第5話 森鴎外『舞姫』
「『舞姫』は森鴎外のドイツ留学時代の話が元になっています。つまり哀れな舞姫エリスと太田豊太郎の話は存外全くなかった話でもないんです。実際SF御三家の一人星新一の叔父の元にドイツから森鴎外に会いに来た女性がいて、今まで一切謎だったその方の写真が近年見つかったりしています」
授業でやったので、折角なら栞と直接話してみて、蘊蓄なりあらすじなり聞いて詳しくなった気分になろうというもくろみである。
そう言うと「薄いから読んで下さい」と怒られるのは火を見るより明らかだったので黙っていた。
まあ単純に栞と雑談したかったというのもある。何となく読書家を気取れるというか詳しくなった気分になれる。
栞の解説を聞いて天井を眺めながらボンヤリと呟く。
「豊太郎ってさ、最初から凄い自分語りするよね。昔から勉学に励んで官吏の仕事に就きながら大学に通って、明治のあの時期にドイツに留学してってさ。それで道ばたで座っているエリスに声かけてさ、いきなり言い寄ったりして、なんか気持ち悪い」
栞は口元に手をあててクスクスと笑い出す。
「今の価値判断で当時のことをどうこう言うことは出来ませんが、それでも実際当時から批判はあったようです。豊太郎をボコボコにやっつけるパロディ小説が明治時代には既に出ていたそうですから。それに前にも言いましたが、今の感覚で当時の作品の感想を言うことは別段悪いことでもないんです」
栞はそう言うとふと、息を吐いた。
「『情けないエリートの俺語り』っていう人も居ます」
栞はまたもや、ふふっと笑い「近代的自我の芽生えた作品なんていわれてますが、私は豊太郎のそんな駄目なところがとても面白く感じるのです」
栞はそう言うと、珍しくオーバーなリアクションで両手を挙げておどけてみる。
普段真面目な栞だけに、そのギャップに私もつられてしまい、ついつい外国人のように両手を挙げて彼女の真似をし「面白いの?」と言ってみる。
「面白いです」
栞は時々分からない。
「なんていうかさ、私あまり本を読まないんだけど、アニメで見たライトノベルみたいに都合がいい展開じゃない?」
「詩織さんはライトノベルみたいだっていいますけれど、私もあまり詳しくはないですがライトノベルも馬鹿にしたものじゃないと思うんですよね。それぞれ好きな人が居て、そういうのを好む層がいたならいいんです。読者の居ない本ほど意味のないものはないですからね」
先ほどと打って変わって栞が珍しく少しご機嫌斜めといった感じで膨れる。その様子がなんともおかしかったので、私は悪いと思いながらも、思わずまたもや吹き出してしまった。
静かな文学少女然とした見た目と中身なのにコロコロと表情が変わるのが面白い。
「ごめん、ごめん。機嫌悪くしないでよ」
「別に怒っていませんよ」
そういって更に膨れっ面をする。そういう所は初めて見たので余計におかしく思ってしまい、ついつい笑いが止まらなくなってしまう。
「そういう詩織さんは、私嫌いです」
ツーンとしてしまった。
「ごめんてば。でも多分私たちと同じぐらいの歳の女の子をさ、妊娠させて捨てちゃって。しかもその事を偉い人に報告するときは豊太郎本人は気絶してて、エリスとの別れ話も友達が伝えてって。冬のベルリンで肩に雪が積もるまでボンヤリしていてとか都合よすぎじゃない?」
笑いを抑えて本題に戻る。
教科書に載っていたのは編集された簡略版だったがちゃんと落ちまで書いてある。
なので読んだつもりになろうとおもい、栞に話しを聞きに来たわけである。
「そういう所も含めて私は面白いと思うんですよ。一見エリスと豊太郎、そして周りの人たちの話に見えますが徹頭徹尾豊太郎の自分語りなんです。エリートの俺がこんなことにってなるのが面白いところなんですよ」
「そんなものなのかなあ?」
私は栞のいう事が今一つ分からなかったけれど、そういうものだと納得することにした。彼女は私より本を読んでいて完璧な文学少女なのだから、彼女のいうことはきっと正しいのだろう。
「でも……」
「でも?」
「もし詩織さんが豊太郎みたいな、見ず知らずの少女にお金を恵んであげて一見してエリートだと分かって、日本人なのにドイツ人からも『どこでドイツ語を覚えたんだ?』なんて吃驚されるほどの人に声をかけられて優しくされていたとしたら私は全力でそれを阻止します」
吃驚するぐらい真顔で私の顔を覗き込んでくる。彼女のこういう瞳のど真ん中の黒目の部分を見つめてくる仕草は、いつまで経っても慣れない。そして顔が近い近い。彼女のなんだか甘い吐息が口元に吹きかかり、間接キスをしているような、そんな気分になってくる。
「それって私が、エリートだけど駄目男に妊娠させられて捨てられるって事?」
さっきのお返しにと、今度はこっちが少し悪戯っぽくむくれてみる。
「あ、そういう訳じゃないんです。それに妊娠ってそんな……」
顔が一気に赤くなる。彼女のそういう反応の出やすいところは私はとても好もしく思っていた。
「私はただこうやって詩織さんと二人で図書室で本の感想を言い合ったりするのが好きなだけで、ずっと続けばいいなって思っているだけなんです。男の人に詩織さんが取られるなんて考えると。いやそういう個人的なことに立ち入るのはどうかと思うんですけれど、いや何をいっているんでしょう私は……」
あまりにも栞がパニックを起こして居るのでまた笑ってしまう。
「笑わないで下さい。私にとっては真剣な問題なんですよ!」
彼女がまた一段と近付いてくる。
そして私の顔も仄かに赤らんでくるのが分かる。
「まあ、何時かは卒業する時が来るんだろうけれども、その時までは私は栞とのこの時間を大切にしたいと思っているよ。これは本当の話」
栞が机に置いた私の手の甲にそっと指を這わせる。
彼女も無意識でやっているようだったので何も言えずドキドキしてその鼓動が伝わるんじゃないかと思って、急に恥ずかしくなる。
「自分で言うのもなんだけど、私は多分モテる女だよ、健康的なお色気? っていうのかな男子共を無意識のうちに悩殺して回っているんじゃないかとほんの少しだけ思っている」
「ふふふ、ほんの少しだけですか、ならば許します。でも私は二人の時間が何時までも続けばいいと思っています。でもどんなに面白い本でも読み終わる時には閉じなくてはなりません。私はそれが辛いのです」
「だったらさ」
外に顔を向ける。
冬の雲は分厚く、丁度雪がちらつき始めた所である。
「もう一度始めから読み直せばいいじゃん。何度でも本は読めるでしょ?」
そう言うと栞はまたなにか驚いたような顔をして。
「そうですね」
といって、にっこりと笑った。
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