第4話 桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』

「ねえ栞」


「なんですか詩織さん」


 図書カウンターで返却された本の整理をしていた栞に声をかける。二人だけしかいない図書室の中では、私たちの声以外には、酷暑といえる夏の暑さを紛らわせる空調の音だけが響いていた。


 司書の先生はいつも通り職員会議だかなんだか知らないけれどいなかった。


 そもそも姿を見たこと自体無かったけれど、図書室があって、司書室がある以上、司書の先生はいるのだろう。


 だけどいつも私たちは二人だけの世界にいた。


「なにか夏っぽい本読んでみたいっていったけれど、なんだかこの本のっけから暗くて怖いよ。読み終わったけれどなんだか辛い」


「ああ、哀しいお話ですよね『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』私、小学校の頃に読んで凄い哀しくなったんです。でも中学になって、主人公達と同い年になった時に、どうしても読みたくなってまた読んだんです」


「どうだった?」


 栞は何となく寂しそうに笑うと、首を振ってこっちを見つめ直した。分厚いレンズの向こう側にある湿り気のある黒い瞳に射貫かれて何となくゾクッとする。


「やっぱり哀しかったんです。ヒロインの海野藻屑の運命は最初から分かっていたことなのに、それが避けられなくって、辛い思いをしているのにやっぱり読んでしまうんです」


「それなのに読んでしまうの?」


「はい。小学生の頃に読んだ時はなんだか暗くて救いがなくって、もう読みたくないって思ったんです」


「それなのに読んでしまうの?」


 私は馬鹿そのもののとしかいいようがない、一言一句変わることのない質問をしてしまって、何となく恥ずかしくなった。


「小学生の頃は、暗いだけの話だと思ったんです。だって中学生の人との関わりを避けるような女の子が、実の親にバラバラにされてしまうなんてショック以外の何もないじゃないですか。小学生の時は夜眠れなかったんですよ。それもお伽話みたいな不思議な世界観で残酷な童話です」


「残酷な童話かあ、うん分かる凄いよく分かる」


「中学生になって読んだ時にわたし自身と重なることのない筈の彼女たちの運命が自分とどこかで重なり合ったんです。そして最期まで読んだ時、海野藻屑の運命をよそに何か救われたような気持ちになったのです。彼女は過酷な運命の果てに、嵐の夜に泡になってしまったというのに、彼女を取り巻く環境の変化で何か浄化されたような、救われたような気になったんです」


「清々しい感覚?」


「いえ、なんともいえない罪悪感と自己嫌悪に陥りました。カタルシスはあったんです。主人公のなぎさは少なくとも普通の人生を歩むことに成功しました。だけど先生はどうだったでしょうか。先生という職業に忠実で誠実で、皆のことを救おうとして結局失敗して」


「栞……」


「私が詩織さんに薦めたのは、私もまた読みたくなったからなんです。小学生の頃の自分と同い年の中学生の私と、今の少し大人に近付いた私。そしてもう一人の詩織さんというもう一人の同年代の私、その今の感想とあなたの感想を聞きたかったんです」


 図書カウンターでの返却本の整理を終えて、栞がこちらへと歩み寄ってくる。


「詩織さんは、友達のいない私にとって、もう一人の自分みたいな存在なんです」


「え?」唐突な言葉に思わず声を上げてしまう。彼女は目線をこちらから校庭の方へとやったままこちらに近付いてくる。


 顔は見えなかったが白い肌の下から血流があがって髪の間から見え隠れする耳たぶがカッカと紅くなっているのが分かり、私までドギマギしてしまった。


 彼女はどうにも赤面症のようで、普段あまり外に出ずに本ばかり読んでいるからか肌が白い。なので興奮してくるとすぐに顔が赤らむ。それを見て私もドキドキさせられる。いつものパターンだ。


 心の内に秘めている言葉が顔に書かれてしまっているような、裸なのに、それに気付かずに街中を歩き回っている人を見たかのようなそんな少しばかりの羞恥心と、ほんの僅かの説明のつかない興奮があった。


「もう一人の私……何いっているんでしょうね私は」


「いや、うん。山田なぎさと海野藻屑ってそんな感じしないかな。お互い歪んでてお互い穴埋めするような。それで最期嵐の夜にどこかに帰って行って、記憶の中で永遠に生きて。やだ私まで何いってんだろう」


「詩織さん。詩織さんはどこにも行きませんよね?」


 図書室の中で、空調の涼しい風に吹かれて栞の髪がふわふわと揺らいでいる。分厚いレンズの向こう側から覗いてくる視線は夏の日の逆光でよく見えなかった。


「私はここにいるよ。私は人魚でもないし、砂糖菓子の弾丸も、もちろん実弾も撃てないけれど、私は栞とここでこうして本を読んでその解説をして貰ったり、感想を言いあっったりするのが好き。だから今こうしている時間も大切に思っているよ」


 栞は、ふと息を吐いて視線をそらせた。


 光の加減が変わって、顔の凹凸に影が差し、彫りの深い彫刻のように思えた。


「詩織さん。あの。私もです。よかったらこれからまた『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の感想を教え合いっこしませんか。私は小学校の頃から三回読みました。初めて読んだ詩織さんのお話も聴きたいです」


「そうね。私は楽しく読めたとおもう。あの残酷な話で楽しんで読んだっていうのもなんだか変な気がするんだけれど、複雑な気持ちが色々と混ざり合って……」


 その日は下校を促すチャイムが鳴り終わるまで時が過ぎるのも忘れてずっと話続けた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る