リーハイム・ジェノサイド(6)
気ぶれのデボラ婆さんの噂は、エルチェたち村の子供の関心の的であった。なんでも、自分のことを帝国の上級貴族の側室だと思い込んでいるらしく、日がな一日そんな面白おかしな空想の花畑ではしゃぎ続ける狂人だというのだ。
浮浪者よろしく汚らしい身なりをしているわけではなく、むしろその高齢にはあまりに不相応ないでたちを好んでいるものだから、余計に変人らしかった。
若いころに患ったのであろう性病のせいか、額や頬にでこぼこの肉垂れができ、鼻先も鉤のように変形している。見えているのかいないのか、濁った左目をぎょろつかせながら、満面の笑みでひときわおしとやかに挨拶をして回る。虫食いの歯列を覗かせながら、ごきげんようと口にする。曰く、お館様の内縁の妻として恥ずかしくないように、とのことらしい。
仕草と風貌の大きなギャップから大人たちは奇妙な老人を敬遠し、エルチェをはじめとする賢しらで小生意気な子供たちは、妄想の海をふわふわ漂ってお迎えを待つだけのかわいそうなゴブリンババァとして認識していた。いずれにせよ近寄り難くはあるが、いたって無害な存在として、デボラ婆さんは受け入れられていたのだ。
身寄りのないエルチェは、村の神父が経営する孤児院で読み書きを習いつつ、院内の農作業を手伝いながら日々を過ごしていた。デボラ婆さんのことは他の子供たちから聞き及んでいたが、いざ初めて目の当たりにすると、いかに男勝りで喧嘩っ早いエルチェとて、仰天するような形相をしていた。
とはいえ驚いたのは初対面のときだけで、二度も三度もすれ違えば、すっかりその風貌にも慣れてしまっていた。ひと月に二度、いつもと同じ時間、いつもと同じ路を辿って、婆さんは教会にやってくる。尼僧や子供たちが育てた野菜を買っていき、村々をぶらぶらしては、郊外にある小さな二階建ての館に帰っていく。
人口わずか三百人にも満たないブルクゼーレの片田舎で、館といえば聞こえはいいが、その正体はろくに手入れのされていない廃墟も同然の建物である。かつては人食いの魔物が住み着く廃墟だと吹聴されていたが、奇妙な婆さんが一人で住み着いたとたん、魔物の噂はぱたりとやんだ。魔物に食い殺された家畜の骸が館のそばで見つかることもなく、子供が一人ずつ攫われていくこともない。奇怪な老婆が災いをもたらすことなど何一つなく、いつも通りの平穏な日常が続いていく。当初こそ得体の知れないババァだと村人たちは警戒したが、前述の通りの無害な生態や、意外なほどの金払いの良さから、人々の考えは軟化していった。
エルチェもまた特段の好意も悪意も向けようがない、そこにただ居るものとしてデボラ婆さんを認識していた。ただエルチェは他の子供と違って、婆さんの語る妄想の内容に、少しばかりの興味があった。貴族の側室が片田舎に流れ着くだなんて、どこぞの御伽話の受け売りだと大人たちは一笑に付すが、実際のところエルチェは、それが嘘だろうが真実だろうがどうでもよかった。
平凡よりやや下回った退屈極まる農村での生活に、少しでも刺激とうるおいが訪れてくれはしないだろうか。孤児院の古びた書庫に収まっている、萎びた童話の本を繰り返し読んだところで、目の前に白馬の王子や魔界の支配者が君臨するわけでもない。村の悪たれどもと日々格闘する一方で、エルチェは時たま突飛な空想に耽ることがあった。そんな冒険心を燻らせて余りあるエルチェにとって、デボラ婆さんとそのオンボロ館は、燃え滾る好奇心の矛先として十分であった。
婆さんが村にやってきて五度目の満月の日。エルチェは月明りにあてられ、夜更けにぱっと目を覚ました。身支度もほどほどに、エルチェは何かに手招きされるかのように孤児院を抜け出し、収穫前の麦畑にはさまる狭い農道をぽてぽて歩いていった。
気づけば、幾度も遠巻きに眺めては退散を繰り返すだけに留めていたあの館が、目の前にあった。こうして間近に観察すると、やはり館と呼ぶにもおこがましい、朽ちかけた木材を積み上げただけのゴミ山のようにも見えるしろものである。
なんとか庇の下に据え付けられていた勝手口らしきドアを見つけ、赤黒く錆びたドアノブをそっと手にした。何の抵抗もなくドアが開くと同時に、ひねったノブがへし折れて地面に転がった。蝶番がみしみし音を立てて、屋内の暗がりがぽっかりと口を開けた。勝手に入り込んだ自分を見たら、あの婆さんはどんな顔をするだろう。梅毒で崩れた顔で精一杯激憤してみせ、圧倒された自分に鉈でも振り下ろすだろうか。日常では味わえない、足裏を震わせる危険が、エルチェの背筋を冷たく、されど甘く撫でまわしていく。見えざる手に背を押されて、エルチェは足を踏み入れた。
勝手口から入ってすぐは物置で、少し歩くと台所らしいスペースに行き着いた。生活臭らしいものは感じない、ただ古ぼけた古民家のにおいしか漂ってこない。リビングにもダイニングにも、人影どころか生活を営んでいた形跡すら見当たらない。ただ調度品のそれぞれが、打ち棄てられるように佇んでいるだけである。老人の一人暮らしには身に余るであろう二階部分の客間も、似たようなものであった。あの婆さんがどこで煮炊きし寝起きしているのか、皆目見当がつかなかった。
一通りの部屋を見回ったものの、収穫らしい収穫はない。なけなしの勇気を奮い立たせた一夜の冒険がこんな結果に終わるのは不本意だったが、同時にこの肩透かしに安心していた。入ってきた勝手口を目指す中、エルチェは闇に慣れた目である発見をした。地下階へ続く下り階段である。錠前の取り付けられた戸が据え付けられていたが、それらはすべて開け放たれていた。二分の程の逡巡の末、エルチェはゆっくりと階段を一段一段踏みしめていった。
二階への階段と同じくらいの高さを降りると、そこには食糧庫らしきスペースが広がっていた。天井は低いが、村の家々に備えられた倉庫に比べればよほど広い。ただ、倉庫にしてはやけに室内はすっきりしていて、四方の壁際に空の木箱や麻袋が点在しているばかりである。そして何より不思議だったのは、光源がほぼ皆無である屋内において、このフロアだけが淡い緑の燐光に満ちていることだった。
緑の光は、ちょうど部屋の中心部に突き立つ、歪んだ円錐型の物体から放たれているようだった。粗い水晶質で構成されたそれはぼんやりと輝きを保ち続けており、神秘的な存在感を誇示していた。ごつごつした円錐型に沿って床板は破られていて、それは地中から一角をほんの少しだけ覗かせているだけのようにも見える。
その巨大な水晶質に跪くように、デボラ婆さんは息絶えていた。もとより機敏な動きが期待できる人間でもなかったが、枯れ木のような四肢がさらに乾ききっているところを見るに、死亡してからかなり経っているようにも見えた。しかしほんの数週間前まで、婆さんはいつも通りの振る舞いを見せていた。死んでからさほどの時を待たずして、こんなカラカラの土塊めいた遺骸になるだろうか。
状況が呑み込めないエルチェの目には、婆さんとは異なる生者の姿が飛び込んできた。
それはエルチェとさほど年の離れていない、小柄な少女に見えた。頭頂から重たげに垂れ下がり、床に広がる真っ赤な髪は、産まれてから一度も鋏を入れたことがないのではないだろうか。飾り気の少ない白のネグリジェを着た彼女は、紺碧の瞳をこちらに向けて言った。
「誰?」
円錐型の放つ光が、薄桃色に変化した。
「あ、ええと……わ、私、別に泥棒しに入ったわけじゃなくて、ただ、その」
きょとんと眼を丸くする少女を前に、エルチェはしどろもどろの弁解を交えながら自分の名を名乗った。幸いながら、彼女は館への侵入を口うるさく咎める気はないらしかった。エルチェが無害だと察した彼女は、さして警戒することもなく柔和な微笑を浮かべてみせた。
デボラ婆さんが面倒を見ていたと思しき赤毛の少女はラウラといい、フルネームを聞くと、どうやら大昔に取り潰されたらしい貴族の家名を口にした。婆さまが婆さまなら孫も孫であると子供ながらに呆れかえったものだった。
「由緒正しいお貴族様が、こんな寂れたくそ田舎に何の用があるっていうの」
息絶えて間もないだろうデボラ婆さんには悪いが、エルチェはそう聞き返さずにはいられなかった。エルチェの問いかけに対して、ラウラはゆっくりと水晶質の円錐形を指さした。
「これ、なんなの? こんなおっきな宝石があるなら、売ってお金にしちゃえばいいのに」
しかしよほど大切なものらしく、ラウラは首を横に振った。
「ボクらは、これを見守っていた。いつかエレシュキガルの姫御子が、もう一度ボクらと手を取り合う、その日まで」
「エレシュキガルって、魔王のこと?」
聖書や神父の説法に登場する異民族の長の名は、エルチェのような子供であっても諳んじられるほどにポピュラーであった。それだけに、ラウラの言はより一層彼女がただの宗教狂いの子であるのではないかという疑念が降り積もっていく。
傲慢にも、かつて人々は神座へ至る不朽の階梯を望んだ。涜神を恥じぬ不埒な人々は、独自の教義と異端の言語を生み出すと、神やその御使にそれと知れぬよう狡知を駆使し、天を弄する塔を築き始めた。ゆえに神は誅罰たる雷霆を振るいて、これを無惨にも打ち砕きせしめた。神は人々の言葉を乱すと、二度とこのような増長と高邁を招かぬよう人々に命じた。ゆえに人々は再び千差の地域に散り散りになり、万別の言葉を用いて暮らすようになったという。
塔を築き神を冒さんとした首謀者の一族は、神によって呪いをかけられた。愛に代わって罰を賜り、祝福でなく呪詛を贈られた彼らはたちまち狂気に憑かれ、理性を取り落とした獣のように振舞いだした。神罰は彼らの王たるエレシュキガルの子らにも及び、青ざめた肌や六肢をもつ畸形が産まれるようになった。やがて彼らは、神の子らからは試練の獣たる【魔物】と称されるようになり、人々との長きにわたる戦いが繰り広げられることとなる。
戦いに終止符を打ったのは、憐憫を抱いた神によって遣わされた勇者であった。かつて崩落した塔の建材より鍛えられた剣を振るい、狂乱に濁る魔王の双眼にふたたび叡智の光を取り戻させた。戦いを終えた勇者は、故郷へと凱旋し、その後は五人の末裔とともに、人魔の共栄と発展のため、その命が尽きるまで寄与したのだという。
文面の通りに解釈すれば形態的人種差別も甚だしい内容であるが、おおよそこういったいきさつの伝承が、升天教のカテキズムとして大々的に流布されている。
「手を取り合うって何? あなた、自分が勇者だって言いたいわけ?」
今度は首を縦に振った。
「叔母さんは、そう言ってた。ベルギエンは、叡智の教義を継いだ家。ベルガエより分かたれた勇者の子供たち。それが……きっと、ボク」
ラウラが水晶質の表面に手を触れると、薄桃色の鉱物はさながらプディングかのように材質を変え、彼女の腕までたやすく咥えこんでしまった。
「人と人を束ねる教義。黎明の花園へと導く小鍵。それを預けられたる勇者が一人」
ややあってから、ラウラは腕を引き抜いた。彼女の手は、刃渡りが身の丈ほどもある剣を握っていた。変色した水晶質と似た淡い紅色に発光していた。
「嘘でしょう」
ラウラの手にする剣の刃を近寄って観察すると、床から突き出した水晶質から少なくない手間をかけて鍛え上げられたようにしか見えない。凪の日の水面のように磨き上げられていて、二人の少女の顔がくっきりと映し出されていた。聖剣だ。語彙の貧しいエルチェの脳裏にはその単語が一瞬で浮かび上がったし、百人の聖職者もまた百人ともこの剣をそう称するだろう。教養や経験にかかわらず、そんな普遍的な印象を与えるだけの威光が、ラウラの振るう剣には確かにあった。
人と魔物に和睦をもたらした叡智の体現たる【聖剣】。
「本当にあなた、勇者なの? 本物の?」
「そう、みたい。これが出てくるようになったのは、つい最近だけど」
唖然としながらラウラの剣と水晶質との間で視線を往復させるエルチェ。
すごい。こんなの、見たことない。まるで魔術、まるで魔法じゃない。感嘆で思考をタプタプに溢れさせながら、エルチェはラウラと同じように自分の手を燐光の中にかざしてみた。
ばちゅんと赤い稲妻が弾け、一瞬の烈しい発光が地下室を満たす。咄嗟に目を閉じたエルチェがおずおずと瞼を見開くと、見慣れている自分の右手は鮮血で真っ赤に濡れていた。鏃のように鋭利な水晶質の破片が、手のひらを貫通していたのである。大粒の血のしずくが床板に垂れる振動を足の裏で感じながら、彼女の神経は右手から発される灼けるような熱さと激痛を認識し始めていた。
ショッキングな光景と痛みから、エルチェは息を呑んだ。あらん限りの悲鳴を喉の奥から絞り出そうとしたその瞬間、傷一つついていない自分の手が突然視界に現れた。痛々しげな重傷を負った手のひらはどこにもなく、床板の血痕も、一瞬の白昼夢かのように霧消していた。
「いまの、見てた? わ、私の手が」
困惑しながら今起こったことの確認をすると、ラウラがひたひたとエルチェのもとへ近づいてきた。いつの間にか、手にしていた長剣は消えていた。
「どうなったの?」
「こ、これ。手のひらに、刺さったの」
「君にはそういうふうに見えたんだ」
「どういうことよ」
「大丈夫。実際に傷つけることはないんだ。これには、人が忘れてしまったものを呼び起こすチカラがある」
それは魔法であり、魔術であり、聖剣。
太古の人々が未だ神魔に近しい存在であった頃、さながら手足の延長かのように行使していたとされる、神々の奇跡の模倣。荒ぶる自然現象を御しえる神技の複製。科学全盛の技術革新によって古文書と御伽話の片隅に追いやられたはずの隠秘の結晶は、大陸の端の農村の地下室で、確かに生き永らえていた。幼いエルチェにはそう見えたし、この事実は慢性的に退屈を抱えていた少女にとってはあまりに刺激に満ち満ちていた。
「【切先】は君の体に呼応した。ボクと同じで、才能みたいなものがあるんだと思う」
ラウラは足元に転がっていたものを拾い上げて、エルチェに差し出した。手のひらを貫いたはずの水晶の欠片が、ふたつに砕けてはいたものの、彼女の手の中におさまっていた。
「君にはきっと、魔法を扱うチカラがある」
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