004 『この世に存在しないサイン』

「お待たせしました、お砂糖とミルクマシマシマキシマムアイスコーヒーですっ」


 テーブルにグラスを置いたときにたゆんと胸が揺れたが、僕はそれを見なかったフリして、アイスコーヒーをすする。ズズズっと。うん、甘い。

 僕がコーヒーを一口飲んだタイミングで草壁は少し言いづらそうに、


「あの……」

「ん? 美味いぞ」

「あ、いえ、そうではなくて……」


 コーヒーの味の話ではないらしい。


「なんだ?」

「その、えっと……私、今日も臭いですか?」

「…………」


 この質問は、ちょくちょくされる。なので、予想はついていた。

 僕は一瞬だけ鼻で空気を吸ったが、すぐにやめた。嗚咽感おえつかんが喉の奥から昇ってきたからだ。


「……まあ、ちょっとするかな」

「ちょっとってどれくらいですか?」


 草壁はぐいっと身を乗り出してきた。ので、谷間がとても見える。

 僕は目を逸らしつつ、


「試合した後の脛当すねあてくらいかな」

「それ、嗅いだことがないので分からないです……」


 真面目な話、試合をした後の脛当ては中々に酸っぱい臭いがするのだけれど、草壁の臭いはその比じゃない。

 その臭さを例えることなど不可能だ。草壁の可愛さと同じくらいな!

 ……まーた寒いこと言っちゃった。

 でもしょうがない事だ。草壁は天使なのだから。きっと背中には羽根が生えているに違いない。

 僕の見えないところでパタパタと羽ばたいて飛んでいても、全然不思議じゃない。


「まあ、そうだな。嘘は付きたくないからハッキリ言うけど、可愛いもんだよ」

「それ、いつも言ってますよね?」


 まあな。

 僕は多分、草壁にとても甘い。草壁が傷付くような事は言いたくないし、したくない。

 甘々マシマシマキシマムだ。

 草壁は未だに超能力のコントロールが出来ないことを、気にしている。

 そりゃそうだ。

 出来たら、こんな風にはなってない。出来ることなら、制御したいはずだ。


「超能力のコントロールは、急に出来ることの方が多いからなぁ。自転車の補助輪が取れるようなもんだ。ほら、アレも急に乗れるようになるだろ?」

「私、自転車乗れないんです……」


 未だに補助輪だった。急に出来るようになるいい例えを出したつもりが、かえって草壁を傷付けることになってしまった。

 いや、ここはポジティブに行こう。


「なら、今度一緒に練習するか」

「えっ」


 草壁は僕の腕を見る。


「その手で––––ですか?」

「治ったら、だ」

「無理ですよ、私、外に出れないですし……」


 草壁はしょんぼりと下を向く。だがこれは予想の範囲内だ。


「家の中でも練習出来る奴があるんだぜ」

「え、そうなんですかっ?」


 草壁が驚いた表情で勢いよく上を向いた(胸もはずんだ)。


「サイクルトレーナーって言うんだ。タイヤの下にそれを置いて、ハムスターになるんだ」

「ふふふっ、人間ハムスターってことですか?」

「ああ、運動にもなるしな」

「それはいいかもですね……私、どうしても運動不足になりがちなので」


 外に出れないということは、当然運動量も減る。

 なので、僕が腕を怪我する前なんかは、よく一緒に筋トレをしてたもんだ。


「足なら押さえられるから腹筋する?」

「大丈夫なんですか? 無理はしないほうが……」

「大丈夫、大丈夫」


 僕は問題無いと言わんばかりに、立ち上がり、絨毯じゅうたんの上に腰掛ける。

 草壁はいそいそと、マットを広げてその上に仰向けに寝転がった。

 ……寝転がった時に胸の形が卵形になり––––いや何も言うまい。

 無心だ、上終かみはて和音。無になれ。

 そうだ、ボブの顔でも思い浮かべろ。

 カッミオワさーん。

 ……よし。

 気を取り直し、僕は草壁の脚を押さえて、


「じゃあ、とりあえず五回で」

「頑張りますっ」


 可愛い気合いの掛け声と共に、草壁は上体をプルプルさせながら起す。そして倒れるように、背中をマットに付けた。一回やるだけでもかなりキツそうだ。

 僕なんか腹筋は出来なくなるまで出来る方だけど、普段運動をしていない人は、五回やるのも厳しいと聞いて、軽いカルチャーショックを受けた。

 そもそも腹筋をする時に、回数なんて数えたこと無かったしな。

 閑話休題かんわきゅうだい

 この草壁の腹筋運動は、僕にとってちょっとした試練でもある。

 上体を起こすたびに、胸が揺れる揺れる。

 ブラなんてチラチラ見えてるし、はみ出す––––と言うよりあふれ出しそうだ。

 だが、注目すべき箇所はそこではない。

 僕は現在草壁の足を抑える任に就いているわけだけれど、上体起こしの足を抑える係は、手で脚を抑え(今はこれは出来ないけど)、そして。

 相手の足の上に自分の尻を乗せる。

 僕は今、草壁の御御足おみあしを尻の下に敷いている。

 裸足だ。

 裸足の足が、僕の尻に当たっている。

 上体を起こすたびに、足先が僅かに僕の尻に擦れる。

 なんか、いけない気分になってくるな!

 いかん、集中しろ。

 尻と足だけに、シリアスに行こう。


「ほら、後一回だ、頑張れ」

「は、はいっ、はぁ、んっ、あっ、くぅっ」

「…………」


 なんで女の子というのは、腹筋をするだけでこんなにも艶っぽい声を出すのだろう。

 謎だ。

 何とか最後の一回を終え、草壁はマットに倒れ込むように寝転がった。

 五回しかしてないと言うのに、頬が高揚し少し赤みを帯びている。

 まるで林檎のように真っ赤だ。凛子だけに。


「はぁ、はぁ、どう、でしたか? 私、ちゃんと出来て、ました?」

「大丈夫だ、よく頑張った」


 息切れもしている。

 五回しかしてないのに。

 でも、これが普通なんだろうな。

 僕や、女子ではあるが、アスリートである苫小牧とまこまいなんかは、きっと別枠なのだろう。

 アイツの腹筋は鬼だ。暇があれば無言で腹筋してるからな、アイツ。

 クリスティアーノ・ロナウドだ。


「私は、上終かみはて先輩みたいには、出来そうにありません……」

「別に同じようにやる必要はないさ、自分にあったペースでやればいい」


 超能力の制御もな、と僕は付け足した。


「でも……」

「大丈夫だ、この前来た苫小牧とまこまいだって、結局上手く制御出来てなかったからな」


 草壁には、よく僕の身の回りで起こった話をしている。外に出れない彼女の為に、少しでも娯楽になればいいなと思って。

 苫小牧とまこまいの話もかいつまんでだか、少しだけした。

 そもそもしないと腕の怪我を説明出来ないしね。

 草壁は、僕の腕をチラリと見る。


「その怪我も、えっと、苫小牧とまこまいさんを助けた時に、ですよね?」

「まあな、もっと上手くやれたら良かったんだけど……」


 マットとかな。もう本当に悔やまれる。

 バットだ。


「そんなこと……ないです、上終かみはて先輩は、苫小牧とまこまいさんを助けたんですから……えと、その……」

「なんだ?」

「……カッコいい、と思います」


 ちょっと照れ気味に言う、草壁。僕としても褒められるのは満更でもなく、


「まあ、草壁にそう言ってもらえるなら結果オーライかな」


 少しだけ調子に乗った。本音で言うと、苫小牧とまこまいの問題を両腕の骨折を"代償"に解決出来たのだから、ベストな結果ではなくとも、悪くは無かったと思ってはいる。


「何より、アイツが怪我をしなくて良かったよ」

「そうですよね、オリンピックもありますし……それにしてもすごいですよね、私と同じ歳でオリンピックだなんて……」

「そういえば同い年か」

「私なんかとは、全然違いますよね。綺麗ですし、スタイルもモデルさんみたいで……」


 スタイルに関して言えば、草壁もモデルさん並みだからな。

 モデルはモデルでもグラビアモデルだけど。


「でも、アイツは頭おかしいからなぁ」

「そうなんですか?」

「ああ、この前も家の風呂に入った時にな––––」

「え、上終かみはて先輩の所のお風呂に入ったんですか?」


 湯船に髪の毛を浮かせっぱなしに、と言おうとしたら途中で草壁に口を挟まれた。

 流石に説明不足だったか。


「ほら、如宮きさみやが長風呂って話前にしたろ? それで苫小牧とまこまいはその頃は如宮きさみやの所にいてさ、中々出ない如宮きさみやに痺れを切らして、家に借りに来たんだ」

「ああ、それで……」


 草壁は納得したように頷く。


「仲いいんですね」

「悪くはない……とは思うよ」


 顔を合わすたびに嫌味言われてたからなぁ。素直にいいとは言えない。

 でも、草壁のやつ、なんか苫小牧とまこまいのことを気にしてるみたいだな。

 ……もしかして。


「草壁、苫小牧とまこまいのファンなのか?」

「えっ?」


 少し驚いたような反応を見せる草壁。


「いやなんか、やたらと苫小牧とまこまいのこと気にしてるからさ、ファンなのかなーって」

「あ、えと……はい……気にはなります」


 やはりな、そうだと思ったんだ。分かるぞその気持ち。あのアスリートとしてストイックな所が、カッコいいんだよなぁ。

 クリスティアーノ・ロナウドみたいで。


「よし、僕に任せろ草壁。銀盤の女王のサイン貰ってきてやるよ」

「え、でも銀盤の女王のサインはこの世に存在しないって」

「大丈夫、大丈夫、任せとけ」


 万物創造ってわけじゃないけど、このくらいなら僕でもクリエイト出来そうだ。

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