第2話 芥川龍之介『羅生門』

 外からは遅咲きの桜の花びらが豪奢に落ちる音が聞こえてきた。図書室では半ば微睡んだような時間が流れている。


 手元の本をめくる手が少しずつ遅くなってくる。


 国語の教科書に載っていたという理由だけで読み始めた、芥川龍之介『羅生門』だが、普段本をほとんど読まない私には、二十頁足らずの作品でも少し長く感じてしまう。


 ふう、というアンニュイな吐息を吐き、椅子の背もたれに身を預ける。


「芥川龍之介ですか」唐突に左耳にふと暖かい吐息が掛かり、吃驚して「うわっ!」と声を上げてしまう。


「あ、ごめんなさい。私驚かす気は……」


 彼女は私の見る限り完璧な図書委員だった。

 分厚い黒のセルフレームの眼鏡。

 レンズも分厚いのが嵌まっているのがよく分かる。顔の輪郭が歪んで見える。


 黒く長い髪を編み込んでお下げにしているが、少しバランスを崩したら古くさくて野暮ったくなるダサいバランスなのに、その絶妙なバランスを保って一枚の絵画のように様になっている。


 スカートの裾は学校の指定通りにビシッと、臑の辺りまでおろしていたが、普通はもうダサくて仕方なく感じてしまうその佇まいも、スカートの裾の向こうからチラチラ見える黒ストッキングがなんだか「清楚」な「お嬢様」といった雰囲気を醸し出している。


 何となく色気を感じないでもない。


 その首元から露出した色白で透明な肌の下から、血の流れが薄らと透けて見えて、微かに上気した桜色の頬からは薄らと甘い春の香りと青春の文学の白檀のような香りが匂い立つようだった。


 ボンヤリしていると顔がぐいぐい近付いてくる。


「栞さん!」


 相変わらず距離が近い。


 そうなのだ、その分厚い眼鏡の度が合っていないからなのか、そもそもパーソナル・スペースの概念がないからなのかはわからなかったが、同性なのにあまりにも距離が近すぎて、そして、こうして声をかけてくるのが、いつもあまりにも唐突すぎてドキドキさせられる。


「詩織さん。私に『さん』付けはやめて下さい」


 彼女が桜貝のような春の海辺にさらされた、なにか秘密を持った貝殻のような薄桃色の頬を微かに膨らませて抗議の声を上げる。


 彼女の名は「栞」といった。


 文学少女で、図書委員で、名前が「栞」である。あまりにもできすぎていて三文シナリオの見本のようである。


 そして私は彼女に、名字ではなく、名前で呼び捨てにすることを強いられている。線の細い幽かな雰囲気を持った彼女であるが変なところで強情っぱりで、見ての通り「栞」と呼び捨てにしないと機嫌を損ねてしまう。


 そしてもう一人の「しおり」である私のことは、何度もお互いに呼び捨てにするか、ややこしいので名字で呼び合おうという提案を却下されて、彼女だけ頑なに私に敬称を付けて『詩織さん』と呼ぶのである。


 一年の頃からそんな調子だったが未だに慣れない。むず痒い気持ちが心の底で蠢くのである。でもそんな彼女のことを私は好もしく思っていたし、彼女も読書家というわけでもなくて、ただたんに気まぐれで図書室に一度足を運んだ時に一言二言声を交わしたというだけなのに、そんな些細なことが切っ掛けで私に謎の好意を寄せてくれたので、それ以来何となく図書室に通うようになって、そうこうしている内に、前述の通り名前で呼び合う仲になっていた。


 私はそんな関係を何となく楽しんでいたけれど、彼女の見かけに反して強情っぱりで、距離の詰め方がおかしいことには内心ドキリとさせられることもあった。


 もちろんそれは嫌ではなかったし、どちらかといえば彼女との仲が近くなったようで悪くない思いをしていたが、中々どうしてドキドキさせられる。心臓に悪いじゃないか。


「『羅生門』読んでいたんだ。教科書に載っていたから何となく興味を持ったんだけどなんだか私には良さがよく分からなくって」


「『羅生門』は近代小説の先駆けですよ。2003年から全ての出版社の教科書に採択されています。1973年まで遡っても確かほぼ全てに採択されていたはずです」


 相変わらずよく分からないことを知っている。


「へぇ、なんでなの?」


「詩織さんは、今までに国語のテストで『作者の気持ちを書きなさい』って問題解いたことありますか?」


「えーと、よく出ていたような記憶があるけれど……」


「実はそれは思い込みです。文章中に記述のない文章の抜き出しや、要約は採点するための絶対的基準が設定出来ません。私、調べてみたことがあるんですが、確かに作者の気持ちや考えを問う問題ってなかったんです」


「えー、そうだったの?」ってか調べてたんかい。




「はい。それで話は元に戻りますが『羅生門』は近代小説の先駆けで、歴史的価値がしっかりとしていますが、下人が老婆から服を奪い取るところで、語り手である下人の心情ともう一つの視点の作者の言葉ではっきりと、悪事を働いても仕方の無いことだと語っています。私もそんなに読書家ではないですが、私の知る限りで本当に作者の考えがしっかりと書き出されている、論文や批評文以外の通常の物語小説は『羅生門』だけです」


「そんな特殊な例だったの?」


「はい。解釈の分かれようがないので国語の教科書でこうして採択されているのです」


「そんな理由があったの?」


「他にも中島敦『山月記』や夏目漱石『こころ』、森鴎外『舞姫』なんかが国語の教科書四大作品なんですが、どれもこれも私たちみたいな高校生のエゴが確立される時期に刺さる内容になっています。それにもう一つ加えるとしたら太宰治の短編のどれかなんですが、どれも若い人が悩んでどうにかこうにかなってしまうという話ですね。『羅生門』にしても下人は顔の面皰を何度も気にしています。若い男であることは明白ですね」


「私は栞さんみたいに読書家じゃないから、そんなに作品名あげられてもわからないよぉ」


「『栞さん』は禁止です。『栞』です」


 ムッとした口調で彼女が私の唇に指をそっと押し当てる。


「ごめんごめん」


 彼女が私の背中に覆い被さるようにして、本のページをめくる。私の手を取って指で最期の文章をなぞる。


「ここなんですがね、最期下人は闇の中に消えていってその行方は杳として知れないとなっていますね。これ実は書き直されていて、初稿だと強盗を働くために京の都へと駆けていくって内容だったのです」


 彼女の春風のように暖かい吐息が耳にかかり気怠く実にアンニュイな気分になる。


 同性相手に何をドキドキしているんだ私は。


「そうなんだ。私は、最期どうなったか分からない方が想像が膨らんでいいかなって思うかな」


「そうですね、文学の研究者でも書き直された後の方がよいという意見の方が多いようです。でも私は、覚悟を決めて地獄に落ちる決意をしたという、強盗に身をやつすという最期の方が好きです。だってあれほど作者の考えが表に出ていて、最期だけぼかすのもスッキリとしません。だったら最期まで訴えたいことをズバリと言ってのける方が素直です」


「そういわれると、そんな気がしてきた……」


 栞はにこりと微笑むとまた一段と顔を近づけてきた。


「私は人の考えにものをいえるように意志の強い人間ではないですが、人の意見で読み方を変えてしまうのは勿体ないですよ。仮に誤読であっても、読み取れて感じあったことは読み手のかけがえのない体験なんです」


「う、うん……」近い、顔が近い。彼女の垂れた髪の毛が私の頬にさらりと触れる。


 彼女は、ふと息をはいて少し離れてアルカイックな微笑みを浮かべる。


「でもこんな偉そうなことをいっていても『羅生門』は個人的には現代人の価値観からすると少々直裁に過ぎて、内容を語りすぎで、言い方は悪いですがやや単調に感じてしまい、歴史の重み以外の価値は薄くなっているのではないかと思います。あくまで私の意見ですよ。詩織さんがそう思ったり私の意見に左右される必要は無いのです」


「でも栞さ……栞がそう言うんだったらそうなのかもなあ」


 さん付けしそうになって慌てて言い直す。

 彼女は穏やかに微笑んだまま佇んでいる。


「当時の作品を当時の価値観で見ることは必要です。でも読み物なんだから現代の価値観で当時のものを見てみる視点があってもいいと思うんです。だから私は詩織さんがここに来て少しでも本を読んでいってくれることが嬉しいんです。そしてこうやって本の感想を語り合ってお喋りするのが、その……」


「えっ、何?」


「あの、その……今まで私友達とかいなかったし、本の話が出来る人もなかったから嬉しかったんです。図書室に来る人は皆は中間期末テストの前に自習しに来る人たちばっかりで、詩織さんみたいに、本の話に付き合ってくれる人っていなかったので、私嬉しくって……」


「私ももっと本を読んで栞と色々お喋りしてみたいなあ」


 本を手元に置き、頭の後ろに手を回して背もたれにだらしなく身を預ける。


 まあ私は本質的に、だらしのない人間なのだ。何もかも完璧にこなしているように見える栞とは正反対だと思う。


 そんな私から、脳のどの部分も使わずにぼやーっと口から出た言葉だったが、彼女はかあっと紅くなり肌からなんだか熱波のようなもの放射されてきたのが感じられた。なんだかわたわたとして取り乱している。


「どうしたの?」


「いや、私、その……これからもよろしくお願いいたします!」


 私も栞の慌てた様子を見てどう反応していいのか分からず、その慌てぶりが感染してしまい、私は私でなんと言っていいのか分からずテンパって、わたわたとして一言。


「あの、これからもよろしくお願いします」


 そういって彼女の暖かく白い手を両手で包み込むように握った。


「わ、わ、わ」栞が酷く慌てている。


 私もとっさの行動が、何か酷く重要な、押してはいけないスイッチを叩いてしまったような心持ちになり、内心パニックになって、黙り込んでいたにもかかわらず顔が真っ赤になっているのが分かった。


 校舎の外からは運動部が何やらわーわーと声を上げながら練習をしていくことが聞こえてくる。


 そして桜の花びらが地面にゆっくりと落ちていく音だけが遠くから聞こえてきた。


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