星の緑の花の歌(ショート版)

真木ハヌイ

星の緑の花の歌

 僕たちの周りには、ただひたすらに緑が広がっていた。


「なあ、田島よお、俺たちはこのまま歩いて、無事に地球に帰れると思うか?」


 僕の前を歩く、山本先輩は振り返らずに言った。防護服越しのその声はくぐもって聞こえた。


「さあ? そもそもどっちに何があるのかもわからないですし」


 僕は自信なくそう答えるしかできなかった。


 そう、僕たちは遭難者だった。それも、地球ではない、遠くの、とある惑星にたった二人取り残された、かなり絶望的な状況だった。


 僕たちの周りにあるのは、ひたすらに繁茂したツル植物の森だった。元々この星にはなかったものだ。テラフォーミングのために人の手によって持ち込まれ、ごく短期間で星を覆い尽くすほどに成長した、たった一株の生命体だ。


「とりあえず、俺たちは見晴らしのいいところに出るんだ。救助の宇宙船が来たときに、見つかりやすいように」


 山本先輩はきょろきょろあたりを見回しながら言った。その視線の先を僕もなんとなく追ってみたが、やはりどこまでも同じ景色、すなわち、緑の太いツルが絡み合いながら下から上に伸びている光景が広がっているだけだった。


「せめて、どこかで充電だけでもできればいいんだが。防護服のバッテリーがこのままだと……」

「そうですね、そろそろ限界です」


 そう、僕たちに時間はあまり残されていなかった。この星の酸素分圧は高すぎる。それを無害なレベルまで低下させるための防護服が機能停止したとたん、僕たちは酸素中毒で死んでしまうだろう。濃すぎる酸素は、人間には毒なのだ。


 と、そんなときだった。遠くから、何かが聞こえてきた。


「先輩、なんでしょう、この音は?」

「音? 何も聞こえないが?」


 山本先輩には聞こえていないようだった。


「とにかく、僕には何か聞こえるんです。あっちです」


 僕は音のするほうへ歩いた。山本先輩もそんな僕についてきた。次第に音は大きく、はっきり聞こえてきた。それは誰かの歌声のように聞こえた。若い女のものようだった。


 やがて、僕たちは突然、開けた、明るい場所に出た。浜辺だ。ツルはそこには生い茂っておらず、ベージュ色の砂浜に穏やかな波が寄せては返ししていた。目の前に広がる空は淡い紫色で、大小、二つの恒星が輝いていた。海面は深い紺色だ。


 謎の歌は、その海の向こう、沖のほうから聞こえてきた。見ると、遠くに島が見えた。


「もしかすると、あそこに誰か……僕たち以外に、この星に調査をしに来ている人がいるかもしれません。行ってみましょう、先輩」

「でも、どうやって? 海の向こうだぞ?」

「そりゃ、もちろん、泳いで――は、無理ですね」

「この格好じゃな」


 僕たちの着ている防護服は、水に入るようにはできていないのだった。


 だが、そこで、僕は少し離れたところの浜辺に、緑のツルがあるのを発見した。それは森から出て、海を貫くように、まっすぐ島のほうに向かって伸びていた。森に茂っているのよりはずっと太く、色も濃いようだった。


「先輩、あの上を歩けば、あの島に行けるんじゃないでしょうか」

「なるほど」


 僕たちに迷っている時間はなかった。すぐにその太い緑のツルに乗って、島に向かった。


 ツルの浮力は思ったより高く、僕たち二人を乗せても沈むことはなかった。いくらか不安定ながらも、僕たちはその上を立って歩くことができた。


 やがて、僕たちは島に着いた。そこは奇妙な光景が広がっていた。海の向こうからはるばる体を伸ばし、やってきたはずのツルはその島ではがらっと色と形を変えていた。それらはみな、赤や黄色や白や紫の、カラフルな色彩になっていて、同じ色同士で絡み合って、途中から傘のように広がっていた。まるで大きな花だった。そして、それらからは甘い、よい香りがたちこめていた。


「なんだこりゃ?」


 この星に調査をしに来た僕たちでも、首をかしげるほかなかった。こんな光景を目の当たりにするのは初めてだった。


 と、そこでまた、さっきの歌が聞こえてきた。今度はずっと近くから、はっきりと。やはりそれは若い女のもののようだった。


「先輩、こっちです」


 僕は申し訳程度の広さの砂浜から駆け出し、花のように変色したツルの森の中に飛び込んだ。


 少し進むと、女はすぐに僕の目の前に現れた。花の一つの付け根に腰掛けて、歌っていた。若い女だ。亜麻色の髪と瞳の、肌の白い、美しい女だ。身に着けているものは、薄い白いワンピースだけのようで、はだしだった。


「君、どうしてこんなところに? 防護服なしで大丈夫なのかい?」


 開口一番、こう尋ねずにはいられなった。


 だが、言葉が通じていないのか、僕の問いかけに彼女は不思議そうに首を傾げるだけだった。


「おい、田島、そこに何があるんだ?」


 やがて山本先輩も僕のところにやってきた。


「何って、ここに女の子がいるじゃないですか」

「はあ? お前以外に誰もいないが?」

「え――」


 僕は驚いた。


「いや、ここにちゃんと女の子が……」

「いねえよ。つか、いるはずねえだろ。こんなところに女が」

「で、でも、実際ここに――」

「あ、そうか、わかったぞ! お前、幻覚を見てるんだよ」

「幻覚?」

「ああ。おそらく、この花みたいなのが原因だ。俺は前に資料を読んだことがあるんだ。この星に広がっているツルは、元々地球の植物で、それを遺伝子操作して作られたって話だが、その元になった植物の花の香り成分には、わずかだが幻覚作用があるらしい」

「じゃあ、今、僕はそのせいで幻を?」

「断定はできんが、たぶんな。お前の今の行動は、そうとしか考えられんし」

「はあ……」


 幻なのか、この美少女は。僕は心底がっかりした。


 それから僕たちは花の森の中に入っていった。幻の少女も、僕のあとについてきた。


 と、そこで僕はふとあることに気づいた。防護服の腕に付けられた計器を見ると、ここの酸素分圧は、さっきまで僕たちがいた緑の森よりずっと低くなっていたのだ。


「先輩、腕の計器を見てください」

「ああ……って、なんだこりゃ?」


 どうやら山本先輩の腕の計器も、僕と同じ数字を示していたようだった。僕の防護服の計器が壊れていたわけではなさそうだ。


「これなら、防護服なしで普通に活動できるレベルだぞ。なんで、ここだけ……?」


 山本先輩は首をひねる。


「もしかすると、ここだけ気圧が低いんでしょうか?」

「いや、そんな感じはないだろう。酸素分圧がこのレベルまで低下するほどの気圧の変化なら、俺たちの耳がキーンってなるはずだぞ?」

「そうですね。気圧計ではかるまでもないですよね」


 そもそも、ここの海抜は、さっきまでいた緑の森とそう変わらないはずだし。いや、むしろ低い? 浜から花の島の中にわけ入って奥に進んでいった僕たちだったが、その道のりはゆるやかな下り坂になっていた。たぶん、すり鉢状の地形の島なんだろう。


「あ、そうだ! きっと光合成してないんですよ。ここにある花は」

「ああ、そうか」


 山本先輩はポンと手を叩いた。納得したような雰囲気だった。


「先輩、きっとここに生えている花は、酸素を放出せず、呼吸で大気中の酸素を消費してるだけなんです。だから、そのぶんだけ酸素が薄いんじゃないでしょうか」

「だが、それぐらいなら、すぐに他の場所の大気と混ざって、濃度が戻るんじゃないか?」

「それはきっと、ここがお椀みたいな地形だからじゃないですかね? 二酸化炭素は酸素より比重が重いですし」

「つまり、そのお椀の中なら、二酸化炭素が堆積して、酸素濃度が薄くなる、と? なるほど、それなら、確かに一応筋は通るか。この星の風はとても弱いしな」


 あくまで仮説でしかなかったが、僕たちはそうでも考えないと、この状況を理解することはできなかった。


 と、そのとき、幻の少女が僕の前に回りこんできて、防護服を脱ぐのを促すような仕草をした。


「……そうだな。もうバッテリーも残ってないし」


 幻相手に答えるように言うと、僕はもう迷うのもめんどくさくなり、するっと防護服を脱いだ。特に問題なく呼吸できるようだった。山本先輩もそんな僕を見て、同じように防護服を脱いだ。


 身軽になった僕たちは、さらに花の島の奥に進んだ。色とりどりの花を背景に、山本先輩の後ろ頭が見えた。がっしりとした体格の、中肉中背の人で、肌はやや浅黒く、顔立ちは堀が深く、髪型は短い角刈りだ。ひょろひょろで色白の僕とは正反対の風姿だ。


 やがて、僕たちは何もない広場のような、開けた場所に出た。どうやら、そこは、すり鉢状のこの島のちょうど真ん中、底にあたるところのようだった。


「何も、ないか……」


 山本先輩は落胆し、その場にへたりこんでしまった。


「でも、ここなら酸素中毒になる心配はいないですよ。とりあえず、ここでじっといていて、救助が来るのを待ちましょう」

「そうだな、それしかない」


 僕たちはうなずきあい、それぞれ適当に、近くの花の根元に腰掛けた。幻の少女は、そんな僕のすぐ横の地面に座った。


 それから、山本先輩はずっと携えていた通信ユニットをいじりはじめた。


「先輩、それ壊れてるんじゃ?」

「そうだよ。だから、直すんだ」

「直るんですか?」

「わからん。だが、他にやることもないしな」

「はあ……」


 僕は近くでその音を聞いていることしかできなかった。猛烈に手持ち無沙汰で、暇で、孤独だった。


 そして、そんな僕を、幻の少女はじーっと、何か言いたげに見つめてきた。


 僕は「少しそのへんを歩いて様子を見てきます」と山本先輩に言うと、立ち上がり、花の森のほうに行った。幻の少女はやはり、僕についてきた。


「君は本当に何も話せないのかい?」


 歩きながら、幻の少女に問いかけてみたが、やはり返事はなかった。不思議そうな顔をしている。単に言葉が通じていないようだった。


「山本先輩はアレを直すって言ってるけどさ、僕は無理だと思うんだよ。だって、あんなに何もかもぐちゃくちゃになっていたんだから」


 もはや相手がもの言わぬ木石でも、幻でもよかった。今は話を誰かに聞いてほしい気分だった。


「僕たちは、少し前にこの星に調査に来たんだよ。この星を覆いつくす緑の巨大な植物の実態を調べにね。あれは人工的に作られたもので、もともと酸素がないこの星の大気を、地球のそれに近づけるための、いわば装置なんだ。そして、装置だから、決められた時間に活動を終えるはずだったんだ。でも、ここに根付いたやつは、あらかじめセットされた時間になっても、枯れる気配がまるでなかった。どんどん巨大化して、おかげで星の酸素濃度は急上昇。人が住むってレベルじゃなくなってきた。そこであわてた宇宙開発会社が派遣した調査員が、僕たち二人ってわけなんだ」


 僕は幻の少女に説明した。彼女はこくんとうなずいた。


「調査は最初は順調だった。でも、きのう、野外調査を終えて、ベースキャンプにもしている宇宙船に戻ったら、そこはもう、緑のツルがひたすら生い茂っていて、ぐちゃぐちゃになっていたんだ。すごい速さで成長したんだろうね。僕たちの宇宙船はツルに押しつぶされて、大破していたし、中にもツルが侵入していて、ほとんどのものは使えなくなっていたよ。あらゆる精密機械をはじめ、ちょっとした小物や、水や食料ですら、ね」


 あれは、本当にぐちゃぐちゃとしか言いようのない、絶望的な有様だった。


「だから、僕たちはほとんど着の身着のままで、そこを後にした。どこか、見晴らしのいいところに出て、救助を待とうって思ってね」


 今までの経緯を話し終えると、少しだけ気が楽になった。


 だが、そこで急にお腹がすいてきた。僕たちは昨日から何も口にしていなかった。


「せめて水だけでも見つけないと……」


 あわてて周りを見回したが、川や池などは近くにないようだった。どうしよう。このままじゃ、僕たちはすぐに干からびてしまいそうだ。


 と、そこで幻の少女が僕の前に回りこんできて、近くの花の中を指差した。何だろう。見てみると――その奥底には蜜がたまっていた。もしかして、これは……。そっと手を伸ばし、その蜜を指ですくってみた。とろっとしていて甘い香りがする……。僕は我慢できなくなり、思わず指についた蜜を舐めた。甘い! 抜群に美味い! 夢中でそれを舐めとった。


「これは大発見だ! 僕たちは飢え死にせずにすむぞ!」


 僕は大いに感動し、ただちに回りの花という花から蜜を吸って回った。そして、お腹いっぱいになったところで、山本先輩のところまで飛んで行き、蜜のことを教えた。


「おお! そいつはでかした! 大発見だな!」


 山本先輩もすぐに花の蜜を吸いに走っていった。そして、しばらくして、満腹満腹といった顔で戻ってきた。


「田島、ここなら俺たちは死なずにすみそうだな」

「そうですね。救助が来るまで、ここでじっとしていましょう」


 僕たちは心底ほっとした。


 だが、やることがある山本先輩はともかく、僕はやはり、ただ暇をもてあますだけだった。結局、僕はまた一人で花の咲き乱れる島を歩くほかなかった。幻の少女を連れて。


「君は本当に幻なのかい?」


 少女に向かって何度も尋ねたが、彼女はこの質問だけは肯定も否定もする様子はなかった。他の質問には、時にうなずいたり時に首を振ったりで、わりと明確に反応するわけなんだが。


「まあいいや。今は僕一人なんだから、僕が存在を認めれば、それは成立するんだよ、きっと」


 そう言って、僕はもう彼女の正体について考えるのをやめた。周りに咲く花はサイズこそおかしいが、色とりどりできれいだし、蜜は甘くて美味しいし、その上かわいい女の子が近くにいるんだ。これ以上、何を望むって言うんだろう? むしろ、楽園じゃないか……。


 そんななか、やがて地球時間換算で数日が過ぎ、山本先輩の作業が終わった。なんと、あの通信ユニットが直ったというのだ。しかも、運よく、この星の近くを航行する宇宙船と連絡が取れたらしい。


「やったぞ、田島。すぐに救助用の無人小型ポッドをここに投下してくれるらしい!」

「本当に? 僕たち、助かるんですね!」


 と、僕は喜んだが、よく見ると山本先輩はなんだか素直に喜べないような、微妙な顔をしている。


「何か問題でもあるんですか、先輩?」

「ああ、実はその救助用のポッドは今は一人用しか用意できないらしい」

「え? 救助ポッドに乗れるのは一人だけ?」

「そうだ。だから、俺たちのうち、どちらかはまだここに残ることになる……」

 僕たちは顔を見合わせた。一瞬、気まずい空気が流れたが、僕はすぐにこう言った。

「じゃあ、先輩が先に行ってくださいよ。僕はここに残ります」

「え? いいのか?」

「はい、だって、先輩が直した通信ユニットで呼べた救助ポッドじゃないですか。先輩が先に使うのが当たり前でしょう」

「そうか、すまん! ありがとう、田島!」


 山本先輩は僕の手を固く握り、深く頭を下げた。


 それから約十二時間後、いよいよ救助ポッドが近くに落下してくることになり、山本先輩は防護服を着て、島の中央の広場から浜辺のほうに去っていった。僕は広場から動かずに、手を振り、彼と別れた。


 少女はそんな僕の顔を、何か言いたげにじっと見ていた。見送りに行かなくていいのか、という顔に見えた。


「いいんだよ。どうせ先輩について行っても、僕が救助ポッドに乗れるわけじゃないし」


 今は先輩が僕宛の救助を手配してくれるのを待つしかない。


 だが、座り込んだまま空を見上げ続けても、一向に救助ポッドがこの島の近くに投下されてくる気配はなかった。変だな。予定の時間がズレているのだろうか。


 と、そのとき、ずっと僕の隣に座っていた少女は立ち上がり、山本先輩が残していった通信ユニットの前に行った。そして、それをじーっと見つめ始めた。


「そうだ。予定が狂ってるとしたら、宇宙船から何か連絡が着てるかもしれない」


 僕ははっとして、あわてて通信ユニットに飛びついた。


 だが、操作パネルをさわったとたん、側面のプレートが外れ、中の基盤がむき出しになった。そこには緑のツル植物の細かいヒゲ根がびっしりと絡みついていた。


「どういうことだ? 先輩はこれが直ったと言っていたのに……」


 わけがわからなかった。だが、そこでふと、この島に充満する花の香りは、幻覚作用があるということを思い出した。


「まさか、先輩は幻覚のせいで、これが直ったと勘違いして?」


 僕はあわてて島の浜辺に行き、山本先輩を探した。きっと、今頃砂浜で、一人途方にくれているころだと思ったのだ。


 だが、僕が見つけられたのは、少し離れた沖合いの波間に浮かぶ山本先輩の体だった。一目散にそっちに泳いでいき、浜に引き上げたが、防護服の中は海水でいっぱいで、山本先輩の体もすっかり冷たくなっていた。


「先輩、しっかりしてください!」


 人工呼吸と心臓マッサージを繰り返しながら叫んだが、山本先輩が息を吹き返すことはなかった。


「そんな――」


 僕は砂浜の上に崩れ落ちた。ショックと絶望で頭が割れそうだった。


 ただ、どうして山本先輩がこうなってしまったのかは、なんとなく想像できた。彼はきっと、海のほうに、あるはずのないものを見たんだろう。だから、そこへ向かって行っただけなんだ。


 僕もいつか、この島の花が見せる幻に殺されるんだろうか?


 ふと、顔を上げ、僕の近くに立っている少女を見た。彼女は心配そうな顔で僕を見下ろしていた。


「君は僕を殺すかい?」


 ゆっくり上体を起こしながら尋ねたが、幻かどうか尋ねたときと同じように、彼女は肯定も否定もしなかった。その代わり、僕のすぐ近くにやってきて、しゃがんで、僕の顔についた砂を払っただけだった。


「変なもんだな。まるで君が本当にここにいるような感じだ」


 頬に触れる彼女の手は暖かく、砂粒はきちんと払われて下に落ちているように見えた。どこからどこまで幻で、どこからどこまで本当に起こっていることなんだろう? わけがわからなくて、山本先輩が死んでしまったショックもあり、頭の中がぐちゃぐちゃになっていくような気がした。


 僕はそのまま少女の体にもたれかかり、泣いた。彼女の体はやはりあたたかくて、やわらかくて、心地よかった。


 そして、少したって気持ちが落ち着いたところで、僕はそのとき初めて、防護服なしでまったく問題なく呼吸できている自分に気づいた。ここは酸素分圧が高いところのはずなのに。


「……よくわからないが、体が慣れたのかな、この星の環境に」


 もういちいち考えたり悩んだりするのもばからしかった。


 それから、僕は少女とともに花の島の中に戻った。再び甘い香りに包まれて、体がひどく軽くなったような、ふわふわした気分になった。少女とともに一つの花の根元に腰を落とし、眠った。まどろみの底に落ちていきながら、遠くかすかに、彼女の歌声が聞こえてきた。やさしい、美しい歌声だった。


 やがて目を開けたとき、僕は裸になっていた。僕の隣で横たわる少女もまた、そうだった。驚きはなかった。むしろ、僕たちは本来あるべき姿に戻っただけのように思えた。僕たちは目が合うと、微笑みあい、キスした。彼女の体からは、周りに咲いている花と同じ、甘い香りがした。


 それから僕たちは、二人きりで、ただ穏やかに静かに過ごした。彼女はやはり何もしゃべらなかったが、僕は彼女と肌を重ねていくうちに、だんだんそれがなぜなのかわかってきた。きっと、彼女は言葉という文化を持っていないのだ。ただ、言葉とは違うなにかで僕の意思を読み取っている。それだけなんだ。


 僕はよく、彼女に自分の話をした。地球でどう過ごしていたか、家族の話、会社の話、仕事の話、山本先輩の話……。もの言わぬ彼女の前で言葉をつむぎながら、僕は次第に自分がどんどん空っぽになっていくような気がした。頭の中にある過去の記憶は、もはや僕の感情になんら影響を与えることはなかった。


 そして、一方で、この不思議な花の島の色彩が、僕の中でどんどん鮮明になっていくように思えた。


 僕は少女と二人で、よく島の周りの海を泳いだ。海の中にも、空にも、僕たち以外生き物の姿はなかった。世界はどこまでも純粋で、無垢で、空虚だった。


「それにしても、どうして急に花なんて咲いたんだろう?」


 あるとき、僕はふと少女に尋ねた。尋ねずにはいられなかった。過去の記憶が希薄になっていく中で、その疑問だけが、僕の中でどんどん重量感を増していた。


「花っていうのはさ、繁殖のために咲くもんだろう。色とりどりのきれいな花弁と甘い蜜で虫をおびき寄せ、他の個体の花粉を自分の中に招くためのものだ。でも、ここには虫なんていない。花の中にも花粉なんてない。それに何より、この星にはびこる植物は、たった一つの株でしかないんだ。本来繁殖手段を持たないそれが、何かの間違いで急に子孫繁栄に目覚めたとしても、他の個体が存在しないんだから、せいぜい単為生殖や自家受粉するしかない。花なんて、咲く必要はないんだよ」


 僕がこう言うと、少女はひどく困惑したような顔をした。初めて見る表情だった。


「まあ、そんなこと急に聞かれても困るよな。たぶん、世界のありようの一つ一つに『なぜそうなったか』なんて理由は、いちいち用意されてないんだから」


 それが、僕が発した人間らしい最後の言葉だった。それから、僕はもう何も言わなかった。言葉が口から出てこなかったのだ。けれど、何も不自由はなかった。目の前の少女とは触れ合うだけで気持ちが通じたし、僕たちは全てが満たされていた。


 だが、やがて、僕たちの幸せな時間は終わりを迎えた。島の花が次々と枯れ始めたのだ。


 浜から海の向こうを見ると、遠くの緑のツルの森も同じように枯れ始めているようだった。どうやら寿命のようだ。


 なんだ、少し予定が遅れてただけじゃないか。


 それらの景色に寂しさを感じたが、悲しみや絶望の感情はわいてこなかった。花が枯れるということは、僕も死ぬということなのに。


 そう、花の蜜はもうなかった。僕は次第に衰弱し、やがて動けなくなり、島の浜にうずくまった。少女は変わらず僕のそばにいたが、僕と同じように憔悴しているようだった。僕はうずくまったまま少女にもたれかかり、その豊かな胸に顔をうずめた。


 ああ、そうか、彼女は……。


 少女のぬくもりと、その体からたちこめる甘い香りの中で、僕はようやく気づいた。彼女が何者であるかということに。その答えはとても簡単で、単純で、どうして今までわからなかったのか、不思議なくらいだった。


 そう、彼女はこの島に咲く花、そのものだった。女の子としての姿は、きっと、化身のようなものだったんだろう。


 ややあって、頭上から彼女の歌声が聞こえてきた。静かな波の音とともに聞こえてくるそれはやはり美しかったが、今は少し悲しげだった。そして、僕はまどろみ、それは次第に遠く、かすかな響きになっていった。



 それから約百年後、僕は目覚めた。そこは漁港のようだった。僕は裸で、水浸しで、埠頭に寝かされていた。周りにはたくさんの漁師らしき男たちがいた。


「お、お前、生きているのか?」


 目を開け、上体を起こすと、漁師たちはいっせいにぎょっとしたようだった。話を聞くと、どうやら僕は、ついさっき、海の底から引き上げられたらしい。枯れた植物の葉っぱのようなもので何重にも包まれた状態で、ずっと眠っていたようだった。


 やがて僕は近く病院に運ばれたが、どこも悪くないことは僕自身よくわかっていたので、医師との簡単な問診をすませると、すぐにそこを出た。そして、近くの街を歩き回り、その様子を見た。ここは、かつてあのツル植物がはびこっていた星に間違いなかった。それが枯れ、百年ほどの月日を経て、人が移り住んできて、街が開発がされたのだろう。おそらく、大気の酸素濃度もだいぶ薄まっているはずだ。


 やがて、僕は公園に入り、その中央の噴水のところまで行った。周りに人気はなかった。噴水のへりに腰かけ、空を見上げた。今は紫色だった。かつて、少女と一緒に何度も見た色だ。


 僕はそこでふと、右手の親指を噛んでみた。傷口から甘い花の香りがした。そして、それを噴水の中に浸してみた。すぐに裂けた皮膚の中から、小さなヒゲ根が出てきた。


 ああ、やっぱり僕はもう、かつての僕じゃなくなってるんだな。


 噴水から手を引き上げ、指からはみ出したヒゲ根を引きちぎり、捨てた。傷口はすぐにふさがった。


 そう、僕はもう人間ではなかった。人の形をした植物の種子だった。正確には、珠芽と言ったほうが適切かもしれない。


 僕は自分のやるべきことを知っていた。ここは人が多い。騒々しい。例え、根付いても、すぐに枯らされてしまうだろう。だから、どこか遠くの星に行かないと。できれば穏やかな気候の星がいいな。人がとても少ないようなところで、誰も来ないような島を見つけて、そこで静かに根を下ろすんだ……。


 僕は噴水のへりから立ち上がり、歩き出した。頭の中に、あの少女の歌声がどこまでも響いていた。

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星の緑の花の歌(ショート版) 真木ハヌイ @magihanui2020

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