第8話 気づき


 何もないリビングに、転がる大きな柴犬のぬいぐるみ。


 この子には罪はないと思うが、かわいがりたいという気持ちは今は沸かなくて、生きた動物を飼わずにいて本当に良かったと改めて思う。


 ただ、ひっくり返っているのは可哀相に思え、起き上がらせカーテンを開けて外の景色を見せてやった。


「ポチ、お外だよ」


 ぬいぐるみに話しかける。

 彼女にはもうこの犬のぬいぐるみが唯一の心の拠り所だった。でもこれを見ていると、窪崎くぼざきを思い出してしまって辛い。


 彼が、女の元に進んだ時の光景を何度も思い出してしまう。

 苦おしいあの場面。


「あれ?」


 蘇る記憶の中の風景で、女の行動に違和感のある部分があった。恋人であるはずの窪崎くぼざきを引き寄せる時に、彼女は上着の袖を掴んではいなかっただろうか。


「付き合っているのに、触れたくないの?」


 初詣の間も、公園での散歩も、窪崎くぼざきはずっと清楓さやかの手を引いてくれていた。彼女はそれを嫌だと思わなかったし、心を読まれても全然平気だった。好きという気持ちはすでに伝えてあって、今更それを知られても。

 久しぶりの恋人ならむしろ、その手に触れたいと思うのではないだろうか。

 今この状態であっても清楓さやかは彼の手に触れたい、触れられたいと思ってしまうのに。


 自分が言った、”そのひとのところに行くのか”という問いに、彼は”行く”とは言わなかった。とにかく、清楓さやかに”帰れ”と言った。


 引き出しを開け詰め込んだ書籍を避けて携帯電話を取り出し、電源を入れる。特にメッセージもなければ着信の気配もない。


 心に引っかかる違和感は重要な気がした。

 今なら、”帰れ”に、”逃げろ”の意味が重なって聞こえる。


 でもあの女が何処の誰で、窪崎くぼざきが今何処にいるのかは皆目見当もつかない。だが……あの女は、あの日、富沢とみざわと一緒にいなかっただろうか?


富沢とみざわさんが、知ってる……?」


 窪崎くぼざきPSI管理局サイかんりきょくにやっていたことを考えるととてもじゃないが助けを求めるわけにはいかない。とにかくあの女の事だけ教えてもらい、後は自分でどうにかするしかないと彼女は思った。


『いきなりですみません、ライザという女性について心当たりありませんか』


 メッセージを送る。今は九時、真面目な公務員の彼はもう出勤してる気がするがなんとなく、すぐにこの質問に答えてくれるような気がした。


ほどなくして既読が付き、返信があった。


『その女性が、君に何かしたのだろうか?』

『私の物を、間違えて持ち帰ったようなので、連絡方法を探してます』


 私の物とか書いちゃって何言ってるんだ自分! と思いながら、ふと何故自分が富沢とみざわがライザの事を知っていると思って連絡したのか聞かれたらちょっと困る気もして。

 清楓さやかはあの時、富沢とみざわの邪魔をしている。


『ごめんなさい、富沢とみざわさんが知ってるはずなかったです。メッセに登録してる友達全員に、当てずっぽうで聞いてまわってました、忘れてください』

『わかった』


――うーん、どうしよう!


 八方ふさがりのような気もするが、今までの二人の会話の中にヒントはなかっただろうかと彼女は必死に、先程まで思い出したくないと考えていた二人でいた時の記憶を必死に掘り起こしていた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「珍しいな、個人用に着信があるなんて。彼女からか?」


 局長の時田は夕べ仮眠室に泊まったはずの富沢とみざわがきちんと着替えている事に気付き、こいつは局に着替えを一式そろえて常に置いているのかと呆れが一周して尊敬に変わっていた。

 この状態で彼女なんて出来るはずもないと、改めて感じたが。


 手短な返信を終えた後もクリップフォンを手にしたまま、富沢とみざわは考え続けていた。


――何故、あの子がライザの事を?


 考えを深める時にやや目を細めるせいで、眠そうな顔は益々睡魔に負けかけているように見えるという。


富沢とみざわ?」

「寝てませんよ?」

「何かあったのか、もしや家族からだったか」

「いえ、彼女からです」


 クリスマスと大晦日を一緒に過ごした仲だ。完全な嘘ではないだろう。

 その返事に時田は大いに驚いた顔をした。深い皺がより深く刻み込まれて、彼は笑った。そして彼の背中をバンバン叩く。


「おいおい、大事にしろよ。仕事一辺倒だと嫌われるぞ。彼女が呼んでるなら、急に休むと言っても許可するから」

「何故、局長は僕に仕事をさせたがらないんですか」

「働きすぎだからだ」

「残念ですが、休みませんよ。これから調べものがあります」

「おまえなぁ。だから、人事委員会に怒られるのは俺なんだって」


 人事委員会は、公務員にとっては労働基準監督署のようなものである。最近は特に、社会的な目からも働き方が常識を逸脱する事にうるさい。


 時田の富沢とみざわに対する尊敬は、逆に一周まわって、呆れに戻った。溜息をつき、頭を掻きながら他の部下への声掛けに戻った局長を見送り、彼は再びモニターに戻る。クリップフォンは仕舞いこまずに、机の上に出したまま。


 ライザの名前を聞いて、富沢とみざわの脳裏に疑念が沸いた。手術を受けた患者の情報をあの女は何処から得たのか。彼女の所属する春日部超能力研究所はリミッター開発がメインの研究所で、どちらかというと機械工学系だ。手術の情報のような生体科学系の情報を得る機会は少ないはず。

 そういう情報に詳しいのは、北海道の小樽阪上研究所。富沢とみざわが怪しい薬の出所として洗っている場所である。

 そしてここを詳しく調べる事は、局長の時田は止めはしないが、程ほどにしておいてほしいという様子を見せる。


 小樽阪上研究所の研究資金の出所は、大企業のルーミス製薬。ルーミス製薬の会長は厚生労働大臣と仲良しこよしだ。

 直接怪しい薬物を作れなどとは指示をしていないだろうが、こういう物が欲しいという要望ぐらいは、出していてもおかしくない。その要望に応えようとする研究所の足を引っ張ってもらっては困ると言った所だろうか。

 だが上が強固に邪魔してくる訳でもない辺り、研究所が勝手に暴走しているとも取れる。もし国が関わるなら、そもそもあんな胡散臭い研究所は使わないだろうし。


 富沢とみざわはモニターの電源を切り、席を立つと机上の携帯電話と上着を掴む。


「局長、やっぱり今日、休みをください」


 他の局員と喋っていた時田は驚いた表情で振り返った。


「あ、ああ。わかった」


 まるで現場に出動するかのような様子で、彼は局室を出て行った。


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