リーハイム・ジェノサイド(5)

 キングサイズのベッドの上で、ヘレネは恍惚の残滓に喘ぐ女たちに囲まれていた。


 一糸纏わぬ生まれたままの裸体を曝け出し、ある者は自らの指先で快楽の続きを貪り、ある者は紙巻のマリファナとカクテルを交互に愉しみながら更なる忘我を求め、ある者はヘレネのブラウスに縋って、白い首筋に新たな口吻の後をねだっている。灰皿から上り立つ大麻の煙と、ルームサービスの酒類が気化した甘ったるい香りとが部屋中に充満し、常人であればひと呼吸で酩酊しかねないほどである。にも拘わらず、女たちの主であるヘレネの思考はきわめて明瞭であった。


「お手軽でいいよな、お前らは」


 ヘレネが冷たく言い放った言葉に応じて、横たわる少女の一人がびくりと尻を震わせた。


 産まれてこの方、ヘレネは泥酔というものを経験したことがない。酒というものがどれだけ人類に寄り添い、その発展に寄与してきた偉大な発明か、社交の場で講釈を垂れられたことは一度や二度ではない。だが、我を忘れるほどに酔い潰れたことは、一度たりともなかった。味と香りに妙な癖のある、甘いんだか苦いんだかよくわからない色水でしかなく、多少血の巡りが良くなるので愛飲しているだけにすぎない。専ら、携帯しているハチミツやチョコシロップを大量に注いでの飲用であるが。


 ヘレネの肩に指を這わせるエリーゼもまた、彼女の中指と薬指でさんざんに思考をかきまわされた女たちのうち一人である。蕩けて潤んだ瞳孔を、だらりとヘレネへと向けた。物足りなげなエリーゼの高揚した表情は、ヘレネの支配するベッドシーツの上でしかお目にかかることはできまい。当のヘレネは眉根をぴくりとも動かさず、トリュフチョコを口に放った。それを咀嚼しながら、傍らで横たわるノーラの手からブランデーの瓶を取り上げ、中身を口に含む。アルコール度数の高い琥珀色の中で、粘っこく咀嚼されたチョコレートを混ぜ合わせると、ヘレネはエリーゼの唇の中に流し込んだ。舌の先端でチョコの欠片を彼女の構内に擦り込んでやりながら、ヘレネはエリーゼが混合物を嚥下しきるのを待った。


 エリーゼが口腔内のブランデーを飲み干し終わっても、つかず離れずのバードキスは終わらない。折を見て、ヘレネは再びエリーゼの唇を加えこんで、互いの舌と舌を絡め合わせた。やがてくぐもった甲高い呻きとともに、エリーゼは長い四肢をだらしなく弛緩させた。くたくたとしなだれかかるエリーゼの肢体を抱きかかえると、青白いの皮膚の真下で存在を主張する、力強い筋肉の束を感じることができた。


「食器より重いもの持ったことなかったお嬢様は、どこに行ったのやら」


 ここまで付き合わされたこともあり、ヘレネの胸には達成感にも似た心地よい充足の感情が浮かんでいた。


 どこに指を突き立て、耳元でどのように本人の痴態を妖艶に語ってやるか。緊張と期待からひたひたと濡れそぼり充血した彼女たちの感覚の先端を御するのは、至極容易い児戯にすぎない。他者を懐柔することに、ヘレネはさほどの労力も要さない。


 女を悦ばせる方法は、股ぐらをいきり立たせてほら穴からやってくる貴族や、その将兵たちよりも熟知しているつもりである。男という性別がもたらす、性欲に任せるだけの無形の力強さなど、純白のシーツの上でどれほどの役に立つだろうか。体面上こそ紳士を気取り、何かにつけては尻を拭くにも使えない名誉を誇り、女に対しての優越を浅ましく顕示する。ただ醜悪な性器の先端をねぶられるだけで、子犬のように情けなく腰を震わせる哀れな存在は蔑まれこそすれ、ヘレネの親愛の対象になったことなどはない。


 かつて利害関係以上の理由でフェミニストを気取った覚えはないが、ヘレネは異性に特段の価値を見出したことはなかった。万人を平等に見下すヘレネの価値基準は、能力の優劣と美醜によって定まる。その中で異性は、常に醜いものという前提のうえでカテゴライズされてきた。外見的な性質から喚起される嫌悪感に加え、父権主義の最後の砦ともいうべき帝国の男権社会に産まれたことも、ヘレネの異性嫌悪に拍車をかけていた。


 その一方で、同性に肩入れをする性格かというと、これもまた誤りである。ヘレネにとって女とは、どちらかでいえばマシといった程度の存在であり、そもそも異性への反発も『かつて自分を社会ぐるみで蔑ろにしたから』であって、決して男女平等などといった権力均衡の思想に賛同の意を示しているわけではない。明確で即物的なメリットがない限り、ヘレネは性別という括りに帰属するつもりはない。


 ヘレネ・フォン・ヴィッテルスバッハは、ヘレネ・フォン・ヴィッテルスバッハにのみ帰属するのだ。


「お姉さま……?」


 アルコールと接吻の余韻で視界を揺らすエリーゼの声に構わず、ヘレネはベッドから降りた。スリッパを履いて、テーブルの上のグラスを手に取る。溶けた氷を冷水ごと口に放って、ごりごりそれをかみ砕いた。そうして向かった先にあるのは、大きな三面の姿見である。折りたたまれていたそれを開くと、三様のヘレネの姿が映し出される。


 よれたブラウスとショーツだけを肌に纏った物憂げな三人の美女が、ヘレネをまっすぐ見つめていた。彼女たちと目が合ったとたん、きゅんと胸の奥が高鳴った。十八年来の一目惚れは、今なお彼女の感情を何よりも昂らせ、ときめかせていた。周囲を美貌で圧倒する彼女の姿は、彼女自身すらも捕えて離さないのである。かっと頬が赤らんで、口元が緩んでしまう。


「きれい」


 自らの頬に手を添えると、目の前の三人もまた同じように自分の顔を愛撫する。ふさふさの睫毛で飾られたアイスブルーの瞳が潤み、媚びるような下目遣いでこちらを見やる。何の気なしに指先が唇や乳房に触れると、目の前のヘレネも同じように、柔らかな手触りを堪能する。くるりと一回転すると、引き締まった腰に対応した形のよい大ぶりな尻が垣間見えて、遅れて黄金の長髪とシャツの裾が翻る。それら視覚的な美の究極を堪能したのち、ヘレネは初めて酩酊からのため息を零すのだ。


 宿泊する部屋に必ず姿見を用意させるのは、これが理由であった。


 あるいは黄金比、あるいはイデアより表れたる真球、あるいは人体を象って顕現したフィボナッチ数列。有史以前より人類が求め続けた美の最終回答を、ヘレネは鏡や水面を眺めるだけで得ることができるのである。


 口さがない愚か者はこれをナルシストだの自意識過剰だのとのたまい、己がちっぽけな感性でかろうじて語ることのできる表現を使って矮小化につとめるだろうが、ヘレネの美はヘレネ自身が重々理解している。いずれにせよ、この美貌に対面すれば閉口せざるを得ないだろうが。


「本当に、今宵も何より美しくおいでです、お姉さま」


 酒気でふらつく足で歩み寄りながら、エリーゼがヘレネの独語に同意した。緩慢な動きで、エリーゼはヘレネの背をゆるく抱擁する。火照ったエリーゼの裸体は、ついさっきまでシラフも同然だったヘレネの素肌には、焼けるように熱い。ヘレネのわき腹から腕を通して、うっすら腹直筋の浮いた下腹部で両手を結ぶ。黄金に輝く髪束に覆われた首筋に唇を這わせるエリーゼ。背丈が似通った者同士だからこそできる触れ合いだった。


「そこらじゅうでボンクラどもが吹き上がって、あたしの邪魔ばっかする。もう、正直いい加減にしてほしいんだけど」


 自身への陶酔もほどほどに、ヘレネはむき出しの本心を口にした。


「あたしが一体何したっていうわけ? 少なくともあたしが戦争起こしたわけじゃないじゃん。それなのに、なんでこんな目に遭わなきゃなんないの? こんなヘルヴェチアくんだりまで追いやられてさ」


「道理のわからない畜生どもが、智慧とも言えない智慧をつけてしまった弊害ですわ」


 うっとりとした顔つきそのままで、ベッドに横たわるノーラが言った。


「このまえ売られた喧嘩をモスクワが買わなかったら、あの魔物どもがあたしん家を我が物顔で闊歩するわけじゃん。そんなのおかしくない?」


「買うでしょう、きっと。同盟軍も、買わせる前提で突きつけているはずです」


 まどろみにも似たほろ酔いの中で、つとめてエリーゼは至極冷静に呟いた。


「だといいんだけど」


 ソロヴィヨフを前にするよりも、さらにもう一段階砕けた口調でヘレネは続ける。


「ガリアはモスクワがキライ。ブリタニアもモスクワがキライ。でも、魔王軍は違う。あいつらは多分、あんまり戦争する気がない」


「しかしお姉さまは、フリュギアが二国から矢面に立たされるとお考えだったのでは?」


「たぶんフリュギア本国とあのメスガキの考えてることは別だと思う。南下したがるモスクワを、フリュギアが鬱陶しく思わない理由なんかどこにもない。なんとかしてモスクワを北に叩き返したいってのが本音。それに対して、自称魔王と勇者のコンビは被害者面をぶら下げながらの宥和政策で攻めてきた」


「帝国の破滅に便乗するには、またとない機会ですものね」


「あたしさあ。皇帝のケツに角材とか焼けた棒とか突っ込まれたって痛くも痒くもないし、皇女殿下が魔物にレイプされてもなんとも思わないんだよね。で、たぶんそれは魔王様や勇者様も一緒なわけでしょ?」


「帝国を踏み台にしているという点では、お姉さまの仰る通りかと」


「そんなんであの魔王様が聖人君子気取りであたしに勝ち誇ってくると思うと、それがもう耐えらんないくらい辛いわけ。超ムカつく。下げたくもない頭をモスクワの連中に下げたのに、こんな仕打ちってある?」


 くるくるとエリーゼの髪を指に巻き付けて、ヘレネは独りごちる。


「あたしは、あたしにケンカ売ってきた誰ぞが、あたしよりエラそうにしてるのがすごい嫌」


 ヘレネは他人の指図を受けるのが嫌いである。生殺与奪を握られるなど言語道断、選択肢を狭められたり強制されるのも嫌いである。命を繋ぐためならば、プライドを肥溜めへ投げ捨てることに一抹の抵抗すら持たないが、それを強いた相手には、繋いだ命の全身全霊をもって仕返ししてやるのが彼女の道理であった。むろん彼女の嫌悪の矛先は魔王軍だけでなく、半ば味方ともいえるモスクワ軍にも向けられている。


「死んでくんないかな。あいつら全員」


 帝国の。否、このヘレネ・フォン・ヴィッテルスバッハの平穏を乱したすべてのものに、落とし前を付けさせねば気が済まない。負わされた屈辱の三倍の血を流してもらって、ようやく溜飲が下がるというものだ。


 そこへ、騎士装束姿のテクラがノックとともに入室してきた。慣れっこなのか、室内のアルコール臭と淫蕩ぶりを意にも介さず、彼女はただ淡々と報告を口にした。


「ルイバルキン懲罰歩兵大隊第二中隊、指定地域に到着いたしました」

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