第8話 気づき
何もないリビングに、転がる大きな柴犬のぬいぐるみ。
この子には罪はないと思うが、かわいがりたいという気持ちは今は沸かなくて、生きた動物を飼わずにいて本当に良かったと改めて思う。
ただ、ひっくり返っているのは可哀相に思え、起き上がらせカーテンを開けて外の景色を見せてやった。
「ポチ、お外だよ」
ぬいぐるみに話しかける。
彼女にはもうこの犬のぬいぐるみが唯一の心の拠り所だった。でもこれを見ていると、
彼が、女の元に進んだ時の光景を何度も思い出してしまう。
苦おしいあの場面。
「あれ?」
蘇る記憶の中の風景で、女の行動に違和感のある部分があった。恋人であるはずの
「付き合っているのに、触れたくないの?」
初詣の間も、公園での散歩も、
久しぶりの恋人ならむしろ、その手に触れたいと思うのではないだろうか。
今この状態であっても
自分が言った、”その
引き出しを開け詰め込んだ書籍を避けて携帯電話を取り出し、電源を入れる。特にメッセージもなければ着信の気配もない。
心に引っかかる違和感は重要な気がした。
今なら、”帰れ”に、”逃げろ”の意味が重なって聞こえる。
でもあの女が何処の誰で、
「
『いきなりですみません、ライザという女性について心当たりありませんか』
メッセージを送る。今は九時、真面目な公務員の彼はもう出勤してる気がするがなんとなく、すぐにこの質問に答えてくれるような気がした。
ほどなくして既読が付き、返信があった。
『その女性が、君に何かしたのだろうか?』
『私の物を、間違えて持ち帰ったようなので、連絡方法を探してます』
私の物とか書いちゃって何言ってるんだ自分! と思いながら、ふと何故自分が
『ごめんなさい、
『わかった』
――うーん、どうしよう!
八方ふさがりのような気もするが、今までの二人の会話の中にヒントはなかっただろうかと彼女は必死に、先程まで思い出したくないと考えていた二人でいた時の記憶を必死に掘り起こしていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「珍しいな、個人用に着信があるなんて。彼女からか?」
局長の時田は夕べ仮眠室に泊まったはずの
この状態で彼女なんて出来るはずもないと、改めて感じたが。
手短な返信を終えた後もクリップフォンを手にしたまま、
――何故、あの子がライザの事を?
考えを深める時にやや目を細めるせいで、眠そうな顔は益々睡魔に負けかけているように見えるという。
「
「寝てませんよ?」
「何かあったのか、もしや家族からだったか」
「いえ、彼女からです」
クリスマスと大晦日を一緒に過ごした仲だ。完全な嘘ではないだろう。
その返事に時田は大いに驚いた顔をした。深い皺がより深く刻み込まれて、彼は笑った。そして彼の背中をバンバン叩く。
「おいおい、大事にしろよ。仕事一辺倒だと嫌われるぞ。彼女が呼んでるなら、急に休むと言っても許可するから」
「何故、局長は僕に仕事をさせたがらないんですか」
「働きすぎだからだ」
「残念ですが、休みませんよ。これから調べものがあります」
「おまえなぁ。だから、人事委員会に怒られるのは俺なんだって」
人事委員会は、公務員にとっては労働基準監督署のようなものである。最近は特に、社会的な目からも働き方が常識を逸脱する事にうるさい。
時田の
ライザの名前を聞いて、
そういう情報に詳しいのは、北海道の小樽阪上研究所。
そしてここを詳しく調べる事は、局長の時田は止めはしないが、程ほどにしておいてほしいという様子を見せる。
小樽阪上研究所の研究資金の出所は、大企業のルーミス製薬。ルーミス製薬の会長は厚生労働大臣と仲良しこよしだ。
直接怪しい薬物を作れなどとは指示をしていないだろうが、こういう物が欲しいという要望ぐらいは、出していてもおかしくない。その要望に応えようとする研究所の足を引っ張ってもらっては困ると言った所だろうか。
だが上が強固に邪魔してくる訳でもない辺り、研究所が勝手に暴走しているとも取れる。もし国が関わるなら、そもそもあんな胡散臭い研究所は使わないだろうし。
「局長、やっぱり今日、休みをください」
他の局員と喋っていた時田は驚いた表情で振り返った。
「あ、ああ。わかった」
まるで現場に出動するかのような様子で、彼は局室を出て行った。
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