もろびとほろびて

ナツメ

ほろびの前夜

 橋から足を踏み外しかけてひやっとする。何しろ突貫工事だ、それは誰よりぼくがよく知っている。柵もついているが、歩くときは慎重にならないといけない。前みたいに歩きスマホなんてとんでもない。イヤホンをしている人はたまに見るけど、そもそも歩いていて他人をそんなに見かけない。

 人の生活様式は変わるし、人は変化に慣れる生き物だ。

 靴がずるりと擦ったあたりを見ると、コンクリートの端が削れていた。いや、コンクリートじゃないのかもしれない。コンクリートっぽい見た目の板状の素材。現場では何の何番、とかって呼ばれ方をしているから、この建材が一体何なのかもぼくは知らない。

 その、コンクリート的な灰色の破片は、足元に広がる星空に音もなく吸い込まれていった。



 瞬く星を見下ろして思う。

 この三年は、まさに激動の時代だったと。

 二〇一九年、に年号が令和になり、二〇二〇年には東京オリンピックがあるはずだった。でも、未曾有のコロナ流行で延期。

 そして結局、二〇二一年も、オリンピックはできなかった。おそらく、今後もきっと。


 二〇二〇年一二月二五日。クリスマスがもうほとんど終わりかけた、金曜日の深夜。


 天と地が、ひっくり返った。


 というふうに、ぼくらは感じた。

 実際には、重力が反転した、のだろうか。

 とにかく、ぼくらの足の下には空があった。ぼくらの頭上には地面があった。

 たくさんの人達が空へ、宇宙へ落ちていった。

 本当に突然のことで、どうすることも出来なかった。

 生き残った人たちは、建物の中にいた人だ。地面からいられる建物にいた人たちは助かった。高層ビルなんかは途中からポキリと折れて、上の(今となっては下の)階は四角いビルの外観を保ったままに、やはり音もなく落ちていったという。

 ぼくは二階建ての木造アパートの一階にいた。古いけど、木造の分軽かったのか、自分の身体が天井に叩きつけられて、本棚の本とか、ギターとかが大変な事になった以外は無事だった。

 大きい建物も思ったより残っていて、重力が元の半分くらいになっているとわかったのはしばらくしてからだった。上下が逆になった違和感で身体の感覚が違うのかと思っていたが、体重計(これも無事だった)を天井に置いて測ったら、なんと体重二十キロ台になっていた。


 そのことはニュースでも流れていた。

 驚くことに、天地が逆になっても回線はまだ生きていた。電話会社が協力して、どのキャリアでも電波を受信できるようにしてくれているらしい。Wifiも自治体で準備してくれて、ほどなくパソコンも使えるようになった。ぼくはどういう仕組みでスマホが使えるのかよくわかっていないけど、こんな大変なときにまで働いてくれる人のおかげで、ぼくらは「情報」という、現代で一番重要なライフラインを失わずに済んでいる。


 さて、コロナ感染者が増える只中のさらなる天災に、ぼくらは我慢の限界と暴動を――起こしたりは、もちろんしなかった。

 物理的に無理だったこともあるが(地面がないので身動きが取れない)、それにしても、あのときのぼくらはひどく思いやりにあふれていたと思う。

 こういうことになってから、ぼくは初めて、アパートの隣の住人と口をきいた。

 ひっくり返って、頭をしたたか打って、何が起きてるのかわからなくて。まさにその時は、さすがに電波が悪かったのか、アクセスがパンクしていたのか、とにかくスマホもつながらなくて。

 不安で不安でたまらなくなったぼくは、その不安感に押し負ける形で、隣の部屋側の壁を叩いた。


 ……こんこんこん。


 中指の第二関節で、控えめに。三回なのは、二回はトイレのノックだから失礼だとなにかで読んだからだ。デマかもしれないし、こんなときに気にすることじゃないかもしれないけど。

 そもそも、隣が今空き室なのか、人がいるのかすらちゃんとわかっていなかった。だから、返事がなかった場合、そこに人がいないのか、それとも先程打ちどころが悪くて……死んでしまったのか、もわからないことに気がついて、ノックしたことを後悔した。


 コンコンッ。


 それは杞憂だった。小気味いい、短く早いノックがすぐに返ってきた。

「あ、あの、聞こえますか?」

 壁になるべく近寄って声をかける。耳を澄ますと、なにかもごもごとした声のような音は聞こえるが、言葉は全く聞き取れない。

「あの! こっちは聞こえないです! ぼくの声は聞こえてますか!?」

 かなり大きい声で声を張ったが、向こうも、もごもごのボリュームが大きくなっただけだった。この部屋の防音が意外にしっかりしていたことを知った。

 隣に人がいることには安心したけれど、コミュニケーションが取れないのであればあまり意味がない……天井の電気の横にあぐらをかいて困っていると、「おーい、にいちゃん」とさっきよりだいぶクリアな声がした。

 窓の方からだ。

 そうか、と思って窓を開ける。鍵は上下逆で開けづらかったけど、カラカラとガラス戸を引くことが出来た。

 外の空気は昨日と変わらず冷たくて、冬の匂いだった。

「あ、すみません……!」

 窓から身を乗り出す。なぜこういうときって無意識に「すみません」と言ってしまうんだろう。隣の部屋のベランダは当然見えないが、人の気配がする。

「いや、にいちゃん無事だったんだな、よかったよかった」

 ぼくよりいくつか年上そうな、明るい響きの男性の声がした。

 お隣さんは三木さんと言った。びっくりしましたね、なんて他愛のない話をしばらくして、ぼくはそれでかなり気持ちが落ち着いた。

「そうだ、にいちゃん、食い物あるか?」

 三木さんがそう言ったとき、ぼくは一瞬ギクリとしてしまった。すこし古風で堂々としたその喋り方から、勝手に腕っぷしのいい人を想像してしまって(実際会ってみると三木さんの腕っぷしは良かったのだが)……要は、非常用に備蓄している食べ物を取られるんじゃないかと、そんなことを考えてしまったのだ。

「もしなかったらうちにツナ缶と、あと缶コーヒーだったらいっぱいあるから、遠慮せず言えよ」

 三木さんがそう続けたから、ぼくは顔から火が出そうだった。表情が見えなくて本当に良かった。

「……大丈夫です。ぼくも結構備蓄してるんで、足りなかったら言ってくださいね」

 なんとかそう返した。「そしたら上の人らとも話したほうがいいかもな」と三木さんは言った。

 ところで、三木さんが特別いい人かと言われると、もちろん三木さんはとてもいい人なんだけど、ぼくはこの一年、いい人にしか会わなかったと思う。

 上の階……今となっては下の階の人とも話して、避難用に置かれていた縄梯子を使ってみんなで元一階に住むことにした。木造とはいえ、いつ元二階部分が崩壊するかわからないからだ。なるべく危険がないほうがいい。

 みんなの分の食料を集めて、みんなで管理した。二十代から四十代のほぼ初対面の男四人で、ぼくらはそれはそれは穏やかに、当たり前に互いを尊重して生活した。


 電波が復活したら、政府から外に出る方法がアナウンスされた。残っている隣の家と、なにかで橋渡ししろ、というめちゃくちゃな話だった。

 でも、実際問題そうするしかなかった。

 隣の家も残っていたし、その住人もとても優しくて協力的だった。隣は一軒家で、四人家族だった。全員無事だった。

 コロナ禍で在宅勤務の人も多かったし、クリスマスの金曜日の夜でいつもより早く家に帰っているサラリーマンも多くて、その時間外にいた人は例年の十二月の金曜日よりはとても少なかったのが不幸中の幸いだ、と書いてある記事を、その後に見た。

 そうやって家々が蜘蛛の巣状につながっていって、なんとか移動網が形成された。

 多くの人は仕事を失ったが、残った仕事のほうも人が足りなかったし、新しい仕事も生まれていた。今ある手作りの移動網を、きちんとした通路にする仕事だ。

 楽器屋のアルバイトをしていたぼくは、店がつぶれてしまった(物理的には残っているし幸い店長も無事だったが、商品がほとんどおじゃんになったし、今は楽器を買う人もいない)ので、その新しい仕事についた。雇用元は国だ。土木系の仕事は経験がなかったけど、今は経験の有無なんて問うている場合ではない。三木さんはもともとこの仕事のプロフェッショナルで、勤め先が国から委託を受けて管理を任されていた。ぼくはそこで働くことになった。


 ぼくが配属になったのは国立競技場を中心とした、新宿・渋谷エリアだ。

 オリンピックはなくなったけど、オリンピックのために立て直したあの丸く穴の空いた屋根、あそこか今、家がなくなった人たちのための避難所になっている。

 こうなると、あの穴はないほうが良かったと思うが、それでもかなり多くの人を収容できている。

 そこを中心に、橋をかけていく。

 橋といっても、今や地面はないから、支えになる柱がない。デパートのA館とB館をつなぐ連絡通路みたいな感じで、宙に浮いた橋だ。どうしてそんなものが作れているのかぼくにはよくわからないが、言われた通りの素材を運んだり、塗り込んだり重ねたり、知識がない作業員でも作れるように具体化されたマニュアルに沿って、ひたすら橋を作る。

 みんな、一生懸命で、一心不乱だった。

 作業員は国籍も性別も年齢もいろいろだった。やっぱりみんないい人だった。性差よりも年齢の差で、どうしても年齢の高い方は長時間作業が出来ないのだけど、誰もそれに文句を言わなかった。そういう人には体力を比較的使わない作業を回して、また言葉があまりわからない人には、英語ができる人が説明をしてあげていた。ぼくは体力自慢ではないけどまだ若いと言える歳だから、力仕事を積極的にやった。みんなで励まし合って、協力し合った。

 仕事をしていると感謝もされた。橋がないとどこにもいけない。ぼくらはみんなの自由を一手に担っていた。

 誰も声を荒らげることもなく、のどやかだった。たぶん、無意識にみんな、空に飲み込まれていった人たちのことを考えていた。

 確認はできていないけど、ぼくの実家の両親も、あの日夜空に落ちていったんじゃないかと思う。実家はマンションの八階だった。もちろん連絡したけど、既読もつかないし電話も出ない。それが、現象としてはいつもの既読スルーと区別がつかないから、なんとなく「死んだ」とは思えずにいる。

 でも、そういうがいる以上、残った自分たちはより良く生きなきゃという、そういう穏やかな空気がそこかしこにあった。

 人が減って密じゃなくなったからか、それとも重力の影響か、理由はわからないけど、コロナ流行はいつの間にか収まっていた。



 上には地面、下には空という異常な状況なのに、この一年はこれまでになく、ひどく平穏だった、とすら感じる。

 ぼくはそれを概ね心地よいと感じているが、ふとしたときに、言葉にできない焦燥感がお腹の中でもぞもぞすることがある。


 それは滅びの予感だ。


 今ぼくらは、それぞれがそれぞれの役割を最大限全うしている。

 だけど、誰もこの国を、この世界を、立て直そうとは思っていない。現状維持、より悪くならないようにしよう、というのが目下のぼくらの目標だ。

 それが間違ってると思わない。

 だけど、ぼくらはもうすっかり、「ハングリーさ」というものを失ったんだと思う。

 他人を尊重したい。誰かを犠牲にしたくない。

 そういう感覚やセンスが、令和になったあたりから、スタンダードになってきているのではないかと思っている。

 バイト先に来るバンドをやってる男子高校生も、スタバで話している女子大生も、人の悪口なんか言わないで、誰かを茶化すようなこともしないで、真剣に音楽の話や今度の旅行の予定なんかを話している。映画を観てても、悪者が出てこない、悪意の介在しない話が増えてきて、ツイッターとかでも話題になったりする(去年だと「ブックスマート」とか)。

 ぼくはそれを、世界が良くなった、と感じていた。優しくて、穏やかで。

 その、時代の優しさで、ぼくらはたった今も、このどうにかなっちゃった世界でなんとか生きている。

 ただ、こうやって優しく生きていった先にはゆっくりとした滅びがあるのだろう、と、ぼくの腹の奥、みぞおちの奥らへんが時たまそう伝えてくるのだ。

 そんな時、ぼくは三木さんの最初の声を思い出す。隣の家の人達を、仕事終わりに「いつもありがとう」と言ってくれた人を思い出す。


 もし、ハングリーでなければ滅びるなら、うん、滅びるのも良い、とぼくは思う。


 ぼくはその方が人間らしいと思うし、人間として滅びるのは、まんざらじゃない。



 自分で作った橋に立って、星空を見下ろしながらそんなことを考えていた。

 足元にはちょうど半分くらいの月が浮かんでいる。

 ――とはいえ。

 と、ぼくは自分の考えに頭の中で言葉を継ぐ。

 悲観はしてない。もしかして、人間は滅びずに、優しいまま栄えられるように進化するかもしれない。

 少なくとも、足元に星空が広がっているのはぼくにとってはじめての、あたらしい経験だった。あたらしいことがあるってことは、まだ変わる余地があるってことだ。

 色んなものを飲み込んだその空は、それでもやっぱり、綺麗だった。

「さて」

 一二月の夜はさすがに冷える。帰りにコンビニに寄ろう。帰り道の途中にある恵比寿ガーデンプレイスの一階のファミマは、なんとまだやっているからすごい。

 あれから今日でちょうど一年だから、もしクリスマスケーキがあったら買って帰ろう。

 それで三木さんたちと一緒に、男ばっかりでささやかなパーティーでもしようと思う。

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