第3話 ガルシア=マルケス『百年の孤独』
夏は暑い。とても暑い。とても暑いから空調の効いた図書室に行こうなどと、誰にする弁解でもないのに自分に言い聞かせ、今日も図書室に赴く。
そもそもが夏休みなのだから、特に部活に入ってもいないのに学校に毎日通う理由はないし、これでも補修は免れているのである。これ以上話すとボロが出るのでやめておこう。
昼前から正午にかけての日差しの強い時間に、地面からの強烈な日差しの照り返しを受けて、上からも下からも灼かれるので、図書室で涼をとるというのも掘った穴を埋め返す作業に似た何かを感じるが、何となく図書室に行けば何かがあるような気がするので今日も何となく行く。
家でゴロゴロしていると母さんから勉強しろと小うるさくいわれるのも原因の一つではあったが、これでもクラスでは品行方正な方で通っているのだ、ホントだよ?
勉強ぐらいやってやりますよというところである。まあ目標とハードルは低く設定して少しずつ飛び越えていく大器晩成型なのだ私は。
外は無駄に蒸し暑いのに廊下は石造りなのでひんやりしている。外からは野球部だかサッカー部だかそれとも陸上部だかのかけ声が聞こえる。
入学した時に陸上部の先生に熱心に入部を勧められていたが、あの時応じていたら別な人生が待っていたのかも知れない。私ほどの人物なら太股を曝して爽やかな汗を流し、男子共を悩殺しまくっていた所だろう。そんな被害出しても困るので、今のだらーんとした感じが丁度いいのである。
そんなことを考えつつ、図書室の扉を引くとひんやりとした空気が流れ出してくる。
「おはようございます、いえこんにちはですかね、詩織さん」
「おはよー栞」
彼女に会うために図書室に来ているのだろうか。時々何故長期休暇の時にまで図書室に足を向けるのか分からなくなるが、彼女の控え目で、どこか幽かな笑顔を見ていると自分が分からなくなってくる。
図書カウンターに座っている彼女は、墨を塗りたくったような抽象画の様な表紙の本を読んでいた。
「今日は何を読んでいるんですか、文学少女さん」
「敬語は禁止です」
栞は少しムッとした様な表情をチラリと浮かべて、本を覗き込んだ私の唇に白くて細い指を当ててくる。
この指は本のページをめくるためにあるのだろう。
「あと詩織さん、寝癖酷いですよ、折角可愛い……」
「え?」
何となく気まずくなるというか、かぁーっと頭に血が上る。
それを遮るように、ちょっとぎこちない感じで栞が語り始める。
「今読んでいるのはコロンビアのノーベル賞作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスの書いた『百年の孤独』です」
「ノーベル賞作家、川端康成とカズオ・イシグロぐらいしか知らないなあ。あと村上春樹が毎年騒がれているかなってぐらいかしら」
「ノーベル賞作家というと難しい純文学っていうイメージが強いとは思うのですが、世界中の作家の中から選ばれた作家が受賞するものなので、読んでみるとちゃんとエンタメしていたりして面白いんですよ」
「そのガルシアとかいう人の本も面白いの?」
「ガルシア=マルケスです。祖父と祖母の名前からとっていて、ガルシアとマルケスを併せて一つの名字なんです」
線が細くて控え目で、いかにもな文学少女なのに、結構細かいことにうるさいところがある。文学少女だから細かい所に煩いのかも知れない。
「この作品はブエンディア一族と彼らの作ったマコンドという集落の百年の歴史について語られています」
「あー最初の方の頁に一族の家系図みたいなの載っているのね。アルカディオとかアウレリャノとか舌を噛みそうな似たような名前の人が一杯いるね。あ、レメディオスって人もいる。コロンビアなんて珈琲豆ぐらいしか知らないけれど有名な人もいるのね」
「一族の長、ホセ・アルカディオ・ブエンディアの長男の血脈がアルカディオ、次男の方がアウレリャノと覚えておけば大丈夫です。コロンビアに限らずラテンアメリカは文学の宝庫なんですよ」
「ラテンアメリカ?」
「はい。中南米の主にスペイン語圏の国々ですね。もともとスペインのコンキスタドールが侵略してラテン語を使っていた国々の総称です。ノーベル文学賞の作家は一杯いるんですよ」
「へー知らなかった」
「ラテンアメリカ文学の特徴は魔術的リアリズム、つまりマジック・リアリズムと呼ばれる手法が特徴的です」
「何それ。難しそう」
「そうですね、正確なところを説明しようとすると長くなってしまうんですが、コミック的表現とか驚異や奇跡が現実のものとして実際に起きている様な表現の事を指します。例えば『百年の孤独』だと村に教会を建てようとした神父が、神の奇跡を見せるためにチョコレートを飲んで空を飛んだり、人の死に際して空から黄色い小さな花が降り注いで、あまりの量に家畜の呼吸を塞いでしまうという表現があります」
「ファンタジー……なのかな?」
「そうですね。ファンタジーというか土着の信仰と現実が混ざった表現といわれています」
「面白そうだけど分厚いね」
栞は一旦本を閉じて、なにか愛猫でも撫でるかのように本の上に白い手をのせて本の表紙に視線を注ぐ。
「ノーベル賞とか純文学というと難しそうに聞こえますが、この本も所謂ベストセラー作品で、作者が『ホットドックのように売れた』といって驚いたほどの勢いで皆買い求めたそうです。分厚そうに見えるけれどあっという間に読み終わってしまいます」
「あらすじを少し教えてよ」
彼女の本の雑学を聞くのはなんとはなしに何時までも聞いていられて、なんと説明していいのかは分からなかったが、私の少ない語彙で言うと楽しかった。
「あらすじですか……」
そう言うと栞は小首をかしげて少し考え込む。
「作家の池澤夏樹が解説しているのですが、これ以上細分化出来ないほどの小話の断片で構成されている作品なので、あらすじというのは難しいのですが『ブエンディア一族とマコンドの百年に渡る栄枯盛衰の歴史』としか説明出来ないですね。でも内容は凄いエンタメしているんですよ」
「私にも読めるかな?」
「お勧めしますよ」と、いって栞は私に本を差し出してきた。図書室は空調が効いていたが彼女の透明な白い肌の額には薄らと汗が滲んでいた。
差し出した手振りから彼女の汗の香りと本のインクの臭いが混ざった匂いが漂ってきて、一瞬クラッと来てしまう。何が起こったか分からなかったが、胸が凄いドキドキする。
「難しいことは考えなくっていいんです。コロンビアの歴史とか政治とかそういう部分は読み終わった後から感じ取ればいいんです。ようは楽しく読めれば読書っていうのはそれで完結するんです」
栞は立ち上がり、分厚いレンズの奥の底の焦点があわないのか顔をグイと近づけて、耳元で囁く。
「楽しんだもの勝ちです」
耳に吐息が掛かり、彼女の前髪が耳に掛かりこそばゆい。
「愛と孤独の物語です。そう、百年に渡る壮絶な愛の物語です」
そう言って彼女は耳打ちするようにいって顔を離し、私の黒目の中心を真っ直ぐと夏の焼け付く太陽光のような光線を出して見つめてくる。
不意に心拍数があがる。
耳の中にドクドクと血が流れ、赤血球が血管内の壁にぶち当たりバチバチと弾ける音まで聞こえそうだった。
彼女の吐息からは何か甘い、沈香のような香りがする。汗の香りと彼女の中から滲み出る香りだ。
季節は夏である。
もしかしたら私は今は聞こえなくなってしまった校庭からの喧噪に混ざって汗を流す青春を過ごしていたかも知れない。
それはそれで掛け替えの無いことだったろう。
でも今は、ただ二人。誰にも邪魔をされない図書室の中で本について語り合っている事が楽しかった。
きっと私はこうして彼女と静かな中で、何か運命の糸に絡め取られてここに来る運命だったのだろう。
そして、毎日なんだかんだと理由を付けて図書室に来る理由がボンヤリと心の中に浮かび上がっていたが、何となくそれを自覚してしまうと、何か後戻り出来ないような気がして、ただ彼女が差し出す本を受け取り胸に抱いた。
まだ栞の体温が残っているのが、少し冷えすぎの図書室の中で心地よく感じた。
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