臆病が走る

水鳥

臆病が走る

 僕の友人は臆病である。


 何て変わったところはない、多数決では必ず「多」の中にいるような極めて普通の人間である。普通に高校を卒業し、普通に大学を卒業し、普通に一般企業の普通の営業職に就いた。特徴を書こうにも苦労する、中肉中背の青年だ。しかし、唯一変わったところと言えば彼の口癖。


「僕は臆病だ」


 いつからだろうか、その口癖は僕たちの日常となっていた。何度聞いたかなんて覚えていない。それほどにしつこく聞かされると本当に彼が臆病な気がしてくるもので、試しに肩にミミズでも乗せてやりたくなる。


 彼は本当に臆病か、それを肯定する者もいなければ否定する者もいない。臆病なんて言葉にはそもそも基準がないから真偽の確かめようもないのである。僕たちは本人が言うのだからそうだろうと軽く考え、深追いはしなかった。「彼は臆病である」という方程式は崩されることなく曖昧に形を保ったまま今日にまで至る。


 そう、これはそんな平凡で臆病な彼のとある夏の話。



 晴れ渡った空に一つだけ浮かぶ小さな雲は手を伸ばせば掴めそうだ。わたあめのようなその姿はこの場所からもはっきりと見えていて、ゆっくりと太陽に近づいている。空を泳ぐ雀が雲に潜ってしまうのではと思う。本当に潜ったならば、どれくらい気持ちいいだろうか。計り知れない世界である。


 僕とその臆病な友人は公園にいた。彼は幼い息子を連れている。学校のプール程度の大きさの公園は数々の木に囲まれ、象のすべりだい、キリンのぶらんこの遊具のみがあり、車道に隣接しているにも関わらず何故だか静かに感じる空間である。僕と友人、彼の息子の他に自然を愛する動物たちが公園を訪れていて、時間を共有している。


 彼の息子は公園の中央でボールを追いかけ、僕たちは隅でそれを眺めているだけ。僕一人がぶらんこに揺られ、友人は近くのベンチに腰かけていた。「若者は元気だな」と還暦を過ぎた高齢者のようなことを呟きながら。


 蹴り上げられたボールが宙を舞った。落ちたボールはぽんと跳ね、茂みの近くへ転がり込む。


 その時、影のように黒い猫が茂みの中から飛び出して来た。うとうとしながら過ごす昼の一時を彼のボールが邪魔をしたらしい。黒猫は急いで逃げるが、それが凶と出る。好奇心の塊である息子は猫を目にした途端、茂みに潜ったボールの存在さえ忘れて黒猫を追い始めたのである。まるで猫のように瞳を光らせて。


 黒猫は逃げる。息子は追いかける。涼しい顔をしている黒猫と、夏の太陽より眩しい笑顔の息子。公園の中を円を描くようにして騒がしく走る。行く先にいたダンゴムシは地を踏む音に驚いて丸くなる。息子は自分が小石を蹴り飛ばしたことにも気付かずに駆け回る。


 友人は先程購入したカップアイスをスプーンで口に運びながら呟いた。


「面白いね」


 何がと問うと友人はくす、と笑う。


「あの猫はあんなに涼しい顔をしているのに、内心では人間に怯えている。臆病だ。僕と同じ、臆病者だよ」


 楽しそうな笑みの中に自虐心は含まれていないように感じた。それは、仲間を見つけた喜びだろうか。ただ鬼ごっこを続ける息子と黒猫を楽しげに眺めている。その横顔は、紛れもなく父親のそれである。


「楽しそうだ」


 夏の暑い日差しを受けて、カップアイスは早くも溶け出していた。



 わたあめ雲が太陽と被さり、どこかで烏がカアとなく。それは合図か、偶然か。


 長く続いていた鬼ごっこにも終止符が打たれようとしていた。


 余裕と冷静を振りかざし、黒猫が進路を変えたのである。ひたすら公園に円を描いていた黒猫が向かった先、それは公園の出口であった。訳もわからず追いかけられるばかりの黒猫は出口に鬼ごっこの脱出口を求めたのである。


 しかしそれで諦める息子ではなかった。進路の邪魔をする赤いボールを隅へ蹴り飛ばす。そして「急に車道に飛び出してはいけない」と言う父からの忠告さえ忘れて公園から飛び出した。


 友人は急いでベンチから立ち上がり制止を呼びかけるが、無我夢中の息子には届かない。僕が立ち上がるよりも先に友人は険しい顔で息子を追った。


 公園を出て間もなくの場所にある信号の青が点滅している。人間のルールを知らない黒猫は涼しい顔をして横断歩道を駆け抜けた。


 そして信号が赤に変わったそのとき、息子は黒猫の後を追って横断歩道へ飛び出したのである。


 遠くにいたトラックは間もなく近づいてくる。近くにいた人々が「危ない」と叫ぶも、意味がない。


 僕は気付けば公園から出ていた。


 横断歩道が遠く感じる。


 ふと右に視線をやれば、そこには先程よりも一層大きくなったトラックが、クラクションを鳴らして――。


 自分から血の気が引くのを感じた。


 「人の死」の覚悟。


 目を逸らしたい、今ここで瞬きをしたまま瞼を開きたくないとまで思う程に。


 しかし、瞬きをする寸前に視界へ飛び込んで来たのはトラックに気付いた息子ではない、血相を変えて横断歩道へ飛び出した友人の姿であった。


 人々の金切り声が響き渡る。


 何も知らなかったトラックが叫び声を上げている。


 黒猫は路地裏へ消えた。


 烏は西へ飛び立った。


 間もなくトラックが親子へ接触する。


 その瞬間。


 友人は息子をその身体全体で包み込み、地を蹴った。


 その身体が宙に浮く。


 一瞬。トラックが横断歩道を駆け抜ける。ブレーキが間に合わず、充分なスピードを抱いたまま。


 親子の姿は見えない。


 人々の叫び声は頂点に達し、トラックの叫び声は轟き、人々の耳を支配する。何も聞こえない。悲劇を覚悟する声以外は、何も。


 誰もが力一杯に目を閉じた。


 その中で僕一人が目を閉じなかった。閉じることが出来なかった。何か大きな力が僕に呼吸する余裕さえ与えなかったのだから。


 そして、僕は見たのである。


 トラックが通り過ぎたその向こう、大きな瞳から大きな涙を零している息子の姿を。その息子の頭を、腕と足に大きな痣を作りながらも撫でている友人の姿を。


 数秒の時差、人々は安堵の声を漏らす。何事もなかったように道は車が行き交い、歩道にもやがていつも通りの平穏が訪れる。耳を支配していた叫び声は消え、代わりに僕の鼓動が鼓膜を揺らした。僕の心臓は先程まで動いていたのだろうか。


 信号が青に代わる。横断歩道の向こうでは息子が何度も謝っていて、友人は笑顔のまま息子の頭を撫でるばかり。自分自身の怪我を一切気にせず、息子ばかりを心配して。


 ――僕は臆病だ。


 二人の元へ駆け寄る途中、ふと友人の言葉を思い出す。身体を張って、命を賭けてまで息子を救った友人の普段の口癖を。


 わかっている。普通、このようなときは第一に二人を心配する声をかけるべきなのだ。


 しかし僕は駆け寄ってまず問いかけた。


 君は何故、いつも自分は臆病だと言うのかと。息子の為に命を賭ける君は勇敢ではないかと。


 友人は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに笑みを浮かべて言う。


 まるで、当然の理を話すかのように清々しい笑顔で。



「僕の息子は名も知らない猫の為に命を賭けるが、僕は大切な我が子の為じゃないと命を賭けられない。息子は勇敢だ、僕はなんて臆病なのだろう」



 僕には、言葉がなかった。

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臆病が走る 水鳥 @miz_vhb

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