彼女と僕と、それから

ゆずはちみつ

第1話 僕


 「ここはどこ?わたしは誰?」

 なんてよくある物語の台詞で、本当に口にすることなんてありえない


 ……と、思っていたのに。

そんな普遍的で異常な台詞が、つい数秒前、自分と半世紀以上を共に暮らした人物から発せられるとは。驚きや困惑の感情以上に、なぜか呆れた気持ちが込み上げてきて、思わず頭を抱えた。


 こうなるのは予想できていたことだった。あんなにしっかり者で活発だった彼女が、最近、自分が数分前にしていたことが分からなくなってしまった。他人の言うことがよく理解出来なくなってしまった。得意だった料理が出来なくなってしまった。大好きだったドライブは、出来なくなったことさえ彼女の記憶に留まることはなかった…。

 ケンカをすることも増えた。その度に彼女は家を飛び出していった。もう家に帰る道すら覚えられないのに。彼女がいなくなると息子や孫が探し回った。私はそれがどこか気恥ずかしくて、やるせなくて。申し訳なさと同時に、なんだか怒りすら覚えていた。


 彼女が自身のことも忘れ初めてしまったあの日から数日して、彼女は家からさほど遠くない施設に預けられることになった。

 飯を一日に何度も食べることはなくなった。質問攻めにも合わなくなった。夜中に起こされることもなくなった。ケンカして怒鳴ることもなくなった。なんだか清々した気分だった。

 -ただ、いい気分とは長くは続かないもので。すぐに私は、取り戻したと思っていた日常を、かえって失ってしまったのだと知った。



それから1ヶ月ほど経ったある日、彼女が入院したと知った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼女と僕と、それから ゆずはちみつ @nagomuusagi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ