美波

美波

「あっちはどうだった、えらかったか」

「えらかったねえ。人が多くてかなわん」

「仕事は?慣れてきた?」

「ん、まぁね。いい会社だと思うよ」

 そりゃあよかった。母は茶菓子の包装を開けながら、安心したように笑った。盆休みに帰郷したものの、そう何年も実家を空けたわけではない。ぐるりとリビングの椅子から部屋を見回しても、大して変わった様子は見られなかった。だから落ち着いていられる。

「ね、父さんは?」

「近所の集まり。いつもの」

「よう飽きもせんね…」

「あの人らも自分の子どもたちが地元から出て行って、寂しいんやろ」

「寂しがって乳繰り合っとるくらいなら、地元盛り上げるために生産的なお話し合いでもしたらええのに」

 あえて意地悪く言っても、母は苦笑いするだけだった。

 地元は廃れた。どうしたって仕事が多くて便利なのは東京か、それに近い場所だった。自分は交通機関が二、三時間に一本あるかないかのような、とんでもない田舎に未来を描けるほど熱意に溢れた人間ではないし、そうはなれない。そう思うのは同年代の若者たちも同じで、大半は大学に進学したら、こちらに戻らないまま東京で就職するなんてことはザラだった。きっと地元はさらに寂れていくだろうし、今残っている自分よりも若い世代だって、ここを出て行くのだろう。

 集会と称した、中身の無い飲み会めいたもの。揃っているのは馴染みの面子ばかりで、最近はどうだ、ぼちぼちですゥ、といった定型文のようなやりとりばかり。幼い頃は親に連れられて行った覚えがあるが、近所の誰かの息子がどこへ進学した、上京した、ハァ〜やれやれ誰か地元に残る奴はいねえのか、といった話題で持ちきりだったのを覚えている。

 つまらない大人しかいなかった。

「父さん帰ってくるまで外出てくる」

「どこ行くん」

「海」

「今から?」

 一瞬怪訝に細められた母親の視線を掻い潜り、携帯端末だけを持って玄関に向かう。玄関で靴紐を結び直していると、一拍置いて、暗くなる前には帰ってきなさいよ、というリビングから響く。はァい、と間延びした返事をした。

 東京の大学に進学し、夏休みなどの長期休暇には一応帰ってきてはいた。しかしやはり大学を卒業してあちらで就職してしまうと、中々こちらへ戻る機会が無かった。実家の周辺にあまり大きな変化は見られなかったが、母いわく、近くの商店街なんかは大型ショッピングモールに客を取られてえらいこった、らしい。うちは市役所勤務の公務員だからまだ直接的な打撃は受けてないけどねえ、とも言っていた気がする。沈みかけの船、もとい地元に残っているという点ではどちらも似たようなものだ。父は娘も公務員になって地域に貢献、そして手頃な男を捕まえて結婚するだろう、なんて考えていたようだが。自分たちではどうにもならないが、若い世代がこれからなんとかしてくれるだろう、そんな投げやりな期待が見え透いていた。知らん知らん、だから若者は逃げるのだ。

 玄関を開けると、海が近い地域特有の、湿った潮の香りがした。長らく放置していた実家のママチャリを車庫から引っ張り出す。埃をかぶっている様子もなく、母の移動手段としてたまに使用されているのが伺えた。中高校生時代はこれが唯一の足だった。基本使えればいい、といった雑な考えのもと、自転車のデザインなど気にしたこともなかった。小学校以前も地元からも車でしばらく飛ばせば大型ショッピングモールがあった。そこには地元の商店街では見られなかったような、最新のキャラもの筆記用具や洒落た衣服ばかりで、都会ってすごいんだなぁ、と感激していた。

 都会が特別すごいのではなく、地元が遅れているだけだと気づいたのは、中学生になってしばらくした頃だった。

「あっつ…」

 海を目指して、自転車のペダルを漕いだ。唯一持ってきたスマホはジーパンの後ろポケットに突っ込んだ。落とすかもしれないが、それはまぁその時ということで。冬は寒いし夏は暑い。まとわりつく潮の香りを鬱陶しく感じるばかりだったが、久しぶりにこれを体験すると、やはりこうでなければな、と思ってしまう。地元のアレが嫌、コレが嫌、そう疎ましく思っても、しばらく離れて都合の良い時に戻ってみれば『懐かしく、心地よい土地だ』と思ってしまうのが、我ながら現金だと自嘲した。

 古臭い考えを捨てきれない年寄りたちが嫌だ。遅れた街が嫌だ。何もないのが嫌だ。大型ショッピングモールという世界が、小さな『都会』だった頃。子どもながらにその差を思い知らされていた。きっと本当の都会は、東京は、ああいうのがたくさんある、最先端の街なのだろう。

 そうだよ。東京にはたくさんのものがある。こんな田舎とは全然違う。

 かつての同級生の彼女を思い出した。都会から引っ越してきた、中学の同級生だった。苗字は忘れてしまったが、名前は海に因んでいるということで、しっかり覚えている。

 ミナミ。美しい波、と書くらしい。地元から他所へ引っ越して転校して行くのはよく見たが、わざわざ都会、東京から地元にやってくるとは珍しいなと思ったのを覚えている。中学二年の途中、都会からやってきた、東京からやってきた、それだけでも注目が集まった。しかしそれ以上に、新しい同級生に興味があって、積極的に話しかけた。うちの地元、何も無いけど。海があるよ、夏は特に綺麗なんだ。太陽の光が反射してさ、キラキラ光って。汚すものが無いから、海も透き通って色んな魚いるしさ。綺麗なんだ。今週は他の子たちと釣り行くんだけどさ、ミナミも一緒に行かない?

 行かない。暑いから嫌。

 なんだこいつ。別に来ないんだったら嫌がらせしてやる、とか意地の悪いことを考えていたわけではないが、あまりにも愛想なく断られたものだから、ムッとした。海しか取り柄がない地元の娯楽は限られたもので、ゲーム機を買い与えられている子どもが周囲には少なかったこともある。夏の間は海で遊ぶのが定番だった。暑いけど、楽しいよ。ここで引くのも腹立たしく、あえて食い下がる。

 楽しくない。好きじゃない。こんな田舎。

 こちらと目を合わせず、ミナミはそう吐き捨てた。

 潮の香りが強くなった。海が近い。自転車から降り、人の気配が無いのをいいことに、Tシャツの裾で汗を拭った。汗と海の匂いは似ているが、汗の方は少し鉄臭い。海岸近くまで寄ると、押して歩いた自転車に鍵をかけて、ガードレールの近くに停める。砂浜に足を踏み入れると、水平線に夕日が差し始めていた。

 ミナミは東京生まれ東京育ちの、生粋の都会っ子だった。地元に引っ越してきたのは親の仕事の都合なのかと思っていたが、違ったらしい。なんでも、ミナミの親は地元の海や自然に憧れて、わざわざ都会での暮らしを捨ててこちらにやってきたと言うのだ。海以外うちには何も無いのにねえ、と母は首を傾げた。何も無いのがいいんですだとよ、と父は苦い顔をした。当時こそ何も無いことの何がいいのかわからなかったが、上京して都会に慣れると、その気持ちもわからなくはなかった。しかし、ミナミは田舎に夢を抱いてやってきた両親とは違った。

 東京に帰りたい。友達に会いたい。こんな田舎、何も無いのに、お父さんとお母さんは何がいいのかわからない。

 海を見つめて、ミナミは泣いていた。役所の娘さんだから、地元のこと詳しいでしょう、何の根拠もない理由でミナミの世話を任されていた時期があった。今ならわかる、あれはただ厄介払いの言い訳だった。

 ミナミはクラスでも、学校でも浮いていた。まず本人に仲良くしようとする気がない。そして生粋の都会っ子であるミナミは、生徒たちから敬遠されていた。『気取ってる』『近付き難い』。実際その通りだったが、それはただ都会っ子だから、という理由で済まされるものではないとも薄々わかっていた。『ミナミは扱いづらい』という共通認識を学校の皆が抱いているくせに、それを放って投げるのもどうなんだと憤った。

 しかし、それでも、世話を押し付けられたとしても。通学路を教えるために一緒に帰ったあの日に、ミナミは泣いていた。何も無い地元の、唯一誇れる海を見て、ミナミは泣いていたのだ。

 田舎は嫌だ。東京に帰りたい。

 田舎なのは自覚している。何も無くて嫌だな、そう思っても、自分が生まれ育った地元だ。それを貶されれば多少は腹が立つ。初対面のミナミを、海に誘った時も腹が立った。それでも、この時は違った。夕日が差し始めた頃だったため、水面に赤い光が反射して、幻想的な美しさだった。ミナミは、そんな美しい地元自慢の海を前にしても、東京に帰りたい、と泣いた。

 今日この日も、海は輝いていた。久しぶりに見た海は、懐かしく、そして一層美しいように思えた。靴に砂が入るのが煩わしくなり、靴を脱ぎ、靴下を丸めて中に入れた。裸足で砂の感触を味わった。コンクリートの上ではとてもできない。ざざぁ、ざざぁ、一定の間隔で押し寄せる波音が、心を落ち着かせた。生粋の都会っ子なら、『この景色、映えるな』とスマホを掲げているところだろうか。確かにこの海は美しいが、残念ながら見慣れた地元の民にとっては、ありふれた海だった。

 まともに話したのはあれが最初で最後だった。中学ではあれ以来まともに話すこともなく、ミナミもまた周囲と馴染むことなく、中学卒業まであのままだった。卒業式のその時まで、東京に帰りたがっていたのだろうか。地元を嫌っていたのだろうか。この海を見ても、何も思わず、もしかしたら東京を思って泣いていたのかもしれない。ミナミはまた親の意向によってか、地元を離れた私立の高校へ進学したらしく、顔を合わせることもなかった。一方地元の人間の大半は近くの公立高校に進学し、別々の高校になっても地元の友達とは簡単に会えるような距離感は変わらなかった。別々の高校でも、同じ方向に、同じような時間で登下校する。高校に行っても変わらない日常だった。しかし高校入学から数ヶ月後、こんな噂を聞いた。

 うちの中学を卒業した子が、◯◯高校の男と駆け落ちしたって。

 うちの中学、と聞いただけでは疑うことはなかっただろう。噂の語尾に、東京のお嬢さんだったらしいのにねえ、とつかなければ。そんなまさか。うちの中学を卒業した、東京のお嬢さん。まさか。ミナミのことだろうか。恥ずかしながら、高校に行っても都会がなんたるかをイマイチ理解していなかったため、都会の東京は金持ちが多くて、気取り屋で、ミナミとその家族もその例に漏れない人物なのだろうと思っていた。実際は東京にいるからといって全員が金持ちというわけでもない。しかし、私立の高校に進学できるということは、ミナミの実家はそれなりに裕福な方だったのだろう。対して、ミナミと駆け落ちした男の◯◯高校とは、地元じゃ有名な、こう、あれだ、つまり、少しやさぐれた生徒が多いことで有名な学校だった。言葉を選ばずに言えば、ヤンキー高校。勉強もできない、素行も悪い、だから受験に失敗した、そんな奴らが行く場所。ミナミが進学した私立よりもずっとレベルが低い、滑り止めの私立高校。

 ミナミが駆け落ち。しかも◯◯高校の男と。いや、まだ本人と決まったわけじゃないし。馴れ初めは?どうやって知り合った?親御さんは?今どうしてる?ただの噂だ。コミュニティが狭いからこそ、面白おかしく回ってくるだけの噂。真偽はわからない。確かめる気も起きない。それでも、『ミナミなのだろうか?』という不毛な疑問ばかりが頭を占めた。◯◯高校の男なんて、一番嫌いそうな人種じゃないか。都会っ子で、東京が恋しくて泣くような、私立高校にも通えるお嬢さんが、駆け落ち?笑えない冗談だ。デマに決まっている。

 なぜ『ミナミではない』と信じたがっているんだ?

 愕然とした。ミナミのことを何も知らないくせに。田舎嫌い、都会っ子、それぐらいしか知らないのに。ミナミがどこの馬の骨ともしれない男と駆け落ちするなんて、ありえない。そんなことはあってはならない。なぜそう信じたがっているのだろう。そうだ。何も知らない。ミナミのことを、何も知らない。知らないのに。

 砂浜に続く自分の足跡を振り返りながら、波打ち際に近づく。押し寄せ、かき混ぜられる度に、強い潮の香りを放つ海。ジーパンを膝までめくり上げ、そっと足を浸した。引いてゆく波は、砂を一緒にさらってゆく。足元の砂が波に崩されていく感触が気持ちよかった。ぬるい風が緩やかに吹き、海ネコの鳴き声が遠くに聞こえた。ミナミと海を見たあの日は、こうして海に入ることはしなかった。誘ったところで嫌な顔をされるのがわかっていたからだ。あの噂を聞いてからも、結局それがミナミ本人だったのかは今でもわからないし、知ろうとも思わなかった。ただ『それはミナミではない』と信じたがっている自分だけが、今も残されている。

「綺麗だなぁ」

 地元自慢の美しい海。それだけしか無い地元。あの時海を見て東京に帰りたい、そう泣くミナミをもう一度、海に誘ったら。誘えていたら。そうしたら、ミナミは。

 ピピピピ。

 ポケットに突っ込んだまま忘れかけていた携帯端末に、着信が入った。はっと我にかえり、波にさらされたまま電話に出る。

「あ…父さん?帰ってきた?ありゃ、そんな時間だったかね」

 早う帰ってこい、という父親のくぐもった声が端末から響き、用件を伝えるとあちら側からぶつりと切られる。これだから古臭い男は。眉間に皺を寄せ、端末を再びポケットにしまう。水平線の夕日は先ほどよりも赤みを増し、強く輝いていた。綺麗やなぁ、小さくため息を吐く。

 海から上がると、海水で濡れた足に砂が容赦なく纏わり付いた。靴下はおろか、靴を履くのも面倒で、家の前で履きゃあええか、とそのまま自転車の元へ駆けた。海が少し遠のく。鍵を外し、靴下が入った靴をカゴに放り込み、裸足でペダルを漕いだ。潮の香りを振り切るように、ひゅうひゅうと自転車で駆け抜けた。

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美波 @Maomaon

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