第9話  黒龍と女神



 温かく、気持ちの良い空間に居る。寒くなく、熱くも無い、丁度良いと感じ、横になれば誰でもすぐに微睡みの中に入ってしまいそうな、そんな空間に居た。


 自身は今、仰向けで眠っている。背中にはもふもふのクッションが敷いてあった。寝るのに適した空間とクッションに、仰向けで寝ているスリーシャはまさしく夢心地だった。しかしスリーシャはふと思う。あれ?と。そういえば今でこそこんなに心地良い空間で横になっているが、何故横になって寝ているのだろうか……と。


 一度考えるとこれまでの経験した過去が湯水の如く頭の中に流れ始めた。人間が森へやって来て害が無いことを確認し、日にちが経つにつれてやって来る人間は森を荒らすようになってくる。忠告をした。これ以上森を荒らすなと。荒らすならば今すぐに出て行けと。そう言うと人間は潔く森から出ていった。


 だが帰っていったと思ったら、またすぐにやって来て森に火を付けた。緑の森が真っ赤に染まり、パチパチと音を立て黒くなり、他に燃え広がって大切な森が失われていく。そして意図的に点けられた火は自身の本体がある大樹へと、その魔の手を伸ばし、人間達はその間に小さな精霊達を捕まえていく。


 泣き叫んで逃げても追い掛けられ、捕獲されて連れて行かれる小さな精霊達を見ると胸が引き裂ける想いだ。だから連れて行くのならば自身だけにして、他の子達には手出ししないでと言った。それに了承した人間達だったが、人間達は約束を破った。


 人間達は自身の本体の肉体を捕らえると、小さい精霊達を再び捕らえ始めたのだ。言っていた事と違うと叫んだら、その場で一番偉い人間が言ったのだ。




『約束と違う……?ふむ──────お前を捕らえたら他を逃がすという約束をした証拠はあるのか?』


『……え?』


そんなことを言ったのだとしても、証明出来なければ無効も同じだろう。つまらん事を言っている暇があるならば目に焼き付けたらどうだ──────他の精霊が捕らえられる瞬間を』


『──────何という……あなた達は、何故そう平然と酷い事が出来るのですか……っ!あなた達は約束一つも守れないのですか……っ!』


『は、我々人間が、人間ならざる存在と対等な関係でなければならない?交渉はそれ相応の対価を持つ者と、対等な者により行われる。貴様の身がそれ相応のものか?違う。貴様は我々人間と対等か?違う。我々は搾取し、貴様等は抵抗無く搾取されるべき存在だ。交渉なんぞ通ずると思った己を恨むのだな』


『……ひどい。っ……ひどすぎます……。私達が一体……っ何をしたというのです……っ!』


『言っただろう。貴様等は搾取されるべき立場にあると。何かをした、してないは関係無い。。それだけだ』


『……───────────。』




 人間の醜さに絶望した。何故こうも非情な事が出来るのだろうか。首と手足に枷を嵌められ、鎖で繋がれて動くことが出来ない。出来るのは捕らえられていく小さな精霊達を見ていることだけだった。無力。あまりに無力。何も出来ず、人間に裏切られて捕まって、見ることしか出来ない。ここまで何も出来ない自分自身を呪った事は無い。


 逃げ回っている小さな精霊達は捕まる。だがその中で唯一逃れられる事が出来た精霊が居た。視界の端で逃げ果せた小さな精霊を偶然目にしたのだ。その時は人間に悟られないように目線を逸らし、ただただ祈った。どうか逃げ延びて、生きてくれと。その祈りが届いたのか、チラリと確認すると小さな精霊はもう居なかった。良かった。本当に良かった。不幸中の幸いに涙を流した。


 スリーシャはその時、逃げ果せた小さな精霊が生き延びて行くのだろうと思っていた。だが真実は全く違う。小さな精霊は仲間達を助けるために、拒絶されるかも知れないというのに7日掛け、嘗て交流のあった最強の種族の黒龍の元まで行ったのだ。見捨てるつもりも、一人だけ生きていこうという気持ちは無かった。


 だが小さな精霊の掛けた7日間は、酷かも知れないが長すぎた。国に着いたと思えば直ぐに違う国に送られ、着いたら直ぐに魔力を搾取された。人間はスリーシャや小さな精霊達から抜き取った魔力を、巨大な魔水晶に貯め込み魔道具の開発に役立てると言っていた。つまりはどれだけあっても困らないということだ。それからは酷いものだった。魔力が枯渇し、命を奪いかねない状況でも魔力を搾り取ろうとした。その所為でまだ小さない精霊達は耐えきれず命を落とした。


 小さな精霊の上位互換の存在であるスリーシャはまだ耐える事が出来た。だが小さな精霊には無理だ。代わりに取っていいから止めてくれと言っても、人間達は聞く耳を持たず、結局スリーシャを除いて全て死んでしまったのだ。そしてその死ぬ瞬間というのも、スリーシャは見ていた。苦痛以外の何物でも無かった。


 数日間に渡り、魔力を限界以上に搾取され続けたスリーシャが次に受けるのが、理不尽な暴力だった。ジヒルス王国の国王は他者を傷付けることに興奮を覚える類の人間で、送られてきたスリーシャに暴力を与え続けた。終わらないのではと思っていた暴力に、ここで死ぬのだと悟りを覚える頃、リュウデリアが来たのだ。来ないと思っていた、あのリュウデリアが……。


 そこからスリーシャはハッとして柔らかで寝心地の良い布団のようなものから起き上がった。上半身を勢い良くがばりと起き上がらせ、頭を振った。夢を見ていたかのように、人間に捕まってからの事を思い出していると、リュウデリアの事が頭をよぎって飛び起きた。




「……私は確か……あの国の国王に鞭で打たれて……それから……そうだわ、リュウデリア……っ!あの子が私を助けるために……っ!」




 スリーシャは枯れ葉の上に大きな葉っぱを乗せて作った簡易的なベッドから立ち上がり、周囲を見渡した。しかし瞼を開けているにも拘わらず、一寸先は闇の中で何も見えなかった。手探りで何か無いか探して歩っていると、掌に何かが触れた。硬く、岩のような何かだった。ただ、岩にしては滑らかな手触りなので、スリーシャは首を傾げて触れているものが何なのか思案していた。


 手を動かして硬い何かを伝って移動していると、何やら滑らかな触り心地のものは、幾つもの集合体であるようだった。手で触れながら伝って歩いていると、窪みのような所に触れた。スリーシャはそこをペタペタと触れて外に通じるような何かが無いか探す。すると、スリーシャが触れているものが動き出し、中から黄金に妖しく光るスリーシャの身長よりも大きい瞳が現れた。




「えっ………………きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」




「……ッ!?目が覚め──────痛ァッ!?」




 スリーシャは突如現れた黄金の瞳に平手打ちをかました。反射だった。意図してやった事では無い。なので例えその瞳がリュウデリアのものであったとしても、それは仕方の無い事だ。物凄く近い位置から声が聞こえ、その声が聞き覚えのあるものに、スリーシャは目を丸くして驚いた。その一方で、見えていた黄金の瞳は瞼を閉じられ、真っ暗闇の世界に光が差し込まれた。


 ゆっくりと純黒の壁が動く。それはリュウデリアの巨大な体だった。眠っているスリーシャをすっぽり囲み込んで翼で蓋をし、外敵の一切からその身で護っていたのだ。人間の『英雄』でも傷一つ付ける事叶わなかったリュウデリアの純黒の鱗に傷を入れられる存在が、スリーシャの宿っていた大樹の周辺に居るはずも無く、スリーシャが目覚めるまで襲撃は無かった。まあ、リュウデリアの魔力と気配で大抵の生物は近寄らないのだが。


 真っ暗な所から光を浴びた事で眩しさに目を細め、腕で光を遮って慣れるのを待つ。慣れた頃を見計らって腕を退かすと、黒く焦げて一部は灰となっている大樹が目に入った。長年連れ添った大樹が無惨な姿になっている事に胸を痛めると、背後から呻き声が聞こえた。スリーシャはハッとして振り返ると、見上げる背丈まで成長したリュウデリアが左手で左眼を押さえていた。


 スリーシャは思い出した。今先程、反射的に黄金の何かを引っ叩いたが、良く思い返せばあれは黄金の瞳だった。あっ……と、察した。スリーシャが引っ叩いたのはリュウデリアの眼球である。それも思い切り直接である。何気に生まれて一番のダメージは、スリーシャの眼球への平手打ちだった。




「~~~~ッ!!まさか眼球に平手打ちを食らうとは思わんかった……」


「ご、ごめんなさいリュウデリア…っ!だ、大丈夫?本当にごめんなさいね?」


「いや、気にするな。お前が起きただけで十分だ」




「──────感謝するんだぞ。お前が起きるまでの3日間。リュウデリアは一歩もそこから動かず、誰も近付けないように護っていたのだから」




 スリーシャが眼を手で押さえているリュウデリアに謝罪していると、そんな両者の英田に並び立つように現れた美しい女性に、スリーシャは目を丸くした。突然現れた女性は本当に美しく、そして会った事も無い知らぬ者だったからだ。不思議そうに首を傾げてから、上を向いてリュウデリアの顔を見ると、どこか苦々しい表情をしていた。


 何故リュウデリアがそんな表情をしているのだろう……と、更に首を傾げてから、取り敢えずスリーシャは現れた美しい女性に誰なのか尋ねてみることにした。




「……あなたは?」


「私はオリヴィア。お前の傷を治した者であると同時に──────女神だ」


「え……っ!?め、女神様!?」


「あぁ。正真正銘女神だとも。よろしく頼むぞ」




 スリーシャは口を手で覆いながら瞠目した。女神、つまりは神と謳われる存在は、人間や精霊や龍、その他の種族が住まう下界には降りてくる事は滅多な事では有り得ず、探して見付かるような存在ではないからだ。謂わば一目見ただけでも生涯語り継いでいけるほどの伝説的な存在である。


 件のオリヴィアといえば、驚き固まっているスリーシャに微笑みを浮かべている。吊り目気味で薄く笑みを浮かべる唇。高い背丈に小さな顔。一目だけで解る完璧なプロポーション。神としての存在故に感じ取れる神威。クールな印象を受ける女神オリヴィアの微笑み一つで、一応は同じ女という部類に入るスリーシャは、つい見惚れて顔が熱くなってしまう。


 ぽーっと見惚れていたスリーシャなのだが、頭を振って正気に戻るとその場に膝を付き、オリヴィアの前で平伏した。それには流石のリュウデリアも驚きである。何故突然頭を下げるのか、解らなかったのだ。




「スリーシャ……?何をしている?何故この女に頭を下げているんだ」


「リュウデリア。教えていませんでしたか?神は本来我々の住まう地上に奇蹟や豊穣、時には力すらも与える偉大な御方達なのですよ。一生の内に出会えればその後の生涯に語り継いでいっても当然なこと。ましてや私はオリヴィア様に傷を治してもらった大恩があります。ならば頭を下げるのは至極真っ当と言えるでしょう」


「……私は私の目的があってお前を治したに過ぎん。それに私はそこまでして畏まられるのは好きではないんだ。頭を上げてくれ」


「は、オリヴィア様のお望みのままに」




 オリヴィアに言われてやっと頭を上げて立ち上がったスリーシャだが、何処かその目には敬服の念が混じっているようにも思えた。神とは本来信仰の対象であり、場所によっては貢ぎ物やお供え物を捧げることによって無病息災や、畑の豊作を願ったりする。


 中には神により人知を超えた力を与えられ、英雄や伝説になり歴史に名を遺す存在も居る程だ。つまりは全ての種族の完全な上位的存在とも言えるだろう。故にスリーシャは目の前に居る本物の女神であるオリヴィアに平身低頭の様子なのだ。


 スリーシャの対応にオリヴィアが苦笑いしていると、スリーシャはふと思った事がある。死にかけていた自身の体の傷を治してくれたのは女神オリヴィアである。だがそのオリヴィアには目的があり、その為に治したのだという。つまりは目的の中には間接的にもスリーシャが関わっているということだ。スリーシャは不敬ではないかという考えを抱きながら、恐る恐るオリヴィアに尋ねた。




「あの、オリヴィア様の目的というのは何なのでしょうか?先程の話によると、私がその目的に間接的に関わっているように聞こえたのですが」


「ん?あぁ、その事か。私の目的、それはな──────」




 このオリヴィアが語る目的の話は、スリーシャが目覚める3日前に遡る。彼女は説明の話を聞きながら、頭上でリュウデリアが苦虫を噛み潰したような表情をしているのが気になった。






























 ──────スリーシャが目覚める3日前。





 細心の注意を払いながら森にある大樹の元までやって来たリュウデリアは、大樹の根元、元々スリーシャの本体が居たところに寝かせ、傷を癒させようとした。しかしあまりに衰弱していることもあって、スリーシャの呼吸は弱く浅くなっていき、もうリュウデリアにはどうしようも無いと、諦めるしかないのか……と、思ったその時に現れたのが、オリヴィアだった。


 何処からともなく現れた美しい女性の容姿をした女神のオリヴィアに、リュウデリアは警戒心を抱いた。それこそ不用意な動きを見せれば、誰の目にも捉えられない速度でオリヴィアを殺すことが出来る程の。今のリュウデリアは緊迫していたからだ。恩人が目の前で息絶えようとしている状況、普段のように冷静でいられる訳が無い。




「──────私がその者の傷、治してやろうか?」


「──────ッ!?……何者だ、お前は」


「私はオリヴィア。女神オリヴィアだ。見たところ、あと一分もすればその精霊は死ぬだろう。どうする、私が治してやろうか?」


「──────消えろ。今の俺は虫の居所が悪い。素性も知れんお前なんぞに頼るものなんぞ無い。今すぐ消えねば、神だろうがこの世から消すぞ」




 リュウデリアは本気だった。今すぐ消えないならば、オリヴィアを本気で殺して消すつもりだった。唯でさえ緊迫しているというのに、スリーシャの近くに知らない誰かを近付けようとも思わなかった。だから彼は尋常ではない殺気と莫大な魔力を放出しながらオリヴィアを威嚇し、脅しも籠めてオリヴィアの目前まで指先を寸止めの要領で突き付けた。


 しかしオリヴィアは動かなかった。殺気を放った寸止めだったというのに、目前にある命を容易く奪える鋭く鋭利な指先に、瞬き一つとてしなかった。堂々とした佇まいで微動だにしないその姿と、自身の瞳を真っ直ぐ見つめるオリヴィアの朱い瞳に、彼は目を細めた。


 そしてそれからリュウデリアは瞠目する事となる。なんとオリヴィアは目の前にある鋭い指先に左掌を擦って切り傷を作ったのだ。浅いものではない。掌の肉を半分は切り裂いただろうという深手である。少しだけ表情を歪ませたオリヴィアは、大量に滴る赤黒い血に塗れた左掌を彼へ一度見せつけ、それから右手を負傷した左掌に翳す。


 右手から純白の光が発せられる。リュウデリアは眩しそうに目を細めながら、一連の過程を見ていた。右手から発せられる純白の光に当てられた左掌は、みるみると深い切り傷を塞いでいき、あっという間に傷を無くしてしまった。滴っていた血も消えて無くなり、オリヴィアの手は傷付ける前と全く変わらない、綺麗な白魚のような手であった。




「何……っ!?傷の治癒だと…!?」


「ふふ。私は治癒の女神オリヴィア。治癒に於いて、私の右に出る者は居ない。例え部位の欠損であろうと、元通りに治すことが出来る」




 ──────回復系の魔法は今よりも遙か古代の文明時代に失われたとスリーシャに聞いた。この女がやった事は正しく回復のそれ。治癒の女神……気配はこれまでの者共と全く違う……そして何より治癒中に魔力の一切を感じなかった……っ!疑い、否定するのは容易だ。だが目の前でその力の一端見て、それでも納得もせず、否定するのは俺の矜持に関わる。……問題はこの女が本当にスリーシャに害を与えないかということ……しかし、スリーシャはもう……。俺には傷を治す術が一切無い…………クソッッ!!




 リュウデリアにはもう後が残されていなかった。これ見よがしに必要な時に必要な力を持った存在が現れ、スリーシャの傷を治すという。これ程上手くて都合の良い話が他に有るだろうか。いいや、有るわけが無い。世界はそこまで上手く出来てはいない。リュウデリアは訝しみながら、選択肢を与えられているようで、脅迫されていることに歯噛みした。


 その場から一歩も動かず、リュウデリアの事を真っ直ぐ見つめている彼女から目を離し、スリーシャの方を見る。先よりも更に呼吸が浅くなっていた。もう今まさに事切れようとしている。もう一度オリヴィアの方を見る。彼女は目を離している間もその場から微動だにせず、薄く微笑みながら決まり切った答えを待ってた。


 リュウデリアは自身の恩人の為に、背中を曲げて頭を下げた。もう頼れるのはオリヴィアのみ。そして最低限度の礼節を重んじる。リュウデリアは生まれて初めて、他者に頭を下げたのだ。




「──────頼む。対価は払う。故にスリーシャを……俺の母の傷を治してくれ……この通りだ」


「……分かった。引き受けよう」


「……だがこれだけは言っておく──────怪しい行動一つでもしてみろ、俺は一言掛ける事無く、お前を殺す。この世から消してやる。何処へ逃げようとも必ず見つけ出して、惨たらしく惨苦に殺す」


「──────構わない。私は私の目的有っての行動。態々無駄なことはしない」




 薄く浮かべていた微笑みを消し、真剣な表情でリュウデリアを見返す。その気配に嘘は無く、心からスリーシャを助けようとしてくれていた。しかしそれでもリュウデリアは信じ切る事は無い。会ったばかりの者に全幅の信頼を置くなんてお人好しのことを、リュウデリアには出来ない。出来ようはずも無い。


 大樹の根元に寝かされているスリーシャの元まで近寄ったオリヴィアはしゃがみ込み、両手を翳す。その様子をリュウデリアは後ろから右手を魔力で覆いながら観察していた。翳されたオリヴィアの両手から純白の光が放たれる。淡く優しい包み込むような純白の光はスリーシャを照らし、傷が無い所を見つける方が難しい、痛々しい体の傷を治癒し始めた。


 浅く擦れた傷から、肉を深くまで抉られた傷まで、純白の光は治していった。みるみると傷は無くなっていき、スリーシャの体は見違えるように綺麗になった。どこからどう見ても傷一つ無い、リュウデリアの記憶にあるスリーシャの姿だった。


 優れた聴力で、スリーシャの息遣いが元の健康な状態のそれとなり、顔色も優れたのを確認して安堵の溜め息を溢した。心臓も正常に動いている。先程までの死にかけの状態が嘘のようだった。心なしか表情も柔らかなものとなり、それが更にリュウデリアの安心感を強くさせる。因みにであるが、此処へ置いてきた傷だらけの小さな精霊の傷も治癒してもらい、回復して眠っている。


 スリーシャのことはもう安心して良い。だが話はここで終わった訳ではない。スリーシャの命を助けたのは他でもない、オリヴィアである。そしてそのオリヴィアは目的があってリュウデリアの前に現れ、スリーシャを助けると申し出た。これ以上無いタイミング。これ以上無い状況。これ以上無い治癒の力。これで無償だと言われた暁には、リュウデリアは生物そのものの理解を放棄することだろう。


 穏やかな表情で静かに眠るスリーシャを少しだけ見届け、オリヴィアは立ち上がってリュウデリアの事を見た。浮かべられる薄い微笑みにはまるで、約束通り治したぞ……と、言外に語っているようだった。彼は頭の中で、解っていると諦観の念を抱きながら、オリヴィアに話を聞いた。




「……それで、女神オリヴィアとやら。お前は俺に何を求める。スリーシャの命を救い、このリュウデリア・ルイン・アルマデュラに何を望む」


「クスクス……。そう警戒してくれるな。私がお前に求めるのはたった一つ──────私をお前の傍に置いてくれ。期限は今のところ考えていない」


「……?お前の目的というのはそれだけか?俺の鱗や心臓や血を求めるのではないのか……?」


「……?それこそ何故だ。私はお前の傍に居たいだけだ。お前の傍で、お前の行動一つ一つを観察し、共に流れる時間を噛み締める。それが私の望みだ」


「……要領を得んな。しかし、それがお前の望みだというならば、俺に否は無い。だが、謂わばお前は突然現れた未知の存在だ。傍に居る事を許そうと、警戒を解くことはない。それは頭に入れておくが良い」


「ふむ。まあ、そこは追々解きほぐしていくとして……では、よろしく頼むぞ。純黒の龍、リュウデリア・ルイン・アルマデュラ」


「……あぁ。よろしく頼む、治癒の女神オリヴィア」




 こうして奇しくも、女神であるオリヴィアと、純黒の龍であるリュウデリアは、共に居ることとなった。リュウデリアはオリヴィアが何故自身の傍に居る事を願ったのか、毛ほども理解していない。いや、理解していないというよりも、理解出来ないのだ。最強の種族である龍の鱗や心臓、体中を流れる真っ赤な血潮は尋常では無い価値を有する。それが例え人間やその他の種族達のように、金による等価交換の習慣が無い神であろうと、同じ筈だ。


 もしかしたら、高位な存在である神にとっては龍の肉体の一部よりも価値が有るものが存在するかも知れない。いや、そもそも全てが全て、龍の素材を至上としていると一様には言えないのだが、それでも貴重な事には変わりない。


 だがオリヴィアはそんなことは一切求めず、利益になるのかすら解らない、リュウデリアの傍に居るだけという望みを口にした。迷いは感じられなかった。恐らく最初から決めていたことを、ただ口に出しただけなのだろう。故にリュウデリアは不可解だった。リュウデリアはオリヴィアとは初対面である。これまでの100年余りの人生の中で、言葉を交わしたことも無ければ、一目見たことも無い。


 リュウデリアは疑問の残る思考をしながら、オリヴィアの事を見た。オリヴィアはリュウデリアが見ていることに気が付いたのか視線を合わせ、美しい限りの顔で優しく微笑んできた。リュウデリアは目を細め、鼻を鳴らして視線を逸らし、傷が無くなって綺麗になったスリーシャを魔力操作で浮かび上がらせて自身の近くに連れて来た。


 スリーシャを浮かび上がらせたまま、人間の放った火で燃えていない所から大量の枯れ葉と大きな葉を魔力操作で引き寄せ、簡易的なベッドを作成。その上にゆっくりとスリーシャを降ろした。身体的な傷は無くなっても、魔力を奪われた時の疲労や甚振られた時の疲労も重なって精神的に疲れている筈。だからスリーシャが自然と目を覚ますまで待とうとしている。


 簡易的なベッドの上で眠るスリーシャの健康状態を、瞳に魔法陣を描いて確認してから巨大な体で円形に囲い、大きな翼で蓋をした。これで何者もスリーシャを傷付けることは出来なくなった。仮にスリーシャを害するつもりならば、スリーシャを囲っているリュウデリアを相手にしなければならない。完全で完璧な防壁である。


 スリーシャを護るために己の身を壁にして丸くなっているリュウデリアを見つめながら、オリヴィアは近くの切株に腰を掛け、膝に肘をついてから手に顎を載せて静かにしていた。特に何かをするわけでは無く、ただ丸くなってジッと動かないリュウデリアの純黒の鱗を見つめていた。




「……艶々だ」


「……………………。」


「混じり気の無い完璧な黒。ここまで美しく突き詰めた黒は初めて見た。……とても硬そうだ」


「……………………。」


「──────すっごく触りたい」


「勝手に触れたら殺すぞ」


「………………………………………………解った」


「間が長いわ愚か者」




 特にこれといった会話はなかったが、時折オリヴィアがリュウデリアに話し掛け、リュウデリアが渋々と答えるという会話は行われていた。まだまだ会ったばかりの両者である。取引の内容があるためオリヴィアが傍に居る事は特に何とも思っていないが、オリヴィアはリュウデリアとどういう会話をすればいいのか思案しているようだった。


 ただそれでも、ちょっとしたリュウデリアとの会話をする度、少し嬉しそうにしているオリヴィアに、良く解らない奴だと彼は心の中で溢していた。まるで会話を楽しんでいるように思えるオリヴィアだが、それは無いだろうと判断する。会ったばかりの者に対し、そこまで好意的に接せられる理由が無いという、至極真っ当な理由を抱いているからだ。




「しゃりっ……近くに果物があったぞ。食べるか?」


「……要らん」


「ふむ、そうか……分かった。……しゃりっ」




 ずっと視線を感じていたが、その視線が途切れ、オリヴィアが何処かへ行ったかと思うと、割と直ぐに帰ってきた。その手に幾つかの果物を持って。果物を採りに行く前に腰掛けていた切株に再び腰を下ろし、膝の上に果物を置いた。


 幾つかの果物の中から林檎を一つ手に取ると、汚れがないか確認してから齧り付いた。しゃりしゃりといい音を立てながら食べ、神とも謂われる存在もモノを食べるのだな……と、神の事について一つ知ると、オリヴィアはリュウデリアに別の果物を差し出しながら要るか聞いてきた。


 傍に居る事を許しても警戒を解いていないリュウデリアは、もし仮に何かを果物に混入されている場合も考え、要らないと返答した。極論を言ってしまえば、そこらにあるような毒程度では龍を殺すことなど以ての外で、龍は強靭な胃と胃液を持っている。それ故に別に食べても問題無いのだが、リュウデリア的にはまだ素性の知らない者から何かを受け取るつもりは毛頭無かった。


 拒否されたオリヴィアは特に責める様子も、残念がるような様子も無く、食べかけの林檎を食べ進めた。焦ることもなくゆっくりと林檎を完食したオリヴィアは、別の果物も食べていく。リュウデリアの呼吸とオリヴィアの呼吸、そして果物を咀嚼する音だけが聞こえる。そしてそれから少しすると、オリヴィアはふぅ……と、一息を入れた。膝の上にあった果物はすっかり無くなっている。そしてどうやら、丁度腹もいっぱいになったようだった。


 食べ終えたオリヴィアはまたリュウデリアの事を見ていた。見ていてつまらなくは無いのかと思ってしまうほど、オリヴィアはリュウデリアの事を見続けた。そうして時間が経っていくと、雨雲が掛かってきて、ぽつぽつと雨が降り始めた。リュウデリアは雨に濡れようが関係無いので気にしていないのだが、それよりも気になるのはオリヴィアのことだった。


 雨が降っているにも拘わらず、オリヴィアは切株に腰掛けたままその場から動こうとしなかった。雨に濡れて髪が額や頬に張り付き、来ている服も濡れて肌が透けている。最早服の意味を為していない様子に、リュウデリアは訝しんだ。雨を凌げる場所に移動すれば良いだけだというのに、そこから動こうとしないのだ。だがリュウデリアには関係の無いこと。


 何かの気配だったり魔力を感知したり、オリヴィアが動いたりすれば直ぐに目を覚ます浅い眠りに入ったリュウデリア。その様子を見ながら、オリヴィアは雨が強くなろうとその場から動かなかった。そしてそれはリュウデリアが1時間で目を覚ました時にも続いていた。起きたリュウデリアは溜め息を溢しながら、スリーシャを覆っている翼とは別のもう一方の翼を伸ばし、オリヴィアの上に翳して雨を凌ぐ傘を作った。




「……驚いた。まさかお前が私のために雨除けをしてくれるとは……」


「目の前で雨に打たれているのを見ていると寝覚めが悪いだけだ。そもそも何故お前は雨の凌げる場所に行かん。着ている物もずぶ濡れではないか」


「……そうだな、強いて言うならば……雨に濡れていようともお前を見ていたかった。それだけだ。それ以外には特に理由は無い」


「……下らん」




 薄く微笑まれながら言われても、リュウデリアは興味なさそうに目を閉じてしまった。オリヴィアは濡れた髪を耳に掛けながら、少し嬉しそうに微笑みかけた。


 こうした小さなやり取りをしながら時が過ぎ去っていき、3日目、スリーシャが目を覚ました。いつ頃起きるのか大体の予想を立てていたリュウデリアは、それでもちゃんとスリーシャが目を覚ましてくれたことに、内心ほっとしていた。



























「──────という訳で、私はリュウデリアの傍に居るんだ」


「……成る程。分かりました。そして重ねてありがとうございます。お陰で命を繋ぎ止める事が出来ました」


「……ふむ。私は既にお前からの礼の気持ちは貰った。ならばお前が礼を口にする相手は私ではないはずだ」




 スリーシャが眠っている間に何が有ったのか、それをオリヴィアの口から訊くと、もう一度頭を下げてお礼の言葉を口にした。しかしオリヴィアはそのお礼の言葉を受け取らなかった。そしてオリヴィアに言われてハッとする。


 起きて直ぐに女神が目の前に居ることに驚いて肝心なことを忘れてしまっていた。なんと罰当たりなのだろうと、恥ずかしい気持ちや申し訳なさを抱きながら、スリーシャは体の向きを変えた。


 前にはリュウデリアが居る。最後に会った時よりもずっとずっと大きくなって強くなったリュウデリア。冷たく冷酷な面がある事を知っているから、例え自身が人間に捕まったとしても、弱いのが悪いと言って切り捨てると思ったのに、人間の3つの国に攻め込んで、滅ぼして回るという危険な行為までして助けてくれた恩龍。


 お礼の言葉が遅くなった事に対する申し訳なさと、態々助けに来てくれた事に嬉しさにより、目の端に涙を溜めながら、深く……深く頭を下げて精一杯の気持ちを届けた。




「リュウデリア、危険を顧みず助けてくれて本当に……っ本当にありがとうございました。これであなたに助けてもらったのは2度目ですね。あなたのお陰で助かりました。……なのにお礼の言葉が遅くなってしまってごめんなさい」


「構わん。そもそもお前の他の精霊は間に合わなかった。小さな精霊が知らせに来なければお前のことも間に合わなかっただろう。故に過度な謝礼は要らん」


「……分かりました。けど覚えておいて下さいね。例えあなたが私からの気持ちを頑なに受け取らないとしても、私はあなたにこれ以上無いほど感謝しています」


「……ふん」




 目の端に涙を溜めながら優しい笑みを浮かべてお礼を口にするスリーシャに、リュウデリアは鼻を鳴らしながらそっぽを向いた。それが彼なりの照れ隠しなのだと解っているスリーシャは、クスクスと笑った。彼等のやり取りを見ていたオリヴィアも、満足そうに頷いていた。


 全てをという訳ではないが、奪われたものを奪い返し、和やかな空気の中に小さな物体が飛んできてスリーシャにぶつかった。飛んできたのはリュウデリアにスリーシャ達の危機であることを知らせに来てくれた、小さな精霊だった。


 実はスリーシャの傷を治してもらった後、傷だらけだった小さな精霊の傷も治癒してもらっていたのだ。スリーシャが目覚めるまでの3日間は、人間に荒らされ、燃やされた森の現状を把握し、捕らえられていない仲間が他に居ないか、生存確認の為に奔走していた。そしてたった今、その一仕事が終わって此処へ戻ってきたのである。




「おかあさんっ!ぶじでよかったよぉっ!!」


「私は無事よ。それにあなたがリュウデリアをつれて来てくれたのでしょう?大変だったわよね。本当にありがとう」


「んーん!だって、わたしにはそれしかできなかったから…っ!それにわたしがおそかったから……っ!ほかのみんなが……っ!」


「いいの、いいのよ。大丈夫。あなたの所為じゃないわ。だからほら、泣かないで。あなたはとっても頑張ったわ。ありがとう。本当にありがとう」


「うぅっ……ぐずっ……」




「……スリーシャ達が生きているのも、お前の治癒のお陰だ。改めて感謝する」


「確かに私の治癒の力も有るだろうが、大元はお前が人間の国から救い出したからだろう。だから私とお前の力によるものだ」


「……そうか」




 抱き締め合う小さな精霊とスリーシャを見ながら、リュウデリアとオリヴィアは静かに会話する。後少し遅ければこの光景も実現出来なかった。そしてこの光景を作り出せたのは、勇気ある小さな精霊、何者にも敗けないリュウデリアと、治癒の奇跡を生み出したオリヴィアの力にだ。


 こうして、醜い人間の欲望と、最強の種族である龍の戦いは幕を降ろした。全てを取り戻せた訳では無い。溢れ落ちた命が山とある。それでも、助かった命がある。失ったものばかりに目を向けず、助かった命と前を向いていく。







 だが……安心するのはまだ早い。この戦いなんぞまだ序章に過ぎない。世界にはありとあらゆる戦いに満ちているのだから。







 最強の種族……龍に生まれた黒龍リュウデリア・ルイン・アルマデュラは、これからどのような戦いを繰り広げ、どのような日常を送っていくのか。それは誰にも解らない。故に見届けよう。彼の黒龍の織り成す日常や非日常を……。









 これは純黒なる龍の、龍による龍の為の、最強の種族の物語。








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