リーハイム・ジェノサイド(7)

 此度の帝国・モスクワ間で発生した戦争によって故郷を追われた難民は二〇〇万人を越え、そのうち非猿人種の割合は、全体の八割強を占めていた。


 中立国ヘルヴェチアはガリアと並んで、人道的観点から亡命者の受け入れと保護を国際社会より要請されていたが、開戦当初より議会では亡命者の流入を拒む風潮が強く蔓延していた。フリュギアやその他非猿人種への人種差別が公然と行われているのは、決して帝国内だけのことではない。モスクワの進撃に応じて難民が増加していくにつれ、ヘルヴェチア議会は国境閉鎖を提案、難民の越境をはじめとする移動に制限を課すまでの政策を議決した。だがこの選択は、あまりに【帝国的】がすぎると断じた国内外からの非難に晒され、閉鎖措置は否決に終わったのであった。


 その直後にアミル率いる魔王軍が同盟軍への合流を宣言し、難民対応の最前線たるヘルヴェチア国境沿いの検問所と入国管理局へフリュギア人弁務官を派遣した一連の流れは、反動的と呼ぶにはあまりにスムーズなものであった。


 魔王軍演説からわずか二週間。オーギュスト・ヴァイルブルク参事官主導のもと、帝国領に面する北部国境を通じての、ヘルヴェチア各都市への難民受け入れが開始された。この決定にアミル・カルカヴァン率いる魔王軍の介在があったであろうことは、既にベルン・エルダマール議事堂内の暗黙の了解となっていた。事実として、主要各都市における魔王軍による支援体制は、驚くほど円滑に整えられていった。


 また、かつては難民たちを安価な労働力として扱う目論見のもとで建設された国境沿いの収容所も、ヘルヴェチア政府と魔王軍の共同管理の下で、一時的な宿泊施設として機能していた。亡命してきた難民は、まずは国境付近の出入国管理事務所で身分証明書を提示し、ヘルヴェチアのビザを手に入れることで、初めて亡命者として扱われる。ビザは決して即日発行されるものでもないため、彼らの当面の寝床が求められるのは当然のことといえた。


 安住を求めてヘルヴェチア各地へ旅立つ人々と、衣食住を担保するための支援物資が絶えず行き交うそこは、さながらオアシスの交易地のようであった。


 彼らは当然、列車や馬車でこの山岳国家へ辿り着いた者ばかりではない。帝国での弾圧や虐殺から身一つで免れ、家財はおろか親兄弟を犠牲にして流れ着いたという人々も多い。帝国からの脱出を果たしてからの喜びもつかの間、歓喜の声を挙げられるほどの覇気を持ち合わせる者は、まずいない。彼らは最低限の食事を済ませると、支給された毛布にくるまり、木造宿舎の相部屋で泥のように眠りに落ちる。満身創痍の澱んだ溜息が満ちる暗闇の中、逃亡のさなかで失った家族を思い出してすすり泣く女子供を、果たして誰が咎められようか。


 事務所の一室で待機していたエルチェは、各々が逃亡劇の顛末を噛み締めているであろう宿舎を、窓越しに眺めていた。国境線に目を光らせるふたつの監視塔のふもとに、検問所と出入国管理施設が広がっている。急造されたのであろう元収容所の宿舎は横に四棟並んでおり、それぞれが五〇〇人程度の収容を可能としていた。だが、このキャパシティではいずれあぶれるものが出てくるのも時間の問題である。宿舎建設についても魔王軍が資材と人材を提供する手はずにはなっていたはずだが、支援計画の全容を把握しているわけではないエルチェとしては、想像に難くない将来的な予測に対して、歯痒さが募るばかりであった。


 右肩を固定する包帯は、まだとれていない。負傷の完治を待たずしてここにいるのは、難民たちの護衛という任務という名目あってのことだった。国内外問わず、ヘルヴェチアの難民受け入れに対して異を唱える勢力は少なくない。両軍共同で歩哨の兵が国境付近を張っており、エルチェもまた彼らの安否を案じて志願した次第である。


 エルチェがそうして夜闇に眼を落していると、ノックもなしに部屋のドアが開いた。メイクを落とし、ロリィタワンピースからフォーマルな黒スーツに着替えた、ラウラの姿があった。


「まだ起きてたの」


「なんか、眠れなくて。あそこの人たちのこと、考えちゃうから」


「無理はしないで。肩はまだ完治してないんでしょう。歩哨の数は足りてるから、エルチェも寝たほうがいい」


「この天才魔術師が一晩徹夜したくらいで、どうにかなるわけないじゃない。警備の仕事くらいやらせてよ」


「またそんなこと言って」


「それより、天下のアミル様はどうしたわけ?」


「もう休んでるよ。だからエルチェも」


 デスクの時計は、午後一時を回ったところであった。


「すごいわよね。つい最近まで宮殿に閉じ込められてたっていうのに、あちこち飛び回って、いろんな外国人からの協力を取り付けてる。あれはちょっとマネできないわ」


 自嘲を込めて、エルチェはぼそりとつぶやいた。


「ほんと。あたしには、マネできない」


 あれが本物の偉人、それに連なる人間の持つ、カリスマとでもいうのだろうか。他人を惹きつけ魅了する能力で言えば、あのアミルに比肩するほどのものをラウラは持ち合わせている。聖剣を携え、ブルクゼーレでのし上がり、今では魔王と肩を並べるという幼いころの目標を実現してしまっている。それでは、そこに居並ぶ田舎者のエルチェはどうだ?


「エルチェには、エルチェにしかできないことがあるでしょう」


「そうね。誰かを焼き殺すのが、前より上手くなった気がする」


「エルチェ」


「……ごめん。あたし、ちょっと変だね」


 ラウラの諫めるような一言に、エルチェは恐縮しながら謝罪した。


 ブルクゼーレの天才魔術師エルチェが、いかにその称号をほしいままにするに至ったかというのは、実のところ彼女本人もよく理解できていない。自分を貴族の側室だと思い込んでいるゴブリンことデボラ婆さんの館で出逢った赤毛の少女がきっかけなのは確かなはずだが、波乱に満ちたここ数年の一連の経過は、身寄りのない片田舎のイモ娘には不釣り合いと称するほかない。だが、エルチェのまだ短い生涯の中で、今が最も光り輝いていることは間違いないのだ。すべての始まりは、やはりあの満月の夜の出来事にさかのぼる。ラウラと出逢い、奇妙な結晶の洗礼を受け、エルチェは【魔法】と呼ぶほかにない異能を授かるに至ったのだ。


 それからすぐに、ガリア王立(ガリアは共和制になって久しいというのに)魔法学会を名乗る怪しげな集団が村にやってきて、フリュギアやブリタニアと縁のあるブルクゼーレ義勇軍と引き合わされた。それからは魔王の末裔たるアミル救出を虎視眈々とうかがい続け、諸外国を転々とする日々を送ってきた。時には支援者を募り、時には対立する勢力と戦い、時には好事家に諂い、気づけばすでに二年が過ぎ去っていた。ラウラと出逢ってからの村での平穏な時間は、しかし霞みながらもエルチェの脳裏に今でも焼き付いている。


 エルチェはふと、部屋の壁に立てかけてある、愛用の杖に目をやった。


 村を出てからずっと持ち歩いている、多用途に役立つしろものだ。エルチェとて、当時はフォークロアに思いを馳せることもある年若い少女である。ラウラが聖なる剣を振るうなら、自分は炎を自在に使役する大魔導士、そんなごっこ遊びの延長で、エルチェは自分を見初めた結晶片を、樫の杖の先端に嵌め込んだ。


 結晶片は、エルチェの願いに忠実であった。望まれるがままに火焔を発し、爆炎を生じさせる。この魔法の杖が、日常生活の範疇に収まらない能力を孕んでいるというのは、孤児院の納屋を全焼させてから初めて彼女は実感した。


 そんな手製の杖は、ラウラとともにブルクゼーレを離れた今でも、剣や銃に勝る武器として重宝されていた。エルチェのみが扱える、敵を排する殺人兵器として。


「アミルを見てるとさ、思い知らされるの。あたしがただの田舎者だってこと。あたしはブルクゼーレの言葉しか喋れないし、すごい王様の子孫ってわけでもない。ただ偶然、人を焼き殺すのに才能があっただけ。杖から火を噴いてね……」


「そのアミルにだって、炎を操るなんてことはできない。ボクにもだ」


「神様がくれたにしちゃ、ずいぶん血生臭くて焦げ臭い贈り物よね。あのアミルに初めて会ってから、思い出すのよ。彼女に引換え、あたしが今までやってきたことはなんなんだろうって」


 毎夜のように枕元で思い出すのは、杖の先端から放たれた閃熱によって炎上する山林、建物、そして人々。升天教のカテキズムに記された通り、遍くすべての人類が手を取り合う世界を実現するため、エルチェは少なからずその手を血に染めてきた。


 あの片田舎で退屈にまみれて一生を終えるはずだった、取るに足らないちっぽけな少女を、歴史に名を遺すであろう英傑たちの輪の中へ、この勇者ラウラは誘ってくれた。彼とともに、初めてパリやロンドンの街並みを歩いた。聞いたこともない小国にも訪れた。閣竜との会談に臨んだこともあった。そのどれもが、まるでまばゆく輝く金塊のようにいとおしく、貴いもののように思えて仕方ない。


 面と向かって口にはしないが、目の前の赤毛の麗人に報いるためであれば、エルチェはどんなことだってできそうだった。若気の至りと断じてしまえばそれまでなのだが、世間知らずのエルチェを突き動かすには十分だったのだ。


 その活力の奔流はアミルとの邂逅によって翳りを見せ、度重なる殺戮のフラッシュバックによって、今では萎凋の一途を辿っている。抱え続けていたコンプレックスの開花は、罪悪感と劣等感といったかたちで、エルチェの心に影を落としていた。


「傷が痛むたびに、思い出すの。あの、灼き切った腕のこと」


 アミルを助けるために潜入したリーツェンブルク宮殿で、ラウラとエルチェたちは不慮の遭遇戦を強いられた。銃口を向ける黒衣の集団に、エルチェは殺意を込めて魔法を放った。最前列で発砲した大柄な闖入者は、右半身を火焔に灼かれて倒れ込んだ。同時に、エルチェもまた肩からの予想外の激痛に顔をゆがめた。相討ちになった、そのことを察した仲間の一人が、防御用の魔法能力でエルチェの眼前に不可視の障壁を展開した。エルチェと同じく結晶片に見初められた彼女のおかげで、その場から辛くも脱出することはできた。撃たれた傷も致命的なものではないらしかった。弾丸は貫通していたようだし、処置後の経過も悪くない。


 だが、エルチェの心身はその日から平静を欠くようになっていた。あのとき爆ぜた闖入者の肩口から先が、視界の端で蠢いている、そんな幻覚を見るようになった。指先をひくつかせ、焼け焦げた傷口の痛みで身をよじらせる蛇のごとくにのたうつ腕が、あの日の出来事を連想させるのだ。あの皇女の寝室で、弾け飛んだ腕を実際に見た覚えなど、ないはずなのに。


 こんな芸当を、無能な只人にすぎない自分がしてみせた。只人であるという自覚は、火焔を行使する大魔導士と呼ばれて久しい今なお、頑として彼女の自意識に存在していた。


「ラウラ、あたし、まだ信じられないの。あなたと逢った日からずっと、おかしな夢を見てるみたい。今見てるものが夢だってわかってるのに、頭が目覚めてくれないの」


 ラウラはエルチェに歩み寄り、つとめて優しく彼女を抱いた。ブラウンの頭髪を撫ぜられて、エルチェは過呼吸に陥りかけながらも、言葉をつづけた。


「でも、夢から覚めたくないの。これだけ怖いことが起こる悪夢のはずなのに」


「エルチェ、不安なら休んでくれていい。悪い夢は、ボクとアミルがきっと終わらせるから」


「そうじゃない、そうじゃないのよラウラ」


 崇高な使命のもとで戦うラウラにとって、悪い夢とは万人に不自由を強いる、この戦争のことを指しているのだろう。人魔統一を果たしてこそ、人々は新たな地平へ足並みをそろえて旅立つことができる。しかし、エルチェの不安はそんなマクロな懸念などでは決してない。小心な田舎者が、そんな大それた心配を抱けるはずがないのだから。


「気持ちよかったの。人を焼き殺すと、全身がふわふわした羽毛に包まれるみたいに軽くなって、お腹の下があったかくなった。目の前で燃えてるかわいそうな誰かを見てると、自分はなんてすごい人間なんだって思えた」


 背徳感といびつな快楽に翻弄される感覚が、ラウラに伝わったかどうかはわからない。それでも懺悔するかのように、エルチェは幼馴染の聖人に向けて語り続けた。自分が抱えている許されざる罪は、こんなものではない。一枚一枚の皮をむくように、エルチェは口を動かす。


「アミルや、ラウラの作ろうとしてる国に、きっとあたしの居場所なんてない。みんなが仲良く暮らせる世界で、幸せに生きていける自信がないの。だって、だってあたし」


 ただの人間なんだもん。本当に主張したかった言葉は、消え入りそうな声色で紡がれた。自分の人格は、神から賜った異能には相応しくない。自分は決して、ラウラやアミルのようになれそうにない。異能のもたらす快感の常習性は、エルチェには荷が勝ちすぎていたのだ。


「エルチェが杖のチカラを使うべきじゃないと言うなら、ボクはそれで構わないと思う。そこまで思い詰めてるのに気づけなくて、ごめん」


 言って、ラウラは壁際の杖を手に取った。先端でぎらりと光る水晶片は、エルチェにはぬらぬらと輝く獣の眼球のようにも思えた。連日あれを携えて過ごしていたことを思うと、背筋が凍る思いがする。


「エルチェ。少なくともボクは、君に居場所がないなんて考えたことは一度もない。そしてアミルも、同じように思っているはずだ」


 幼馴染の心からの肯定が、エルチェには心苦しかった。この息苦しい感覚は自分の分身のように感じていた魔法の杖が、他人の手に渡ったからというのもあるのだろうか。理不尽な暴力の象徴ともいえる杖に、ここまで自分が執着しているなんて。エルチェの自己嫌悪はさらに深みを増していく。だが、これでいい。これでよかったのだ。思考の泥濘の中で、エルチェは一抹の安堵を覚えていた。


 杖は、いずれあの魔王に向いていただろう。出逢った頃からラウラの心をとらえてやまない、アミルとかいう偽善者に。


 リーツェンブルク宮殿での作戦以降、何度か謁見するうちに、エルチェはうすうす気づきつつあった。この女が見据えているものは、ラウラとは違うところにある。


 はっきりと言葉で言い表すことができないが、ラウラの向ける敬慕の念を、アミル・カルカヴァンは、さして気にも留めていない。恭しく傅いて指先に口づける勇者を睥睨する魔王の双眼には、砂粒ほどの感情も籠っていなかったのだから。


 これが本当に魔王? 自分とラウラが求めてやまなかった、教義の語る比翼連理の片割れ?


 ともすれば、ラウラは騙されているのかもしれない。魔法や聖剣が仮に実在するとしても、この女が勇者と対になる魔王だとは限らないではないか。魔王とは、畢竟単なる称号にすぎない。フリュギア王族には、まだほかに魔王たりえる人材がいてもおかしくはない。なのにラウラときたら、この大魔導士エルチェの心配も露知らず、魔王かどうかもわからない青肌女に執心なのだ。人魔統一という崇高な使命には、到底見合わない。


 ならばまた探せばいい。探さねばなるまい。そんな女にかかずらうことなく、また二人で旅を続ければいい。それがきっと、もっとも賢く正しい選択だ。あの女は、ラウラにとっての毒だ。【魔物ごとき】が、あたしのラウラに馴れ馴れしくするな。消えてなくなれ。焼いてやる、燃やしてやる、魔物のくせに聖人ぶるな、あたしはいつでもお前を殺せるんだからな。


 この感情が、ものを知らないエルチェの内側から自然と湧き上がってきたものなのかは、エルチェ自身にもわからなかった。だからこそ彼女は怯え、竦み、ラウラに助けを求めたのだ。ラウラの柔和な語り口は、しかしエルチェの心の平穏をもたらすことはなかった。ラウラはアミルに信頼を寄せている。アミルもまた、ラウラからの信に応えるかのように、ヘルヴェチアとの協調政策を勝ち取って見せた。


 アミルへの疑念は、エルチェが抱える嫉妬と独占欲の産物に他ならないのではないか。彼女がラウラに見せた賛同の意が偽りであることを示す証拠などあるはずがない。しかしそれでも、そうと分かっていながらも、初恋の相手が楽しげに未来への展望を語るたびに、エルチェの胸中には、どす黒い重油めいた液体が満ち満ちていくのである。


 アミル! アミル! アミル! アミル! 寝ても覚めてもアミル!


 杖を手放せば、この惨めな嫉みからはきっと解放される。身に余る暴力と縁を切れば、自分に相応しい平穏がやってくる。ただ、それを選べばラウラとの距離はきっと遠ざかる。ラウラは疑いを持つことなく、さらにアミルへの信頼を深めるだろう。


「ねえ、ラウラ」


「なに?」


 退室しかけたラウラは、エルチェからの唐突な呼びかけに応じて振り向いた。


「今度は、いつ会える?」


「明日もベルンで参事官と会談がある。ねえ、エルチェ。エルチェさえよかったら、君も」


「ううん、あたしはいいの。あたしなんかが出てっていい場所じゃ、ないだろうし」


 透明な絶望を両の瞳に宿したまま、エルチェはラウラの手にした杖を見つめ続けた。


「魔王様によろしくね。ラウラ」


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