第7話 ホルヘ・ルイス・ボルヘス『伝奇集』

「最近ね、栞のおかげで本を読むようになってきた気がする。私も栞みたいに『文学少女』になれるかな」


「『文学少女』って……私は確かに自分から図書委員になったけれど、別にそんなに本ばかり読んでいるわけじゃないですよ」


 栞が口を尖らせる。


「それに『文学少女』ってなんだか暗そうなイメージないですか?」


「そうかなぁ。栞は私にしてみれば『文学少女』のイメージにぴったりだし、暗いっていうよりもなんだか、知的っていうのかな。インテリーな印象有るけれど」


 栞が読んでいた本で顔を半分隠して眼鏡の奥からこちらをじっと見つめてくる。何気なくいった知的な印象といわれたことが恥ずかしかったようである。


 彼女は肌がやたらと白い上にすぐのぼせる質なので、何かあると顔がすぐ赤らむというのが誰の目に見ても明らかである。


 もし男子に告白でもされたらどうなってしまうのだろうか?


 慌てふためいて取り乱すか、案外冷静にお断りするのか。どっちか両極端だろうけれど、恐らく後者なのだろうなという、根拠のない確信だけはあった。


「所でその本は何?」


 黒地に紫色でおじさんの顔が描いてある本だった。知らないおじさんだったが、私が作者でございますと主張しているのがよく分かる。


「ああ、この本ですか。これはホルヘ・ルイス・ボルヘス『伝奇集』です」


 本の話題に切り替わると突然スイッチが切り替わる。彼女とはそんなに長い付き合いじゃなかったけれどこれは付き合い始めてすぐに理解した事柄の一つである。


「詩織さんは私のことを『文学少女』といいましたが、ボルヘスに比べたら小指の先にも届きません。彼は『盲目の巨人』と呼ばれるのに相応しい人です」


「盲目なのに読書の達人だったの?」


「はい。彼はアルゼンチンのブエノスアイレス出身で、国立ブエノスアイレス図書館の館長も歴任した人です。彼の父は盲目で、生まれた時からやがて自分も光を失う運命だったのは分かっていたようです」


「図書館の館長さんだったんだ。栞みたいだね」


「からかわないで下さい!」


 また赤面する。コロコロ表情が変わるので反応が見ていて面白い。


「彼がどれだけ文学に傾倒していたかというと、ダンテの『神曲』を原語で読みたいがためにイタリア語をマスターしたほどです。それも通勤バスの中で読んでいた期間だけで読み切ってしまったそうです。さらには彼の母国語のスペイン語訳や他の原語との翻訳の違いを知りたいがために各国語版の『神曲』を読んで、ありとあらゆる所に注釈を付けました。その講義を纏めた本もでていますよ」


「うわ、天才じゃん!」


「実際博覧強記の人で、一度覚えたことは決して忘れず、光を失い母親や彼女が亡くなった後は仲間の作家や見所のある学生に音読させて本を耳で読んでいたそうです。頻繁に彼は音読を止めては他の著作への言及や、注釈を加えていたそうで、彼を慕う仲間は驚き感動していたそうですが、母親はそれが凄く嫌だったそうですよ」


「あはは、そりゃそうだよね。でも凄い人なのね本当に。それだけ記憶力が強いとテスト楽勝だったろうね」


「ふふ、そうですね。また義理堅い人でもあって、ラテンアメリカ圏初のローマ教皇であるフランシスコ教皇が神父時代の教え子の書いた作品をボルヘスに読んで貰い、講評を貰った時、出来がいいので纏めて出版しようと提案されたそうですが、お世辞だとフランシスコ教皇が思っていたら後に本当にボルヘスの尽力で出版されたそうです」


「世話好きな人なんだね」


「そうですね。それだけの『読書の天才』なので、本に対するフェティシズムや強力な思い入れもあったらしく、本がモチーフになった話が結構あって、この『伝奇集』の中にも『バベルの図書館』という短編が登場します」


「短編かあ。難しそうだけれどそれなら読めるかな」


「ボルヘスは生涯自分のことを詩人であるといって、小説はあくまで余技であるとしていました。そして小説の精髄は短編にあるとして、短編のみしか書いていません。カフカも短編ばかり書いていますが、そのスタイルは長編を三本だけ書いていたカフカよりも徹底していますね」


「短編とか薄い本の方が好きだなあ」


「短編ですがラテンアメリカの作家というのは複雑な構造の作品を書く作家が本当に多くて、この『伝奇集』も構造は複雑です」


「難しい?」


「いえ、全然。この『バベルの図書館』は部屋の中心に無限に続く穴の空いた六角形の部屋のがあり、全部の壁に本棚があってそこに本がぎっしり詰まっていて、そこに先祖代々宇宙の全てが記載された無限に頁のある一冊の本を探し求める司書達が彷徨っているというお話です」


「へーファンタジーなのかな、いかにも読書家が考えた話みたいで面白そう」


「ボルヘスはブエノスアイレスを流れるラ・プラタ川に因んだ、ラプラタ幻想文学という系譜で語られます」


「幻想文学かあ。なんか私も『文学少女』になれそう」


「もういい加減『文学少女』から離れて下さいよ。詩織さんは『文学少女』にどんなイメージを持っているんですか」


「そりゃあもちろん栞みたいな三つ編みお下げで、眼鏡っ娘で、図書委員で……」


「もうやめて下さい!」


 栞がもう恥ずかしいといわんばかりに叫んだ。


 ちょっとばかり、からかいすぎたかな。


「ごめんてば、本の話してくれる友達って栞しかいなくて、それにいつも本を読んでいるからそのイメージがさ」


「もう。そんな詩織さん嫌いですよ」


「ごめんてばー」


「えーと、気を取り直してですね、ボルヘスは私たちの何倍も生きているから比べようもないですが、私が読んだことのある本は精々この図書室のブロック一つか二つ分だけだと思うんですけれどね」


「そんなに」


 ブロック一つ分とは何処の区画のことを指しているのかは分からなかったが、恐らく一番大きい区画割りのことを指しているのだろうというのは何となく分かった。


「ボルヘスに比べたら大したことはないのです。彼は友人でありよき盟友であったビオイ・カサーレスと頭の中だけで本を作って、お互いに音読しては執筆活動の他にもそうして本を脳内で書いたり読んだりしていたそうです。私は本を読むのは好きですがそんなことは出来ません。ボルヘスこそ本物の『文学』そのものを体現した人です」


「栞がそんこまでいうのも珍しいね」


「好きなんです」


 真顔でこちらを向いて好きなんていわれると、こちらもドキドキしてしまう。


「詩織さん顔赤いですよ。どうしたんですか?」


「ああ、いや、なんでも……」


 今度はこちらが慌てふためく。


「詩織さんが、詩織さんが私のことを『文学少女』だというならば……」


 唐突に話が変わり、彼女がまた顔を本で隠す。


「図書室で本を読むのが好きだといってくれるのなら、私とボルヘスのように本を読み合ったりお話を作ったりして本当の『文学少女』になってみませんか?」


 唐突な告白にドキドキさせられてしまう。


「まずはボルヘスを読んでみて下さい。短いからすぐ読めますし、多分お好きなはずですよ」「私も『文学少女』になれるかな?」


「ちょっと分からないですね」


 そういって栞が悪戯っぽく笑う。時々そういう意外な表情を見せてくるのがズルい。


「でも詩織さんと一緒ならボルヘスは無理でもこの図書室の本を全部読むぐらいは出来る気がしますよね」


「えー無理だよ。卒業までに間に合わないって」


「おばあちゃんになるまでまだまだ時間はありますよ」


 彼女の台詞に二人して笑った。

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