第6話 三島由紀夫『潮騒』

「三島由紀夫ってさ、なんか切腹した人って事ぐらいしか知らないんだけれど綺麗な文を書く人なんだね」


 そう言うと、栞は嬉しそうに笑った。


「そうなんです。ノーベル文学賞の候補に谷口潤一郎、川端康成と同時にあがっていたぐらい何ですよ」


「えっ。ノーベル賞取ってたかも知れないの?」


「そうなんです。それぐらい注目されていた作家なんですよ。とはいっても、文学賞って文学そのものの価値だけで判断されているわけではなくって、その時々の選考委員会の基準があるみたいなんで、今までに公表された日本人候補の仲には宗教文学では有名だけれど一般的知名度は全くない人なんかも居ます」


「なんだか難しそうな話だね」


「怒鳴門鬼怒先生は三島由紀夫を一番押していたのですが、当時三十八歳だったのでノーベル文学賞受賞していたら、ラドヤード・キップリングの四十一歳を大きく更新する最年少記録になっていましたね。賞の話は面白いですが、ややこしいのでこの辺にしておくとして、詩織さんが今回読んだのは『潮騒』ですよね」


「うん。薄くて私にも読めそうだったから読んでみたけど、意外なほど面白かった」


「作品の舞台になった歌島はパチンコ屋がないからという理由で選ばれたのですが、物語の下敷きになったのはギリシャ神話の『ダフニスとクロエ』です。ラヴェルの曲でも有名ですね」


「『ボレロ』と『水の戯れ』は授業で聴いたけれどそれは知らない」


「明日CD持ってきますね。クラシックあまり聴いたことのない人でも入りやすいいい曲ですよ」


 栞の家には行ったことはなかったが、クラシック聴いたり、完璧な文学少女だったりいいところのお嬢さんなんだろうか?


 そいうえば図書委員で毎日こうして下校のチャイムが鳴るまで図書室で優雅に過ごして、時間をたっぷりと使っている割には成績上位者だった気がする。


 私の成績についてはまあ中の少しだけ上の方とだけいっておこう。悪くもない良くもないネタにもならない成績だ。


「『潮騒』はなんか昔の人の恋愛って感じがするよね。昭和の空気っていうかさ。昭和の空気なんて生まれる前の話で吸ったことなんてないけれどさ」


「私もですよ」


 そういって栞も人差し指を下唇に当てて、下を向くと何がそんなにおかしいのかくっくっくっと不思議な笑い方をした。


「詩織さんが『潮騒』で一番気に入ったシーン当ててみましょうか?」


「分かるかな?」


「『その火を飛び越してこい』」

「『その火を飛び越してきたら』!」



 栞が最期までいうのをブツリと切って私が後半を叫ぶ。


 二人して目を合わせて、ふふふと笑い合う。


 先ほど栞のことを不思議な笑い方をすると思ったけれど、端から見たら変な笑い方をする女子高生二人組だろう。


「私も大好きなんです。あのシーン『その火を飛び越えてこい』子供の時代を終えて、大人の時代にいっぽ踏み込むような、一種の潔い決別の瞬間といいますか、単純にビジュアルとしても美しいですよね」


「そうそう。なんかちょっとフェティッシュだよね。なんていうか詩人ていうのかな。詩なんて教科書でしか読んだことないけれど」


「『潮騒』はそのタイトル通り潮の音が聞こえてくるようですが、それだけじゃないと思うんです」


「と、いうと?」


「『潮騒』を読んだばかりの人とそうでない人の違いって分かります?」


「さあ。なんだろう、名台詞を矢鱈と言ったり、歌島に思いを馳せたりとかそんな……」


「ちょっと手を出してくれません?」


「手?」


 何をいわれているのかよく分からなかったけれど、いわれるままに何の身構えもせずに手を出す。


 彼女は私より数段白くて柔らかくて、それでいて冷たくて気持ちのいい滑らかな肌触りの手で私の手を柔らかく包むと、そのまま手の甲を持ち上げて頭を垂れる。


 無防備の所にいきなり来たので、もう目の玉がポロリと落ちた様な気がした。というか多分目玉が本当に転がり落ちていたせいか、地面から二人の重なった手を見上げている視線が脳裏に浮かんだ。


 仄かにザラついた感覚が手に伝わる。しっとりと温かい湿り気が手の甲から脳髄にビリビリ音を立てながら伝わる。


 目玉が顔に戻ってきたのか、左右入れ違いに嵌め込んでしまった様な気分になった。ふと気付くと彼女の三つ編みにした、芋っぽいようでいて、芋っぽくならない画になるギリギリの絶妙なラインを保っているお下げを結った後頭部が見える。


 雨の日の烏のような、濡れた黒い色をしている。


 そうして悪戯っぽい顔をしてこちらの目を真っ直ぐ見つめて笑う。


「ほんのり塩っぱい。これは『潮騒』を読んだばかりの人の特徴です」


「ちょっと何して、いや、誰だって肌は塩っぱいに決まっているでしょ。ビックリしたなあ!」


 彼女は何もいわずに手の甲を私の目の前に差し出した。


「確かめてみます?」


 彼女の有無を言わさない口調と、アルカイック・スマイルというのだろうか?


 そんな不思議な表情を見て恐る恐る、少しだけ舌を突き出す。


 飼い猫か飼い犬にでもなった気分だ。


 多分今この場を支配しているのは線の細くて、儚げで、幽かな印象を受ける彼女だ。彼女の存在感が異常なほど増している。質量感を覚える。多分飼われているのは私なんだろう。


 少しずつ舌を近づけ栞の手の甲に舌を這わせる。


 塩っぱい。そして仄かに甘い香りがする。


「なんだ、栞も塩っぱいじゃない。誰だって肌が塩っぱいのは当たり前のことだよ」


 私は内心、心臓がバクバクいっているのを何でもないやという風体を装って、至極当然のなんてことはない些細な事という風に呟いた。


「私もね。私も詩織さんが『潮騒』を借り出したのを見て読み直したばっかり何です」


「そうなの?」


「私も昔読んだ本の内容全部覚えていられるわけではないですから。詩織さんと話を合わせたくて、その……」


 そこまで言うと今までの大胆さが全て嘘のように急にドギマギと挙動不審なロボットのようになってしまった。


 私もそれを見て挙動不審になり、頭の中がバグってしまった。


「じゃ、じゃあ、栞も『潮騒』を読んだなら潮の香りがして当然だよね」


 何やっているんだろう私は。そんな意味不明のことをいって、彼女の首筋に鼻を近づけてしまった。本当に何をやっているんだろう?


 なんだかお寺で嗅いだ沈香のような甘い天然の香りがする。


 思わず荒くなって熱くなった鼻息が彼女の首筋にあたったようで栞はくすぐったそうに身もだえした。


 私は彼女の鼻息が旋毛にあたってやっぱり身もだえした。彼女は口を噤んで息を一生懸命止めているようなのが気配で感じられたが、お互いに限界に達した。


「わ、わ、わっ」


「わわわわーっ!」


 二人して慌ててアタフタとしてしまった。


 他に誰も居ない図書室に二人の声が響く。


 外からは蜩の声が聞こえてきた。


 海水浴をする季節はもう過ぎてしまったようだ。


 さて、今私の胸の中に広がる潮の香りは一体どこからきたのだろうか?


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