ある先生について。

垣内玲

ある先生について。

 少しだけ、私の話を聞いていただけますか。私が、高校時代に出会った先生のことを、誰かに聞いて欲しいのです。


 とても変わった先生でした。掴み所のない人でした。それまでに私が見てきた、どんな大人とも似ていませんでした。

 腰には大きなウエストポーチを巻いて、そこにチョークとか指し棒が入ってるんです。ポーチのチャックには変なぬいぐるみのストラップがぶら下がってて、歩くとそのクマだかタヌキだかの人形がぶらぶら揺れます。私の母校は、これといった特徴のない私立高校です。公立の学校の先生は、服装については結構ラフだったりすることも多いみたいですけど、うちでは男の先生は大体みんなきちっとしたスーツ姿です。一応スーツを着てはいるけどネクタイは締めていなくて、変なぬいぐるみのぶら下がったウエストポーチを身につけて廊下を歩くその先生の姿は、遠目から見てもすごく目立ちました。

 そういう目立つ人だったから、私はその人のことをずっと前から知っていましたけど、授業を受けたのは高2になってからです。その人の授業は、見た目のインパクト以上に強烈でした。

 教科書の文章を批判するんです。

 これを読んでくれているあなたの学校の国語の先生がどうだったかはわからないですけど、少なくとも私はそれまで、学校の教員が教科書に書かれてることを否定するのを見たことがありませんでしたし、私の学校にはその人以外にそういうことをする教員はいませんでした。


 「この文章、最初は環境破壊を止めるために大量生産・大量消費の社会のあり方を見直そうという話をしていて、それは良いんだけど、最終的に大量生産・大量消費をやめれば人間が人間らしく生きられるようになる、みたいな話にいつの間にか話題がすり替わってるんだよね。これは結構悪質な論展開だと思うな」


 「要するにお互いの文化を認め合いましょうってことをこの筆者は言ってるんだけど、その理由が『同じ人間だから認め合わないといけない』っていうところが問題で、異なる文化に属する他者は自分とは“違う”っていうことを理解しないと、認め合うも何もないわけですよ」


 「相手が自分と違うから、異質な他者との対話というのは楽しいのだなんて書いてるけどさ、この人、Twitterじゃ自分を批判する相手のことは片っ端からブロックしてるんだよな。そんなに対話が楽しいならTwitterのクソリパーとも対話すればいいのにな」


 先生はいつもこんな調子で、教科書をこき下ろしていました。そういう授業は確かに新鮮ではあって、私たちのクラスは先生のそんな授業を、楽しんでいたような気もします。「ような気もする」というのは、私にとってその経験はあまりにも強烈で、快なのか不快なのか、うまく分類ができないからです。先生の授業は私にとってただただ巨大な衝撃の塊でしかなく、私の全神経はそれらの刺激を受け止めるのに精一杯で、好きなのか嫌いなのかを判断するためのリソースは残されていなかったのです。


 あれから時間が経って、少しだけ余裕を持って当時を振り返ることのできるようになった今だから言えるのですが、先生の授業はあの時の私には刺激が強すぎたのだと思っています。

 私は、小学校でも中学校でも「良い子」でした。親や先生に褒められるのが嬉しくて、親や先生の言うことを守れる自分を誇らしく思ってました。高校でも大学でも、もっともっと良い子でいようと思っていました。そんな私にとって、学校の教科書というのは、とりわけ国語の教科書というのは、私を肯定してくれる聖典だったんです。高校生にもなってそんな「良い子」をやっているのは子供じみていると思いますか?そうですよね。実際、それはその通りだと思うんです。

 高校2年生にもなって、教科書に書かれていることを無批判に鵜呑みにするだなんて、頭を使ってない証拠だと言われても仕方ありません。大人になった今なら、そういう理屈もわかります。でも、私はそれまで、教科書に書かれていることは正しくて善いことなのだと思って17年生きてきたんです。それが否定されるたびに、私は傷ついていました。その時は、傷ついたとは自覚できなかったけど、今ならわかります。私は傷つきました。

 私が幼かったのだ、ということは今ならわかります。でも、それまで正しいと信じていたものを間違っていると突きつけられれば、普通の人は傷つくものではないでしょうか。


 それでも、教科書を批判されるだけだったなら、私もほんの少し違和感を覚えるだけで、先生のことも「ちょっと変わった人」として記憶に残るという程度の話で済んでいたと思います。私にとって決定的だったのは、ある文章の中に「オリエンタリズム」という言葉が出てきたときに、先生がディズニーの『アラジン』の話を始めたときのことです。


 「『アラジン』は典型的なオリエンタリズムだと思うんですよね。あそこに描かれている“アラビア”は、現実のアラブ世界とは似ても似つかない、アメリカ人のアタマの中にある“アラビアっぽい世界”でしかなく、アラジンもジャスミンも、肌の色だけはアラブ人だけど、価値観とか行動原理は完全に白人なんですよ」


 「言ってみれば、アメリカ人が自分たちの主義主張を、アラブ人っぽいキャラクターに語らせている映画が『アラジン』なわけです」


 「『ポカホンタス』なんかもっと酷い。ネイティブアメリカンの女性が白人に恋する。つまり、ネイティブアメリカンも白人を受け入れているんだって言いたいんですよね。白人の男とネイティブアメリカンの女性を、日本人の男と植民地支配されていた時代の朝鮮人女性とかに置き換えて考えてみればいい。それがどれくらい酷いことかちょっとはわかるでしょう」


 私の中で、何かが壊れました。


 私は、子供の頃からディズニーが大好きで、ディズニーの映画を見るたびに幸せな気持ちになっていました。でも、その日以来私は、ディズニーを以前のように楽しむことができなくなりました。

 先生は他にも、宮崎アニメと共産主義の関係とか、ドラえもんは高度経済成長期の日本の象徴だという話とか、半沢直樹は日本が衰退しつつある時代だからこそヒットした作品であるとか、そういう話もしていました。国語の授業というのは、物語を楽しむ感受性を養うものではないのでしょうか。私は、先生の授業を受けて、それまで素直な気持ちで楽しんでいた作品を楽しめなくなってしまいました。


 教科書を信じられなくなって、楽しんでいたものの暗部を抉り出されて、でも先生は、何を信じて、何を楽しめばいいのかは教えてくれないんです。信じていたものが否定されて、楽しんでいたものが否定されて、空っぽな私だけが残りました。

 先生はよく言っていました。自分の頭で考えなさいと。自分の判断に自分で責任を持てるようになりなさい、と。だから教科書も疑うし、楽しいと思った作品の背景にどんな思想が隠されているかを考えないといけないのだと。それを言われたとき、私はまるで「お前は何も考えてない」「周囲に流されてるだけで自分がない」と言われているような気がしました。その通りではないかと言われれば返す言葉はありません。でも、私はそれ以外の生き方を知らないんです。

 私は、教師になるつもりでした。国語の教師になりたいと思っていました。大学でも教職課程は履修しましたが、教科教育法の講座で模擬授業をやっているときに、急に目の前が真っ暗になるような気持ちになって、結局途中で辞めてしまいました。今は、教育とはなんの関係もない仕事をしています。

 あの人が間違っていたとは思いません。最初に言った通り、私は先生を恨んでるわけでも、批判したいわけでもありません。ただ、どうすればいいのかわからないのです。高校生にもなって「良い子」でいることをアイデンティティーにしていた私がいかにも子供だったということはわかります。どこかの段階で、「良い子」から卒業しなければいけなかったのだということもわかります。私の「良い子」は強制的にシャットダウンさせられました。もう再起動することはありません。でも、その代わりにどんな生き方をすれば良いのか、それがわからないんです。

 正解なんかないんだと、先生は言いました。その通りなのでしょう。でも、正解がないという現実を、私はどう受け止めれば良いのかわかりません。不安で、心細くて、怖くて、泣きたくて、でも何をどうすれば良いのかわかりません。要するに頭が悪いんです。頭が悪いから、人に正解を教えてもらえないと何もできないんです。


 この前クラス会がありました。当時のクラスメイトのひとりが、国語の教師になっていました。彼女は、もともと理系志望だったはずですが(数学がすごく得意な子でした)、あの先生に影響されて国語の教員を志したのだと言っていました。

 ここに詳しいことは書きませんが(先生を貶める意図でこの文章を書いているわけではないので)、先生はある出来事がきっかけで私たちのクラスの生徒(特に女子)に蛇蝎のごとく嫌われることになりました。

 彼女は、当時は気が弱くて、それこそ周りに流されてばかりいるような、典型的な「良い子」(ただし、私が大人に気に入られようとする「良い子」だったのに対して、彼女は周囲の友達の顔色を過剰に伺うタイプの「良い子」)でした。だから、あの先生に影響されて国語の教師になっただなんて、昔の彼女であればみんなの前では絶対に言わなかったはずなんです。実際、それを聞いたクラスメイトたちは一様に微妙な反応を示しましたけど、彼女は意に介していないようでした。

 彼女は、みんなが好きなものを好きだと言い、みんなが嫌いなものは嫌いだと言う、そんな女の子だったはずですし、私はそういう彼女の卑屈さを軽蔑しつつ共感を寄せていました。でも、10年ぶりに再会した彼女は、当時とはまるで別人のような、強い意志を持った女性に変わっていて、私は彼女と自分との落差に愕然とするばかりでした。


 先生のやっていたことが正しかったのだということは、今となっては疑う余地もありません。ひとりの生徒を、こんなふうに変えてしまえる人が良い先生でなくてなんでしょう。私が、元々の希望通り、国語の教員になっていたとしても、教え子にそこまで強烈な何かを残すことができたとは思えません。でも、だからこそ、私のこのもやもやした気持ちを、どこに持っていけばいいのかわからないんです。先生が間違っていたなら、恨むこともできます。でも先生は間違ってない。では、間違っているのは私だということでしょうか。そうなのかも知れません。高校生になっても、大学に行ってもその先も、いつまでも「良い子」のままでいたかったと思ってる私は、間違ってるのかもしれません。甘えているのかもしれません。

 でも、これも最近気づいたことなのですが、よくよく見てみると、世の中には「良い子」のまま大人になった人もいるんです。誰かが決めてくれた正解に忠実に従うだけで周りから認められて、満足して生きている人がいるんです。どうして私だけが、「良い子」を辞めさせられて、それでいて別な生き方も選べない、そんな中途半端なところに放り出されなければいけなかったのでしょう。


 先生を恨んでいるのではありません。批判したいのでもありません。ただ、私はどうすれば良かったのか、どうすれば良いのか、それを誰も教えてくれないんです。

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ある先生について。 垣内玲 @r_kakiuchi_0921

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