012 『僕だけが知らなかったお話』

「まあ、わたくしは気付いてましたけどね」


 その日の夜、寝る前のちょっとしたリビングでのひと時。

 相変わらず僕の母親の姿をした如宮きさみやは、寝る前だと言うのにコーヒーを片手に言う。


「というか、上終かみはてくんは分かっていると思っていましたわ。分かった上で付き合ってあげている、分からないフリをしてあげている––––わたくしはそう思っていましたわ」


 上終かみはてくんは演技が得意ですものね、と如宮きさみやは悪戯っぽく微笑んだ。


「それがまさか、本当に気付いていなかったと思いませんでしたわ。迫真の演技とはよく言ったものですけれど、本心でしたのね」

如宮きさみや、お前は一体何を言っているんだ? 僕にはお前の言わんとしている事が分からない」


 話についていけない。

 いや。

 話が繋がっていないようにさえ感じる。

 僕側だけが、断線されている。

 だが、如宮きさみやは出来た人なので、そんな僕にも気を落とさずに、話を続ける。


「そもそも、口呼吸をすれば臭いのは平気––––だなんて、おバカな発想としか言えませんわ。わたくしは、不必要となったガスマスクを付けないで草壁さんに会うための建前だと思っていましたわ」

「いや、でも実際……」

「人体の構造上、口で呼吸しても、呼吸気流こきゅうきりゅうは僅かながら鼻腔びこうを通過しますの。つまり、匂いはしますのよ」


 割と博識な如宮きさみやは、これまた淡々と知識を披露する。


「それにあれほどの悪臭がして、その匂いが上終かみはてくんに一切付着していないのがいい証拠ですわ」

「…………」


 そうだ。強い匂いというのは、良い悪いにかかわらず付着する。

 香水だったり、アロマだったり、ニンニクの匂いだったり、生ゴミの匂いだったり。

 草壁の悪臭はその類の匂いで、同じ場所、つまり、発生源となる草壁の近くに長い間滞在している僕には、それが付着するに決まっている。

 原始的で当たり前の発想だ。それは普遍的な事象で、当然起こるべき結果だ。

 他にも思い返せば色々な証拠があった。

 僕はあの部屋で、居眠りをした。

 匂いだけで、臭いという理由だけで飛び起きてしまうほどの悪臭がするはずの場所で、僕はスヤスヤと眠っていた。

 それはあの時、匂いがしなかったからだ。


如宮きさみやはそれにいつ気が付いたんだ?」

「つい最近、上終かみはてくんが怪我をして、一緒にお風呂に入るようになってからですわね。あまりこういう事は言うべきではないと思いますが、草壁さんと会った後の上終かみはてくんは、少し前まではとても臭かったので、すぐに気が付きましたわ」

「つまり、草壁が超能力をコントロール出来るようになったのは、最近ってことか?」


 如宮きさみやは僕を一瞥いちべつしてからコーヒーを一口飲み、答える。


「それ以前という可能性も十分にありますわ」


 どういうことだ?

 だと?

 なら、なんで草壁はそれを隠した?

 僕には何故、まだ能力がコントロール出来ないという風に見せたんだ?

 おそらく、あの質問。

 つまり、匂いますかと聞いた時だけ、超能力を発動させてたんだ。

 しかし、分からない。

 如宮きさみやは僕がその理由を分かっていると、それに付き合っていると思っていた––––と言っていた。

 それはつまり、分かりやすく簡単な理由だということで、側から見ても分かる理由と言うことだ。

 だけど、僕には分からない。

 分かっていなかった。


如宮きさみや、訊いてもいいか?」

「ご自由に」

「草壁はなんの為にそんなことをした?」

「それは簡単ですわ」


 如宮きさみやはゆっくりと。

 僕を指差した。


上終かみはてくんに毎日会うためですわよ」

「……はあ?」


 意味が分からない。

 なんだ、それは。


「"代償"による副作用で、隔離され、一人ぼっちで、可哀想な存在でいれば、上終かみはてくんは毎日会いに来てくれますもの」

「…………」

「悲劇のヒロイン症候群と言えば、聞いた事がなくても、何となくその意味は分かりますわね?」

「でも、僕に会いたいが為に日常を犠牲にするなんて……」

「思春期の恋煩こいわずらいを甘くみない方がいいですわよ。想い人に会うためでしたら、使えるものは全て使うに決まってますわ」


 使えるもの。草壁にとって使えるもの。

 それは––––


「草壁さんにとっては、外に出れないこと、毎日一人なこと、人に避けられること、それを"代償"として、上終かみはてくんが会いに来てくれるのでしたら、上終かみはてくんの方が大事だったというわけですわね」


 こんな話がある。

 夫婦と子供の三人家族がいて、夫が亡くなってしまい、その夫の葬儀に参列していた男に、未亡人となった妻が一目惚れしてしまう。

 数日後、妻は自分の子供を殺してしまうのですが、一体何故でしょう?


 普通なら、その人と再婚するのに––––嫌な話だが––––子供が邪魔だと考えたから––––とかが平凡な回答となる。

 だけど、草壁ならこう答える。

 子供の葬儀で、その人にまた会えるから。


 まあでも、軽いものなら僕も同じような経験がある。

 近所にある歯医者のお姉さんが、綺麗で巨乳だったから(巨乳は関係ないけど一応ね)、僕は歯磨きをせずに寝た事が数回ある。

 なので、そういう感情が飛躍した結果とも捉えらえらなくもない。


「狂っているとは言いませんわ。草壁さんは前の学校でも色々ありましたし、その後、ここに来てもずっと一人でしたわ」

「なら、精神状態が乱れていて、まともな判断が出来なくなっていると?」

「その可能性もありますが、問題は上終かみはてくんですわね」

「僕が悪いっていうのか?」

「一人ぼっちで、寂しい草壁さん。可哀想な草壁さん。そこに現れましたのが上終かみはて和音。整った顔立ち、代表にも呼ばれたサッカー選手で、有名な元子役。そんな人が、優しくしてくれたらどう思いますか? 今まで誰からも避けられていた自分に対して、親身に接してくれたらどうなりますか? 好きになってしまいますわよね。まるで、自分を救いに来てくれた王子様のように思うはずですわ」

「それは……」

「そうですわね、別に上終かみはてくんは何も悪いことはしていませんし、むしろ良いことをしていますわ。立派なことをしていると思いますわ」


 ただ、と思いますわ––––と如宮きさみやは言った。

 僕だったから、僕が上終かみはて和音だったから。そうなった。

 有名人は自分の影響力を考えろと言うが、まさかそれが僕にも当てはまるなんて、想像も出来なかった。

 想像力が足りなかった。


「わたくしは当初、上終かみはてくんは草壁さんのことを分かっていて、ただ単に、神対応をしているのだと思っていました」 


 神対応。上終かみはて和音。

 大した皮肉だ。


「草壁さんが自ら言い出すまで、待ってあげているのだと、わたくしは考えていましたわ」


 上終かみはてくんは優しいですから、と如宮きさみやは言う。

 淡々と言う。

 そして、今度は真剣な眼差しを僕に向ける。


「ただ、話はこれで終わりませんの」

「……どういうことだ? 確かに草壁は問題をかかえてはいるけど、それは––––」

上終かみはてくん、次はレイプされちゃいますわよ」

「……は?」


 意味が分からない。如宮きさみやは何を言ってるんだ?

 イミガワカラナイ。


真彩まあにゃの話から推測しますと、上終かみはてくんは、先程、所謂いわゆるレイプドラッグというものを盛られていますわ」

「お前、何言って……いや、そもそもそんなものどこで……」

「薬局とかで買えますわよ。睡眠導入剤ってご存知ありませんか? 少量でも睡眠薬として、十分に効果がありますわ」


 知っている。というか、不眠症に悩む草壁の為に、少し前に僕がボブに頼んで手に入れてもらったものだ。

 あのコーヒーに入っていたのは、あのコーヒーを飲んでから急に眠くなったのは、そういうことだったのか……。


「その首筋の赤い跡、キスマークですわよ。誰が付けてたかなんて、聞くまでもありませんわよね」

「…………」


 だから苫小牧とまこまいはこの虫刺されを見て、悪い虫と言ったのか。


「今回はおそらく、睡眠薬の効果時間や、有効性を確かめるテスト的な意味もあったのでしょうけれど、次は多分確実に、文字通りヤられちゃいますわよ」

「いやでも……」

「レイプされるのが、まさか女性だけだなんて考えていませんわよね? 逆レイプって言葉があるくらいですので、当然そういうことはありますのよ。それに––––」


 如宮きさみやは僕の腕を見る。


「––––どうやって抵抗いたしますの?」


 僕の腕は両方骨折中。

 動かない。


「背中にも、多数のキスマークがあったそうですわよ」


 まるで背中を流す誰かさんへの宣戦布告ですわね、と如宮きさみやは言う。

 苫小牧とまこまいは僕の背中を見てから、急に草壁は超能力のコントロールが出来ると言ってきた。

 そういうことだったのか。

 なら、苫小牧とまこまいも気付いていたのか。

 僕だけが気付かなかった。一番近くで、一番側にいた僕だけが。

 気付いていなかった。


「急に現れ、自分の王子様が身をていしてまで助けた存在、銀盤の女王、苫小牧とまこまい真彩。それは、それは面白くなかった事と思いますわ」


 だからか。草壁がやたらと苫小牧とまこまいのことを気にしていたのは。

 ファンなんかじゃなく、恋敵だったというわけか。


上終かみはてくんが自身を放っておいて真彩まあにゃにかかりっきりになり、しばらく会いに来てくれなかったのも影響してますわね」


 キスマークはまさに上終かみはてくんは、自分の物だと言わんばかりですわね––––と如宮きさみやは僕の首筋をチラリと見た。


「どうせ上終かみはてくんのことですから、口が滑り、昨日は真彩まあにゃに背中を流してもらった––––とか言ってしまったのでしょう? それがトリガーになったんでしょうね」


 うん、言った……。言った覚えはあるし、その直後にコーヒーのおかわりをお願いした。

 タイミングは合っている。


真彩まあにゃは最初から草壁さんが超能力を制御出来る可能性に気が付いていたそうでして、こっそり草壁さんの部屋でガスマスクを外したそうですわよ」


 ……あの時か。最初に迷子になったフリをした時だ。

 言っていた。確かに言っていた。

 新鮮な空気を吸っている––––と。

 苫小牧とまこまいの気になること、それは草壁と会った直後の僕から異臭がしなかったことか。

 だから、確認しに来たわけか。くそっ、冴えてやがる。


真彩まあにゃも先日付けで、晴れて恋する女の子になったばかりですので、女の勘とでも言いましょうか––––すぐに思い至ったそうですわ」


 女の勘はよく当たる。

 なるほど、こうやって実例を出されると納得せざるを得ないな。


「まあ、わたくしからアドバイスをさせていただくなら、無難ではありますが、草壁さんとは距離を取った方が––––」

「嫌だね」


 これは元を正せば僕の責任だ。

 僕が僕でなかったのならば、起こらなかったことだ。

 ならば、その責任は僕にある。

 如宮きさみやはため息をつく。


上終かみはてくんはドMですので、逆レイプされるのが本望だと言うのなら、止めはしませんが、睡眠薬を回避出来たとしても、腕が使えない以上、いくら体格差があったとしても、組合になれば負ける可能性もありえますわよ」

如宮きさみや、僕にドM疑惑を付け足さないでくれ」

「冗談はともかくとして、ギプスで殴ればいいとは思いますが、上終かみはてくんにそれが出来ますの?」


 出来ない。それは出来ない。草壁を傷付けることなど、僕には出来ない。

 それが例え貞操の危機であったとしても。

 確かに草壁のやっていることは犯罪だ。

 その根本的な原因が僕にあったとしても、悪いことだ。

 行き過ぎたストーカー行為の延長の結果、そういうことになる––––なんてのは、毎年のようにニュースで見る。

 よくあることだし、よくはないことだ。

 でも。

 僕は草壁の側にいてやると決めたんだ。

 それが例え歪んだ感情だとしても、僕はそれを受け止める。

 アイツの笑顔に癒されてたのは事実なのだから。

 その恩返しくらいはするさ。

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