リーハイム・ジェノサイド(4)

 モスクワへの人的・物的支援に関するヘルヴェチアとの交渉は、どうやら前向きな進展を得られたようだった。攻め入るわけでもなく、退却するでもない宙吊りのモスクワ軍を延命させるには、これ以上ない後ろ盾である。オスカー国防参事官から直接の言質を取ったわけではないが、改めて彼に自らの置かれた立場を思い出させることに価値がある。実利のある会談だったといえたが、しかし当のヘレネの表情は穏やかなものではなかった。


「なあにが魔王だ。なあにが勇者だ。頭おかしいんじゃねえのかあいつら」


 オスカー参事官の計らいで手配してもらったホテルで骨休めをしつつ、ソロヴィヨフたちは施設内のカウンターバーで酒を酌み交わしていた。ヘレネの不満げな文句を聞き流しながら、ソロヴィヨフはジョッキのビールを食道に流し込んだ。


「あいつらが余計なことしなけりゃあ、あたしたちは今頃ベルリンで祝勝会にしゃれ込めてたんだ。阿呆の皇帝の首を肴にしてさあ。それを寸前になってわざわざ邪魔しに来やがって」


 修道会のいち騎士団を代表する女騎士は、相変わらず皇帝一族に対して一握の憐憫も持ち合わせていないらしい。


 思えば、ほんの半年足らずで遠くに来たものである。文筆家のなりそこないだったソロヴィヨフは今や大尉の位を拝命し、小規模ながら中隊を任されるまでになった。古巣のパタノフ大隊やマニロフ中佐のもとを離れ、訪れたこともなかったヘルヴェチアの地に立っている。そして周りには、帝国を裏切ってモスクワについた女騎士の面々が並んでいる。


 酒の席でこの女たちに囲まれるのは気が引けたので、ソロヴィヨフは新たに部下となった小隊の士官たちも飲みに誘った。だが「ヤクでラリった帝国のメス犬どもの世話役なんかごめんだ」と言わんばかりに、ことごとく無下に断られていた。トカチェンコが後送されてから、ソロヴィヨフは珈琲を振舞う相手を求めて新任尉官たちとの交流を図ろうとしていたが、得体の知れないトンチキ女騎士集団との関与は、彼らに余計な警戒を抱かせるには十分だったらしい。


 結局はひとり寂しく銃後の妹たちへの手紙の草稿を書き連ねては、貴重な紙を丸めて投げ捨てる夜が続いていた。


「上戸のはずなのに、今日のお姉さまは荒れていらっしゃいますわね」


「無理もないでしょう。モスクワ側が窮地に立たされているのは事実ですし」


「モスクワがどうなろうが知ったことか。重要なのは、あたしが愉快で楽しいかどうかだ」


 いよいよヘレネはソロヴィヨフに構わず本音をさらけ出しはじめた。


「裏でコソコソ勇者だ魔王だブツクサしやがって。剣と魔法の与太話以外に趣味らしい趣味ねえのか、糞陰キャどもがよ!」


「フクク……どうどう、お姉さま。持たざる者たちというのは、ないものねだりで自分を慰めるのに人生を空費するもの。それが卑しく見えるのは、我々が真に持てる者だからですわ」


 ヘレネを宥めるのをエリーゼに任せ、テクラは二人のやり取りを微笑ましげに見守っていた。素朴な赤ら顔が特徴で、およそ軍人や騎士には似つかわしくない雰囲気の持ち主であり、なぜ彼女がヘレネなんぞの部下になったのか、今でもソロヴィヨフは想像もつかなかった。


 傍若無人なヘレネや、蒼白な顔つきと奇妙な笑顔で他人を遠ざけがちなエリーゼとは異なり、士官教育を受けた女騎士の中では、テクラ・クラカウは最も親しみやすい性質の人間であった。頭は悪くなく、用兵にも秀でていて、個人の戦闘能力も非常に高い。大柄な有角人の体躯を生かした白兵技能は目を見張るものがあり、士官学校の成績では常にエリーゼと雌雄を争う間柄だったらしい。ヘレネが二人を重用しているのもうなずける話だ。


 エリーゼが槍術のエキスパートである一方、テクラの得手は拳闘術だという。どちらが実戦に即して有能かと問われれば、エリーゼに分があるのは当然であるが、能力的には決してテクラがエリーゼに劣っているというわけではない。逆にテクラには用兵に長ける面があるが、エリーゼが指揮官として無能かといえば、もちろんそんなことはありえない。この優れた二人の騎士に大きな瑕疵があるとするならば、ヘレネなどという史上最大の阿呆人間のもとに仕え、あまつさえ彼女に心酔してしまっていることだといえよう。


「モスクワがどうなろうが知ったこっちゃねぇってのは、俺だっておんなじなんだよな」


 ソロヴィヨフは、配膳されたアイリッシュベルベットのグラスを傾けた。


「大尉までそんなことをおっしゃるなんて、意外ですね」


 そばかす顔をほんのり朱色に染めたテクラは、口汚く愚痴を吐き散らすヘレネたちから目を離して応えた。


「もっと職務に忠実な、模範的モスクワ士官でいらっしゃったかと」


「……よく言うよ」


 テクラと話してみると、彼女は朗らかな気質に似合わず、意外に刺々しい毒を吐くことがわかってきた。ヘレネの部下である以上、かつてパルスベルクでソロヴィヨフがジルキンを謀殺したことを知っているはずである。それを踏まえた上でこの応じ方となると、なかなかに食えない人間であることは、間違いなさそうだった。


「俺が優秀な兵士だったら、雁首揃えてレーゲンスブルクで皆殺しにされてただろ」


「失礼、そういえばそうでしたね」


「そっちこそ、どうしてヘレネなんかに従ってるんだ。あいつそもそもガチガチの差別主義者だろう、あれの部下として働くにあたって、君は何とも思わなかったのか」


「やむにやまれぬ事情があるのですよ、それぞれにね。ただ、決して嫌々ヘレネ様に仕えているわけではありません。それは他の修道騎士たちも、同じだと思います」


 テクラは大ジョッキを傾け、ビールで口を濡らした。


「大尉は誤解されておられるようですが、ヘレネ様は差別主義者ではありませんよ」


「は?」


「差別主義というのは、人種や血統、職業や主義主張の違いで他人を排除したり、権利を制限する理由とした考え方でしょう? 少なくともヘレネ様は、その人が持ち合わせている属性だけで人間性を判断したりはしない方です。有角人の私が今もこうしてお仕えできている点をみれば、おわかりいただけるかと存じますが」


「あれが博愛主義者にでも見えるのか?」


「そこまで極端なことを言うつもりはありませんが……」


「隠す気もないようだからあえて黙ってたがな。原亜エルフオークの村落に火をつけさせた件については、どう説明してくれる? 虐殺と略奪が差別主義の産物でないとするなら、一体なんだ?」


「彼らがそこにいたから、そうしただけ。ヘレネ様ならきっとそうおっしゃるはずです」


「二等国民がいたからか?」


「徴発できそうな誰かがいたからです。仮に貴族にゆかりのある人間だったとしても、可能であれば同じようにそうしていたでしょう。あの時点で帝国貴族の敗北は確定していましたから」


「質の悪い暴君であることは否定しないわけか」


「しかし我々にとっては、命を賭して守るに値する名君です。ヘレネ様にとって他人というのは、美しいか醜いか。面白いかつまらないか。役に立つかそうでないか。醜くとも面白いことに役立てば重用してくださいますし、美しくとも度が過ぎたつまらない無能であれば、容赦なく処断されるでしょう」


 判断基準である美醜とやらが著しくあの女の主観に委ねられすぎているため、とどのつまりはやはり差別主義なのではなかろうか。擁護とも批判ともつかぬテクラのヘレネ評に、ソロヴィヨフは頭を悩ませた。この意見を鵜呑みするなら、あの女はおそろしく自分にとって都合のいい、ふざけた思想の持主ということになる。


 畢竟あの女、人格的にはただのワガママ娘なのではないだろうか。そう仮定すれば、常軌を逸する所業の数々にも説明がつくというものだ。肉体と知識だけは一丁前な反面、倫理観と判断力は七歳かそこらの女児と大差がない。想像力や危機管理能力は人並み以上に備わっているのに、目先の利益や快感を最優先にしてしまう。否、優先できてしまう。


「あそこまで自戒や自律と無縁な性格をしていて、よく今まで生きてこられたもんだ」


「だからいま生きていられている、というのが答えではないですか? ヘレネ様も、大尉も」


「綱渡りの人生なんてまっぴらだ。できることなら、早いとこ戦争なんてうっちゃって帰りたいよ。ジルキンの野郎の言ってた通り、やっぱり軍人なんてガラじゃなかった」


「お辞めになるんですか?」


「できるならそうしたいもんだね。素直に辞めさせてくれればの話だが」


 共犯者としてのヘレネとの関係を思うと、たやすく軍を辞められるかどうか心配であった。


 しかし戦いが終わってしまえば、互いが互いを縛りつつ利用するメリットは薄くなるのではないだろうか。ヘレネは旧帝国体制を知る者として被害者面を決め込めば、皇帝亡き後の国家運営に携われるポジションが待っているだろう。ヴィルヘルミーナ皇女救出の立役者という、道義的に有利な肩書もあの女にはある。そうなれば殊更にソロヴィヨフをジルキン殺しの件で恫喝する理由もなくなる。


 ソロヴィヨフとしてはこのまま阿呆のヘレネをヘタに刺激することなく、さっさと除隊して娑婆の仕事にありつきたいのだが、現状では絵空事に願望を馳せているだけに過ぎない。まずは終戦まで生き残らねば、堅気になんてなれやしないのである。


「なれるものなら、なりたいものですね。カタギ、とやらに」


「勝てば官軍だ。勝ちさえすればなれるだろ、カタギにでもなんでも」


「そうですね。勝てれば、の話ですが」


 もはや三国同盟相手に勝てはしなくとも、痛み分けに終わってさえくれればよい。そういった消極的戦意に満ちているからこそ、こうしてヘルヴェチアまで足を運んで外交工作に勤しんでいるのである。その手段がヘレネの卑劣きわまる恫喝によるというのが、情けない限りだが。


 いつの間にか、横のカウンター席で呑んでいたヘレネとエリーゼの姿が消えていた。気まぐれに菓子でも買いに行ったのか、自室に寝に戻ったか。相変わらず横暴で奔放な女である。


「お連れ様は、戻ってこられないようですね」


 カウンター越しに、バーテンダーが話しかけてきた。エルフにしては小柄で、ともすれば少年とも受け取られそうな風貌の、若々しい男性である。


「そうだな。騒がしくして申し訳なかった」


「とんでもない。ここはお客様にご自身の本音を包み隠さず発散していただく場です、あの女性ほど有効に活用していただけるのであれば、冥利に尽きるというものです」


 そう言ってバーテンダーは、二人の前に多様なフルーツが盛られた皿を差し出した。中央には薔薇の花を象ったオレンジが据え置かれ、その周囲にはキウイ、リンゴ、イチゴといったそれぞれが細やかな飾り切りを施され、パイ生地とともに添えられていた。目を愉しませ、舌を悦ばせる、いずれも技巧の凝らされた職人芸の賜物といってよかった。


「悪いが、頼んでないぞ」


「お連れ様からオーダーをいただいた品になります。切り分けているうちに、お帰りになってしまわれたので。よろしければ、お二人でお召し上がりください。お代はいただきません」


 言うまでもなくヘレネの所業である。今頃注文したことも忘れて、ベッドでガアガア寝こけているのだろう。バーテンダーの好意はソロヴィヨフの良心をちくちく苛んだ。


「そういうわけにもいかないだろう、払わせてくれ」


 ソロヴィヨフが財布から紙幣を取り出そうとすると、バーテンダーはそれを制するように、二枚の名刺をカウンターの上に置いた。


「お支払いには及びません。僕からの個人的なお心づけとさせてください」


 Richard X F Weilburg(リヒャルト・X・F・ヴァイルブルク)

 Le restaurant Gerberoy(レストラン・ジェルブロワ)

 Chef de cuisine(総料理長)


 名刺にはバーテンダーの名前と、かつての彼の役職が記されていた。書かれているレストランの住所は、ガリアの首都パリの一等地を示していた。


「恥ずかしながら、今はこれしか持ち合わせておりませんで」


「あの参事官の縁者だったとは」


 家名のヴァイルブルクというのを目にして、ソロヴィヨフは気づいた。オスカー参事官のホテルとのコネとは、この弟君との血縁を意味するものでもあったのだ。リヒャルトが言うには、このホテルはオスカーと共同で経営しているのだという。


「不束な兄がお世話になっております。失礼なことはございませんでしたでしょうか」


 そうして冷ややかに微笑するリヒャルトの顔立ちは、先刻会談の相手となったオスカーとは似つかないものであった。目鼻立ちといった個々のパーツこそ面影はあれど、皮膚の下の筋肉の動かし方に差があるのだろうか。眼鏡の奥に活発そうな精力を孕んでいたオスカー参事官とは対照的に、リヒャルトの物腰は非常に柔らかい。その一方でグラスやシェーカーを扱う手つきは熟達していて、危なげ一つ感じさせない。その口ぶりや抜け目のない彼の雰囲気から、ソロヴィヨフは機敏な爬虫類のような印象を受けた。


「こちらの意向を前向きに捉えてくれたようで、助かっているよ」


「おかしな粗相がなかったようで、安心しました。二人の兄は女性となると見境がなくなる野獣です。特にさっきの女性のように見目麗しい方を見れば、抑えがききません」


 あの女の本性を知らない人間からすれば、好印象しか抱けないのは当然であった。


「以前から取引してる相手だ、さすがにそんなヘンな気は起こさないだろう」


「どうもエルフという人種は、そういうものらしいのです。子ができにくいのをいいことに、人生の七割近くを発情して過ごしている。僕からすれば、お世辞にも上品とは思えません」


「とても貞淑なお考えをお持ちなのですね」


 テクラの発言にリヒャルトはわざとらしく肩をすくめ、ため息をつくジェスチャーをした。


「惨めでしょう、宗教家でもないのに。おかげで、この年になってもパートナーの一人もいやしない。もっとも、異性の肌とパイ生地にいかほどの差がありましょうか……」


 オレンジ色の薔薇の花弁の上に、リヒャルトは自嘲しながらサクランボをそっと載せた。


「ですがね。ようやく理解できた気がするんですよ。下半身に支配される、二人の愚かな兄貴たちの気持ちが、ほんの少しだけね」


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