さな頬を真っ赤に染めてヴァーサスへと全力で抱きついていた。



 ――結論から言うと、全然無理であった。


 楽しすぎた。


 あまりにも楽しすぎたのだ。




 最初は馴染みの店で一押しの昼食を二人で食べた。


 そのとき食べた料理の味を、きっとミズハは一生忘れることはないだろう。


 誰と食べるかで料理の味はここまで変わるのかと愕然とした。


 あまりにも美味しすぎて驚き、はしたなくも口元につけてしまっていた食べ屑をヴァーサスはそっとナプキンで拭いてくれた。



 普段は立ち寄らない小道で見つけた小さな雑貨店。


 ショーウィンドウに飾られた、花びらをかたどった髪留めに目を奪われたミズハ。


 ヴァーサスはそんなミズハを見て「入ってみよう」と言うと、そのままミズハをエスコートするように雑貨店に入り、先ほどミズハが見ていた髪留めを店主に断わってからミズハの髪に留めて見せた。


 今、その髪留めはミズハの髪に付けられている。


「お似合いのお二人ですね」と微笑ましく見守っていた店主が、いくらか割引いて売ってくれたのだ。


 そこでもヴァーサスは「ならば、これは俺からミズハに贈らせてくれ」などと言い、代金を支払ってしまった。


 おそらく、普段の給与額で言えば圧倒的にミズハの方が高給取りなのだが、あまりの出来事にミズハはその申し出を断わることもできなかった。



 とにかく楽しすぎ、嬉しすぎた。


 もはや自分の気持から目を逸らし続けることは不可能だった。


 ミズハの小さな胸は張り裂けそうなほどぱんぱんになるどころか、既に色々あふれ出していた。当初は離れていた二人の距離はぴったりとくっつき、繋がれていた手はより温もりを感じられるように腕を絡め合っている。


 もはや色々手遅れであった。



「し、師匠ぉ~~……えぐっ……うぐっ……私……私!」


「……何か俺に伝えたいことがあるのか?」


「はい……っ! もう無理です……私、もう我慢できなくて……っ」


「ミズハ……」



 ミズハは泣きはらした顔でヴァーサスを見上げ、ついに自らの思いの丈をぶつける一言を発しようとする。だが、その時――。



『本当にいいの?』


「あっ……」



 瞬間、全てが止まった。


 ミズハを見つめるヴァーサスも、その後ろで豊かに水を噴き上げる噴水の水滴も。空を飛ぶ鳥たちも。


 ミズハの目に見える世界全てが止まり、ただ声だけが響いた。



『あれだけずっと我慢して、無視してきたのに、を言ったらどうなるかなんて、わかりきってるくせに』


「あ、あなたは……っ」



 全てが止まった世界で人影が現れる。


 長い黒髪をひとまとめにした、銀色の瞳の小柄な少女――。


 ミズハ・スイレン。


 それは、紛れもなくミズハ自身であった――。




 門番VSもう一人の自分 開戦――。




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