第6話 そういうところだぞ(市場の悲鳴)




 マニュアル通りに作った『空間結合(ワープ装置)』は、マニュアル道理に稼働し、マニュアルに記載されている通りに私を……インターフェイスとなっている私を、地上へと運ぶことが出来た。



 ……地上の何処かって?



 そんなの、決まっている。私に『商売』という道を示してくれた、エドガーの下だ。何故なら、自慢ではないが私は……『商売』に関する知識は欠片もない。


 はっきり言えば、『商売』は私一人では完結しない。私一人ではどうにもならないからこそ、地球のネットワークから情報は抜き取れても、私にそれを生かす機能(というか、技能)が無いのだ。



 ……で、だ。



 一通りの準備が終わった私は、火星より地球上のエドガーを探す。時間と手間は掛かるが、座標の目処は付いているので、そこまで大した労力でもない。


 実際、エドガーは探し始めてから9分22秒後に見つけ出せた。以前の飲食店ではなく、もっと大きな……何だろうか、調べた限りでは、『NASA』とか呼ばれている建物の内部に居る事が分かった。


 加えて、エドガーが見付けた時の時間帯は……昼。つまり、活発に動き回る時間帯だ。狙ったわけではないが、タイミングが良いというのは、こういうことを言うのだろう。


 そう、判断した私は――早速、ワープ装置を稼働させる。バチバチと、余剰エネルギーが生み出す火花を辺りに飛び散らせながら……私の眼前には、円形に開かれた通路が形成されていた。



 ……ワープ装置といっても、その中身(あるいは、原理)というか作用は大きく異なっている。



 例えば、移動させる個体をデータ化し、それを装置から装置へと転送し、その場にて構成し直す……このタイプは、主に超長距離間の移動用として利用されている。


 理由としては、装置そのものを大型化(より、ハイパワーにする)させることで、超長距離……銀河と銀河の間を瞬時に行き来することが可能となるからだ。


 もちろん、『連盟種族』という考えることすら馬鹿馬鹿しくなる例外もあるが、超長距離のワープにはだいたいコレが運用されている。


 対して、比較的近距離……惑星間程度の距離ならば、空間と空間を折り曲げて繋げてしまう、『空間結合』というのが、私が知る限りでは一般的……らしい。



 まあ、私としては、主流であるかどうかはどうでもよい。



 現時点で重要なのは、たかだか地球までの距離ならば、『空間結合』の方がまだ、手間暇が少なく済むだけでなく、商品の持ち運びが効率的である……それに尽きた。


 ……で、装置を稼働させた後、その通路の向こうに広がっているのは地球の……NASAと呼ばれている建物の一室。



 こちらへと振り返ったエドガーと……確か、トニー局長だったか。



 その二人が、持っていた飲み物をポトリと落としたまま硬直している……のを見やりながら、私はカプセル下部に装着したローラーにて発進して通路を通り……二人の眼前にて、止まった。


 反動で、ぷかぷかと溶液の中を漂う私も揺れる。下手に元の位置に戻ろうとはしていけない。頑丈に作っているので壊れることはないが、念には念を入れておくべきだろう。



『――こんにちは、トニーにエドガー。商売をしに来た』



 逆さになった二人を見やりながら、カプセル下部にて設置したスピーカーより音声を飛ばす。私とは違い、対話の際には音で識別する二人との対話には、これが欠かせない。


 私の登場が、よほどの驚きをもたらしたのは想像するまでもない。二人は開いた口が塞がらないと言わんばかりに呆けたまま、私を見つめるばかりであった……と。



「……もしかして、ティナ……なのか?」



 恐る恐る……そう言わんばかりにトニーより尋ねられた私は、そうだよ、と返事をした。



『商売をする以上は、警戒心を解いた方が良いだろう? だから、君たち人間に見た目を合わせた』

「そ、そうなのか……で、でも、どうしてそんな箱……いや、カプセルの中に?」

『出来る事なら完全に君たちに合わせたインターフェイスを作りたかったのだが、どうも人間の身体は作るのが難しい。何とか見た目だけを合わせるのが精いっぱいだった』

「そ、そうか……」



 ちらり、と。



 二人の視線が、カプセルの中に納まっている私の全身を上下する。スキャン(簡易式のやつを、カプセル下部に搭載している)をする限り、警戒心というより……困惑の割合が些か強いようだ。


 まあ、仕方がないとはいえ、カプセル内に収まったままの登場に面食らうのもまた、仕方がないことだ。


 少なくとも、『尾原太吉』の記憶に、そのような人間が居たという情報は無い。


 つまり、彼らにとっても初めての存在であり……ある意味では、これもファーストコンタクトというやつなのだろう。



「……その、恥ずかしくないのかい?」



 と、思っていると、何やら言い辛そうな……慎重に言葉を選んでいると言わんばかりの、恐々とした問い掛けがトニーよりなされた。


 恥ずかしい……つまり、『羞恥』という意味合いに関する問い掛けなのだろうか。


 発言の意図が分からずに二人を見つめていると、「その、気に障ったら申しわけないのだが……裸だろう?」トニーが言葉を続けた。



 ……裸、ああ、なるほど、そういえばそうだった。



『――すまない、服を用意するのを忘れていた。しかし、この中で服を着る必要性はあるのか? 下手に不純物を入れると、この身体の稼働時間が早まってしまうのだが……』

「え、あ、うん、あ、いや、その、目のやり所に困るというか……というか、稼働時間って、もしかして水着とかそういうのは無理なのか?」

『無理ではないが、極力入れない方が良い。それに、見たところで私が問題にしていないのだから、何の問題もないだろう?』

「いちおう、公共の場なので……ふさわしくないというか、何というか……」

『それは、私の寿命を縮めてもなお優先させなければならない事柄なのか?』



 ――正直、只でさえ短い稼働時間を更に削られるのもなあ……でも、それが決まり事なら仕方がないか。



 そう思いながらも、無線を通じて火星にいる『私』が急ピッチでこの身体(正確には、インターフェイス)の量産を始めているのを相互通信で確認する。


 火星に居る『私』と、この場に居る私は実質同じだ。


 動かしている身体が違うだけで、統括しているのは同じ私……本体である『私』は火星にて私の量産と各種設備の拡充を……それらは並列に処理されている。


 言うなれば、リモートコントロール。ラジコンで動いている玩具みたいなものだ。


 なので、まだ次が出来ていないから今すぐ壊れたり稼働時間を削られたりは困るが、10日ぐらいの猶予があれば10体ぐらい出来上がっているから、服を着るのはそれからが良い。



「……まあ、生命維持に関わるのであれば仕方あるまい。当人が気にしていない以上は、こちらが受け入れるのは当然……か」

「そうですな、子供たちの前に立つのは些か刺激が有りますが、大人相手であれば……まあ、そうなりますな」



 ……と、思っていると、何やら二人が譲歩してくれた。



 発言の内容から推測する限り、どうも出来上がったこの身体……というか、寿命が縮むという点を考慮してくれたようだ。


 それを、人間に似せたおかげと判断するべきか、この二人が特別こちらに対して好意的なのかは、判断に迷うところだが、せっかくの好意なので受け取っておこう。



「ただし……視線が上下してしまうのだけは、そちらも譲歩してほしい」

『――? 発言の意味が分からない。視線が上下する事と、私が譲歩とは、どういう関係が?』



 けれども、続けられた言葉の意味が分からない。なので、率直に理由を尋ねれば、「……それは君が裸だからだよ」そのような返答が成された。


 詳しく話を聞けば……どうも、反射的に見てしまうらしい。人間に似せた私の身体……特に、乳房や生殖器といった、女体特有の部位に目を向けてしまうということだ。


 ……そういえば、この身体は女だった。似せることにばかり集中し過ぎていた……この件に関しては、私の落ち度だろう。


 最初は男体も作るつもりだったのだが、どうも男体は細胞が上手く安定させらなかった。まあ、男体というのは視点を変えれば突然変異みたいなものだから、元々その傾向はあるのだろう。


 何にせよ、私にとって性別への重要度は低い。結果的に女体のインターフェイスしか完成しなかったので、特に気にしてはいない……という事を、私は二人に伝えた。



「……では、見ても特に気にしない、と?」

『雄が雌の生殖器に関心を抱くのは本能だろう。私としては、本能を自覚して律する意思を持とうとしている方が、好感が持てる』

「その、場合によっては性的興奮をしてしまう者が、今後出るかもしれないのだが、その場合は……」

『無論、私の結論は変わらない。それで、何時までも似たような問答をしていても意味はない、そろそろ商売というやつを始めるぞ』



 私にとってはどうでもよい事でも、彼らにとっては重要な事は幾らでもある。『尾原太吉』の記憶にも似たような事が残されている。


 けれども、何時までもそればかりに気を取られていては進む話も進まない。


 なので、些か強引に話を打ち切った私は、『空間結合』を使用して火星の大地に転がしたままの『金(ゴールド)』を取り出すと、それを二人の眼前へと静止した。


 すると、何故か……二人ともが目を見開いて硬直してしまった。


 一瞬、攻撃と勘違いされたかと思ったが、どうもそうではない。簡易スキャンで確認した限りでは、恐怖よりも驚愕……驚き過ぎて硬直してしまったという状態が近しいように思える。


 いったい何に驚いたのだろうか……そう思って二人を見つめていると、我に返ったのは……エドガーの方が早かった。



「……空中に浮いているね。これは、『金(ゴールド)』かな?」

『そうだ、金(ゴールド)だ……位置は高いか? 見辛いか?』

「あ、いや……うん、ありがとう、手に取っても? 見た通り老体だから、重さによっては腰を痛めてしまいそうなのだが……」

『現在は0gの重さにて固定しているが、この星の重力化では2kgの重さに相当する。貴方が手に取った次第、本来の重力場に戻す』



 何に驚いて何に納得したのかは不明だが、精神の復帰は果たしたようだ。「思ったよりも、腰に来るよ……」エドガーがしっかり手に取ったのを確認してから『アーム』を外したのだが、早すぎたようだ。


 ……保持している老体のデータを修正。


 簡易スキャンの結果、筋肉の世貴せぬ収縮によって、腰の辺りの神経が刺激されたようだが……負傷と判断するほどではなく、ひとまず、商売……いや、商談を中断する程ではないだろう。


 傍で話を聞いているトニーも同意見なようで、商談を遮るような素振りを見せていない。


 ひとまず、静観というやつなのだろう。


 持っていたハンカチで床を拭き、部屋の隅に設置されている……先ほど落とした飲み物と同じやつを摂取し……精神を落ち着かせているようだ。



「……それで、これを私たちにどうしてほしい、と? もしかして、購入してほしい、と?」



 尋ねられて、私の視線がエドガーへと向けられる。



『その通りだ。今の私には、売る手段が無い。定められた法に従うのであれば、私はまず、その国の国籍を取得する必要があるからだ』

「なるほど、私の助言通りに法を順守してくれているようだね。それを聞いて、とても安心したよ」

『それで、買い取ってくれるのか?』

「まあ、待ってくれ。機械には自信があっても、貴金属の取り扱いに関しては素人だよ。でもまあ、せっかく私に持って来てくれたのだから、私なりに見させてもらうよ」



 ――さて、始めるとしようか。



 そう呟きながら、僅かに曲がっていた背筋を伸ばして居住まいを正したエドガーは、気を取り直して……といった様子で、金(ゴールド)の検分を始め――たかと思えば、直後に私へと視線を向けた。



「ところで、コレの純度は?」

『100%だ。表面に付着している土埃などを除けば、の話だが』

「ふむ、では、どうして金(ゴールド)を売ろうと――いや、これは聞くまでもなさそうだ。とりあえず、どうやってこれを用意したのかね……相当な労力が掛かったのではないかな?」

『星の外を飛来していた隕石を元に、作っただけだ。労力らしい労力はない。材料があれば、幾らでも作れる』



 特に隠すこともないので、ありのままを伝え――た直後、材料は何でも良いということを入れ忘れている事に気付いたが……まあいいや。



 それよりも、だ。



「……そう、幾らでも、か」



 何故かは不明だが、またもやエドガーの反応が思わしくなく、何やら額の辺りを摩り始めた……スキャンには、異常は見当たらない。



「……ちなみに、在庫は如何ほどに?」

『お前たちの基準で換算するなら、約50万トンだ』



 ――瞬間、ブーっ、と。



 部屋の隅で飲み物を啜っていたトニーが、口に含んでいた液体を勢いよく噴いた。どうしたのだろうとそちらを見やれば、彼は再び容器を床に落としていた。



 ……いや、本当にどうしたのだろうか?



 状況が読めずにエドガーに視線を向ければ……そのエドガーも、先ほどとは少しばかり様子が違う。


 額に滲み出た汗を何度も拭い、心拍に関しても先ほどよりも早くなっているのを感知する。発病……いや、これは、精神的な何かが影響したのだろうか。



「……この件に関する商談は、私たちが最初と思ってよろしいかな?」

『そうだ、お前たちが最初だ』

「今後、私たちとの商談が成立した場合、他国との商談を行う予定はあるのかな? その場合、今回と同じく金(ゴールド)を売るつもりのかな?」

『当然、ある。何時になるかは未定だ。また、金(ゴールド)ではない可能性もある。今回は、持ち運びや保管の手間を減らす為に金(ゴールド)にしただけだ』



 少しばかり沈黙を置いた後、エドガーより、そう尋ねられた。なので、これも特に隠す必要もないからありのままを伝えた。



「……少し、待ってもらっていいかな?」

『構わないが、この身体の寿命は300日程だ。なので、300日以内にしてほしい』

「あはは、大丈夫だよ。せいぜい、一時間かそこらぐらいだから……」



 すると、目に見えて顔色を悪くした……心拍数等の数値が悪くなっている……エドガーとトニーが、どうにも鈍い動きで部屋を出ていった。





 ……。


 ……。


 …………することがないので、二人の動向をスキャンし続ける。



 おそらく、二人は私に聞かれたくない内緒話とやらをするつもりなのだろう。その証拠に、感知出来る二人の状態は明らかに不調を示してしているが、歩調自体は安定している。


 その二人が、並んで止まる。直後、落下しているのかと思うぐらいに二人が下がり続け……地下15メートルの……ふむ、なるほど、盗み聞きされないように地下へと向かったようだ。


 しかし、その程度で私の索敵から逃れるのは不可能だ。人類の力では難しくとも、私にとっては別だ。


 カプセルに取り付けた簡易式とはいえ、この程度の距離など何の意味もない。


 ついでに、二人の周囲には誰も、不審なモノも、存在していないことを確認しつつ……二人の会話に耳を傾ける。



 さて、どんな内緒話をしているのやら――。




 『――どうしろと言うのだ? 初手でいきなり金(ゴールド)を50万トンだぞ……うちで買えるのか? あれだけの量を? これまで人類が採掘して来た量の2倍以上だぞ』

 『――金(ゴールド)が高額なのは、希少だからだよ。言い換えれば、希少でなければ値段は相応に下がる。50万トンともなれば、グラム当たりの単価はそこらのパワーストーン並みになるだろう』

 『それは、莫大な金(ゴールド)が無事に市場へと回った場合の話だろう。現時点でのレートだと……おい、30兆ドルというふざけた数値が出たが、私の計算間違いか?』

 『日本円にして、約3200兆円ぐらいですかな。まあ、そのまま市場に流せば間違いなく金(ゴールド)の相場は崩壊し、市場も壊滅、数万から数十万人ぐらいの取引所勤めの人達が困った事態になるでしょうな』

『ウイスキーと銃がバカ売れして、保険会社が修羅場になる程度で済むのならば、私はそうしよう。しかし、よりにもよって貴金属だぞ……事が、その程度で収まると思うか?』

『収まりませんな。間違いなく、国家間の大騒動となるでしょうな。100年前ならいざ知らず、これ程に金(ゴールド)の価値が高騰した今ならば……場合によっては第三次世界大戦の引き金になりかねんでしょう』

 『……そこまで行くのか?』

 『古来より、戦争が起こる最大の理由はパンと肉が民の下へ行き届かなくなった事だ。昔よりもパンと肉は行き届くようになったが、その代りに、その価値が跳ね上がったのは……生活の根幹を支えている貴金属だよ』

 『……今更、100年前の暮らしに戻れと言われても不可能である……というわけか』

 『金(ゴールド)一つとっても、それが少なからず国家予算の一端を担っている国は、間違いなく破産するでしょう。国民全員が恐慌に見舞われるだけでなく、最悪は……』

 『みなまで言うな……アメリカとて、いきなり主要輸出品の価格が50分の1以下になれば暴動が起こるし、場合によってはミサイルも打ち込もうとするだろう』

 『不幸なことに、彼女はミサイル程度では何の意味もないでしょうな』

 『……交渉して値を下げてもらう。そのうえで、私が動かせる裁量内で、何とか買い取れるだけの量を買う。それで、如何ほどに市場への影響を抑えられると思う?』

 『焼け石に水、というやつですな』

 『なに? どういうことだ?』

 『彼女は、金(ゴールド)を作り出したと話していた。つまり、他にも……例えば、他の貴金属も作り出せるとしたら……もはや、米国だけでは抑えられない。何せ、既に情報は各国に漏れているのだから』

 『ロシアや中国の話は後に……いや、この際、隣に置いておけ。それよりも、仮に、他にもあの子が作れるとしたら、どうなる?』

『奪い合い、でしょうな。第三次世界大戦……よりも前に、第二次の世界的な冷戦が始まり、誰が最初に引き金を引くかというおぞましい駆け引きが各国で繰り広げられるでしょう……』

 『……彼女は、その危険性に気付いていると思うか?』

 『ソレを気にするのは人間の視点です。蟻の縄張り争いが酷い事になると話した所でほとんどの人々が気にも留めないように、彼女にとっても、人の争いに注意を傾ける必要はない』

 『しかし、彼女は友好的な関係を築くつもりでいるのだろう? それを話してくれたのは、エドガー……お前なのだぞ』

 『トニー局長……勘違いをしてはいけませんぞ。何も、人類全てに対して友好的である必要はないのです。出来る事ならそうするでしょうが、無駄だと判断した時点で彼女は容赦なく切り捨てるでしょう』

 『……それで、数十万人、数百万人の人々が路頭に迷い、弾丸で脳天を打ち抜く結果になるとしても、か?』

 『70億人居る中の、数百万人程度……それが、彼女の返答でしょうな』





 ――思っていたよりも酷かった。思わず、盗み聞くのではなかったと後悔してしまうぐらいに、酷い話をしていた。




 あまりに酷い会話に、ごぽっ、と起こりえない気泡が私から吐き出される。カプセルに取り付けられている濾過装置が自動的にそれを排除してくれるが……今の私は、そんなことを気にしている場合ではない。


 周囲に人の気配(映像機器や通信機器も無いのは把握済み)が無くて、良かった。これだけ警戒されている現状、下手な動きをすると余計な誤解を……いや、それはいい。



 重要なのは、いったい何がどうしてそうなった、その一点に尽きる。



 何故だ、私は何時から悪の総統ならぬ、人の心が分からぬ怪物に成り果てたというのだろうか。少なくとも、『尾原太吉』の記録というか、下地があるから人の心は分かっているつもりだ。


 数十万人が死ぬのであればしたいとは思わないし、数百万人が路頭に迷うとなれば、わざわざ商売を強行しようとは思わない。


 それどころか、路頭に迷った数百万人の面倒を見る事だって、必要ならする。さすがに今すぐは無理だが、火星の一部を放牧地として整備し、食料生産を加速させれば……40日後には、準備が整う。


 家だって、1000世帯が済める建物ぐらいなら一日に400個ぐらいは作れる。服だって、工場を作って急いで回せば……とりあえずは、20日ぐらいで全員に2着ずつ回すことは出来るだろう。



(不和を起こす個体は即時処理して解体し、生産プラントの材料に回して……半年あれば、アメリカ内における中流レベルの暮らしは確保出来そうだが……)



 パッと『尾原太吉』の記録を見た限りでも、『働かずに金が入ってくる不労所得が欲しい』ということを何度か考えていた。全員がそうでなくとも、それなりの数が……似たような事を考えていても不思議ではない。



 ……それに、衣食住を確保してくれる相手を、わざわざ敵視するだろうか……いや、待て、少し待て。



(『働いた後のビールが美味い』という記録もある……難しい、これは難しい、難問だ。働かない事を求めつつも、働きたいという欲求も抱えている……だと?)



 ――一旦、計画は凍結する。当初の予定通り、余計な事はしない方が良いだろう。



 考えてみれば、この『商売』とて、今が初めてだ……致命的な障害が発生したわけでもないのに、いきなり方向転換というのは判断が早すぎる気がしてならない。



 ――継続するかは今後の判断として、しばらくはこのやり方で行こう。



 頭脳ユニット内に保存してあるマニュアルから取り出したデータを精査しつつ、私は密会を終えて地下より戻ろうとしている二人の動向を確認しながら……思考を切り替えるのであった。



(……次からは金(ゴールド)は止めて……そうだな、この際だ。次は一般的な化石燃料を売り出してみるか)



 とりあえず、次は金(ゴールド)ではなく、より密接に生活に関わっている化石燃料を商品として持ってくるとしよう。


 その場合、専用の入れ物と保管場所やその他諸々が必要になるだろうが……まあ、それはお勉強というやつでこっちが用意してやるとして……だ。



(化石燃料は沢山有っても困る事は無いし、燃料が安くなれば人々が生活するうえで支払う費用も少なくなるし、多ければ多い程喜ばれるのではないか?)



 それを考慮し、商品として持ってくる量は……そうだな。土星周辺を漂っている氷と木星のガスを幾らから回せば、どうとでもなる。



『――とりあえず、3000億バレルぐらい用意出来るから、持って行けばあの二人も機嫌を良くするだろう』



 で、値段は……ネットワークから取り寄せて見たが、どうもその時々によって変動するようだ……ふむ、そうだな。



『……お近づきの印とやらで、最初の1回は1バレルを1ドルで売ってみるか』



 さて、この話をどのタイミングで切り出すべきか……二人の位置を確認しながら、私は思考を始めるのであった。









 ※ 1バレル約160リットル。値段はだいたい40ドルの+-10ドル

 ※ 世界埋蔵量1兆6966億バレル。






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